その後のふたり
アルとリューネの婚約から、穏やかな日々が流れるように過ぎていき、気づけばもう一月が経っていた。
この日、リューネはアルのアトリエの一室で、のんびりとした時間を過ごしていた。
アルは転移魔法という便利な能力を持っているせいで、リューネを頻繁に部屋へ連れ込んでは、ほぼ軟禁状態にしていた。
そのせいで、一度レステュユルニに”婚約を白紙に戻す”と脅されてしまい、今ではジュウトやレステュユルニの許可をしっかり得た上で、お泊りをするようになっている。
「アル、このサラダとっても美味しい。今度作り方教えてね」
昨夜はアルと二人でゆっくり過ごしたせいで、リューネは今日は少し体が重かった。
そんな時、いつも甲斐甲斐しく世話を焼いてくれるのがアルだ。
今日のブランチもアルが担当。一緒に食事をするようになってから、リューネは以前よりずっとよく食べるようになった。
というより、今までのリューネの食事量が、男性としては少なすぎたのだろう。
それだけが理由ではないだろうけれど、最近のリューネは以前にも増して肌の調子が良く、体調もすこぶる快調だった。
「ほら、これも食ってみろ。お前の国じゃ採れないフルーツだろ?」
アルが差し出したスプーンには、瑞々しいオレンジ色の果実が乗っている。
リューネはそれをぱくりと口に含み、甘さが口いっぱいに広がると、感嘆の声を漏らした。
「アルと一緒にご飯を食べると、不思議と何でも美味しく感じて……つい食べ過ぎちゃう気がするな」
「何言ってんだ……俺の半分も食ってねえじゃねぇか」
もっと食え、とばかりに、アルはフルーツの皿ごとリューネに押しやった。
食後にはノンカフェインの珈琲とエスプレッソが用意され、二人はそれぞれの香りを静かに楽しんでいた。
その時――音もなく部屋の扉の前に女性が現れた。
扉を開けて入ってきたわけではない。
まるで空気そのものが形を成したかのように、突然、そこに立っていた。
リューネは驚きのあまり、声すら出ない。
「あー、ちょっと待ってろ」
アルは立ち上がり、不思議な雰囲気を纏う女性の前へと歩み寄った。そして、静かに彼女の額へ手を添えそっと瞳を閉じる。
リューネが二度、三度と瞬きをする間に――
女性の姿は陽炎のように揺らぎ、次の瞬間には跡形もなく消えてしまった。
あまりにも唐突な出来事に、リューネはぽかんと口を開けたまま、今目の前で起こったことを理解しようとしていた。
「そうか、お前見るの初めてか。さっきのは#人形__ドール__#と言って、王家の人間なら誰でも使える便利な…人間の形をした人形って所か。魔力で操作してる。さっきのは伝達ドールで親父からの言伝を運んできてくれた。頭に手を乗せるとメッセージが直接意識の奥へ流れ込んでくるような感覚とでもいえばいいか」
リューネには、思い当たる光景があった。
以前、王都のカフェでアルが女性と時折一緒に店を出ていくのを目撃していたのだ。
「ひょっとしてカフェに何度か現れてたりした?」
「お前…気付いてたのかよ。カフェに来るドールは大体母親が連絡寄越せって連絡。さっきみたいに伝達を受け取ると消えちまうんだよ。カフェで急に目の前の人が消えたりしたら面倒だろ?まぁ人間じゃあねぇんだけど」
「そっか……僕、てっきり……」
「てっきり?なに?」
アルがいたずらっぽく微笑みながら、じっとリューネの顔を覗き込む。
「恋人かなって……」
その言葉を聞いた瞬間、アルは迷いなくリューネにキスを落とした。
「……妬いた?」
唇を離した後、アルが楽しそうに尋ねる。
「羨ましかった……。僕はアルに話しかける勇気もなかったし。あの頃は、ただ遠くから見つめて、アルの声を聴けるだけで幸せだったから……」
リューネのかすかな声が、少し切なげに響く。
「もしかして、あの襲撃から俺が助けなかったら、お前とはこんな時間を過ごすことすらできなかったってこと?」
アルはリューネの唇をゆっくりと辿るように舐め上げ、深く求めるような口づけを重ねる。
それに応えるように、リューネは細い腕をアルの首へ絡ませ、もっと深く、と言葉にならない願いを込める。
アルはそのままリューネをソファへ優しく押し倒し、啄むようなキスを幾度も重ねながら、甘い口づけを落とした。
とろけるような時間がゆっくりと流れていく。
――その時、音もなく、再びドールが現れた。
「さっきの伝達は、親父に王宮へ呼ばれていた内容だったな。こいつは……『早くしろ』という催促のメッセージか……。すまんが、少しだけ待っていてくれ。そんなに長くはかからないと思う」
名残惜しそうに、アルはもう一度だけリューネの唇に軽くキスを落とし、ドールの額に手を添えてメッセージを確認した。
やはり、予想通りの内容だったのだろう。低く短く呟くと、次の瞬間――
転移魔法の魔法陣が現れ、彼の姿は跡形もなく消え去った。
アトリエに残されたリューネは、アルの温もりがまだ残るクッションを抱きしめ、ソファの上でくるりと身を丸めた。
(……アルって、恋人いたことあるのかな。キスも、すごく優しくて……あったかくて……ちょっと、慣れてる気がするし)
アルが自分を愛してくれているのは、彼の優しい眼差しや言葉から、十分すぎるほど感じている。
それでも――どうしても、心のどこかに、小さな不安が残る。そんな漠然とした思いに囚われながらも、お腹は満たされ、昨夜は甘い時間を過ごしすぎて眠りが浅かったせいもあり――いつの間にか、まぶたが重くなっていた。
「アルが帰ってくるまで……」
そう呟くと、リューネは静かに、温かな眠りの世界へと落ちていった――。




