リューネの自室
「……ふう……」
リューネは大きく息を吐いた。
まるで何日も空けていたかのように感じる自室。
けれど、本当はわずかな時間しか過ぎていない。
それなのに――なぜこんなにも、すべてが変わってしまったように思えるのか。
ふかふかのクッションを抱え込み、ソファへと身を預ける。
柔らかな布地の感触が、少しずつ心を解いていく。
魔導士様の部屋へ寄り、変身魔法は解いてもらった。
「御無事で安心しました」「お帰りなさいませ」
――そう言って労う者たちに囲まれた。
防御魔法も、念のためだと新たに施してくれる。
リューネは深く感謝を述べ、静かにその場を後にした。
自室へと戻ると、ジュウトが服を用意してくれていた。
アルの服は、誰にも知られぬようにそっと仕舞う。
「他言無用だ」と告げた時のジュウトの微妙な反応に、心が少しざわついた。
――今は、何も考えたくない。
クッションを抱き込む腕に力を込めながら、心の整理がつかぬまま、思考が巡る。
「嘘をつく時は、本当のことを織り交ぜるといいらしいけど、お兄様を誤魔化せたとは到底思えないな……」
レステュユルニに伝えたことをすべて信用してもらえるとは、最初から思っていなかった。
彼は鋭い――きっと何かを察している。
いずれ、アルのことも話さなければならない時が来るだろう。
けれど、今は――
今は、時間が欲しい。
恋心を自覚してしまったばかりで、心が乱れている。
胸の奥が落ち着かず、ひどく鼓動が騒がしい。
「……アルさんが、好き……」
静かに、けれど確かに。
その言葉を思い浮かべた瞬間、どうしようもないほどの感情がこみ上げる。
抑えようとしても、溢れてくる。
クッションをさらに強く抱きしめ、唇を震わせながら小さく呟く。
「アルさん……」
名前を呼ぶたびに、鼓動が速くなる。
そっと唇に触れる。
アルの姿は見えなかったが、確かに彼の吐息と柔らかな唇の感触を感じた。
リューネは目を閉じ、ただ静かにその想いに身を委ねる――。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
「アルさん?」
食事を終えたリューネは、ソファに凭れたままのアルへと視線を移す。
返事がない。
じっと覗き込むと、彼の呼吸はゆったりと深く、完全に眠りへと落ちているようだった。
何度か呼びかけても反応はなく、ただ静かに夢の世界へと沈んでいる。
魔力を使いすぎると、疲れや頭痛が襲ってくる――そんな話を聞いたことがある。
「こんなに疲れるまで、僕の面倒を見てくれていたんだ……」
リューネの胸の奥に、微かな温もりと、ひどく切ない思いが込み上げる。
眠るアルの背と頭の後ろへクッションをぎゅうぎゅうと押し込む。
少しでも快適に眠れるように――それだけを考えて、慎重に動かした。
足も伸ばせた方が楽だろうと、両足を持ち上げてソファへ乗せる。
彼の身体はリューネよりもずっと大きく、想像以上に重かった。
ほんの些細な作業のはずなのに、リューネにとっては大仕事だった。
食べ終えた食器をシンクへ運び、洗おうと試みる。
けれど――どの道具を使うのかが分からない。
仕方なく、そのままにしてリビングへ戻る。
「毛布……欲しいな……」
アルの部屋にはあるだろうか――そう思い、ベッドルームへ続くと思われる扉を開く。
部屋の中央にポツンと配置されたベッド。
リューネはそっと息を飲み、微笑む。
「ふふ……アルさんの匂いでいっぱい……」
温かな気配が空気の中に漂い、思わず目を閉じたくなる。
けれど、視線の先にもう一つの扉があることに気づく。
控えめな好奇心を押さえきれず、静かにその扉を開いた。
「わぁ……」
そこには、アルのアトリエが広がっていた。
狭い部屋いっぱいに床へ散らばる描きかけの絵。
重ねられたスケッチブック、作業台の上には絵の具や画材が並び、棚には多くの書籍が詰まっている。
この場所が、アルの世界なのだ――そう思うと、言葉もなく見渡してしまう。
「……ちょっとだけ……」
リューネはスケッチブックの一つを手に取り、ゆっくりとページを捲る。
大聖堂、広場――風景画が並んでいる。
別のスケッチブックには、犬や猫の動物の絵もあるが、ほとんどは街並みの風景画だった。
もう一冊だけ――そう思い、次のスケッチブックを開く。
その瞬間、リューネの視線が止まる。
「……これ……は……」
何枚かページを捲ると、大型犬と戯れるリューネの鉛筆画があった。
絵の中の自分は、楽しそうに笑っている。
線は荒く、短時間で描かれたものだろう。
「……これって、確か……初めてカフェを訪れた時……?」
記憶が鮮明によみがえる。
カフェの犬用待ちスペースに、お行儀よく座っていた大型犬。
可愛いと思って目を合わせると、彼は嬉しそうに尻尾を振りながらリューネの身体に前脚を乗せ、顔をペロペロ舐めはじめた。
嬉しさとくすぐったさが入り混じり、思わず声を上げて笑った――そんな記憶。
「あの日、アルさん、カフェにいたんだ……」
リューネはスケッチブックをぎゅっと抱きしめる。
その胸の奥に、隠していたはずの感情が、静かに溢れていく。
助けてくれたのは偶然なのは分かっている。
スケッチブックの中のリューネの絵だって、たまたま居合わせただけだろう。
ただ――。
あの大きくて暖かい掌も。
優しい瞳も。
意地悪なくせに甘い声も。
どれも、知らない日々には戻れない。
リューネは息を震わせながら、静かに願う。
「アルさんも、僕と同じ気持ちだったらいいのに……」
胸の奥に、今まで知らなかった痛みを覚え、苦笑する。
スケッチブックを元の位置へ戻し、ベッドルームで毛布を見つけ出し、ソファへ戻ると、アルの身体がひどく冷えてしまっていたことに気づき、慌てて毛布を掛けた。
「……僕が、一緒の毛布に入った方が……アルさん、暖まるかな……」
一緒に眠る理由を見つけたリューネは、嬉しそうにアルの毛布へと潜り込んだ――。




