リューネ③
「おい、呼吸しろ。ゆっくり……そう……イイ子だ」
低く響く声が、ぼんやりとした意識に染み込んでくる。
肺に冷たい空気が流れ込む。
ケホケホと何度も咳込みながら、リューネは周囲を見渡す。
薄暗い……屋内だろうか?
どうやってここへ?
カフェは?
護衛は?
貴方が何故?
頭の中に疑問がぐるぐると渦巻くばかりで、ようやく絞り出した声はひどく頼りないものだった。
「ここ……は……?」
「俺のアトリエ兼住みかだ。結界が張ってある。ここには誰も侵入できないから安心しろ。……ケガは?」
彼はリューネを抱えたままそっとソファに腰を下ろした。
切れ長の瞳が心配そうに覗き込み、リューネの体を目視で確認する。
視線が交わる――
その瞬間、彼の目がわずかに細められた。
安堵を誘うような、優しい表情。
途端、リューネの瞳からポロポロと涙が零れ落ちた。
「こ……怖か……った……」
震える声で絞り出した言葉。
強く、ぎゅっと抱きつく。
鼓動が速い。冷えた指先が、彼の温もりにしがみつくようだった。
彼は何も言わず、ただ背をさすり、ゆったりとした動作で頭を撫でる。
その手は大きく、優しかった。
しばらくそうしているうちに、リューネの震えは次第に落ち着いていく。
「俺はアル。アルと呼んでくれ。お前は?」
リューネの様子を見計らい、アルは穏やかな声で名乗った。
腕の中ではまだ小さく震えていたが、涙は止まっているようだった。
「リュー……ネ。…………この国の……第五……王子なんです……僕なんて……狙っても……何も……ならないの……に……」
クスン、と鼻をすすりながら、落ち着かない視線を彷徨わせる。
アルはゆるりと指を伸ばし、リューネの髪を一房すくい上げると、じっと見つめてぼそっと呟いた。
「……王族ってもっとキンキラしいのかと思ってたんだがな」
「地味だな」
あまりにも場違いな言葉に、リューネは思わず瞬きをする。
その軽い言葉が、張り詰めていた感情を少しずつ解していく。
「あの……アルさんは……どうして、どうやってここに?……さっきの魔法陣はアルさんが発動したのですか?」
「正確に言うと、お前にはもともと三重の防御魔法がかかっていた。始めは防御魔法が発動してた。だが、それだけでは防ぎ切れないと判断して、さらに防御の魔法陣を発動させ、その隙に転移させた」
アルは言葉を選ぶように一拍置いて続ける。
「安全な場所がここしか思いつかなかった。悪いが、今日はもう転移魔法は使えない。魔力を随分消費したからな……一晩寝れば回復する。だから、朝になったら王城まで連れていく。馬車だと城迄半日以上かかるんだよ。お前が消えたせいで城は今頃大騒ぎだろうがな」
リューネは混乱した。
王宮の魔導士でさえ、転移魔法を使える者はいない。
それほどまでに、転移魔法は莫大な魔力と技術を要する。
クスラウド王国の人間で、そこまで魔力を持つ者などいるはずがない。
「俺は海の向こうの国の人間だ。俺の国では国民全員がそこそこの魔法を使えるんだよ。まあ、魔力の量には個人差はあるけどな。それに、お前に危害を加えるつもりはない……というか、俺は攻撃系の魔法を使えないんだよ。王子様を誘拐する趣味もねぇし。偶然その場に居合わせたから助けただけだ……あのカフェ、気に入ってるからな。壊されたくなかったし」
リューネの不安を察したのか、アルは言葉を尽くして説明してくれた。
寡黙だと思っていた男は、大切なことはしっかり伝える。
シルバーグレイの瞳をじっと見つめる――澄んだ瞳だ。
危害を加えるつもりなら、今日でなくとも、今まで幾度もチャンスはあったはず。
「アルさん、僕を助けてくれてありがとうございます。貴方が、今日あの場所に居てくれて本当に良かった……」
ふう、と大きく息を吐き、ゆったりと微笑む。
アルは指の腹でリューネの目元に残った水滴をそっと拭い去り、またポンポンと軽く頭を撫でた。
その掌の感触は、心地よくて、温かかった。