第20話
(これ、びくともしない……どうしよう……)
それは、社会の授業の後のことだった。
凛は目の前にあるものを見つめ、項垂れた。
その日、社会の授業で使ったのは大型の世界地図だった。
授業で使うから、と事前に準備をするのは男子の日直の仕事だった。
そして、片付けは女子の日直がするようにと告げて、社会の先生は授業を終えたのだ。
階段の上り下りもない、3つ先の教室まで運ぶだけ。
男女どちらでも、それくらいは可能だと判断しての指示だったのだろう。
かつての凛であれば、多少重い、面倒だ、なんて文句を言いつつも、さっさと運んで終わってしまっただろうと凛も思う。
だが、今の凛は本当に体力も筋力も乏しいようで、持ち上がってさえくれなかった。
(男子の日直に頼んでみる……?)
一瞬そんな考えも浮かんだが、凛はすぐにその考えを振り払った。
(だめだめ。それじゃあ、私とペアで日直になるの、罰ゲームみたいになっちゃう)
準備も行ったのに、片付けもなんて。
せっかく先生が男女平等に指示を出したのに、台無しである。
(こういう時、いつもどうしてたんだろう)
凛は今の身体に眠っている記憶を頼ってみた。
すると、こういった場合、凌空に頼んでいる様子がいくつも思い浮かんだ。
(やっぱ、凌空、優しいな)
口調こそ少しぶっきらぼうだったし、事あるごとに手のかかる妹だ、なんて言われていたりもする。
それでも、いつお願いしようとも、凌空は嫌な顔一つせず、優しい表情で答えてくれていた。
今回も申し訳ないけれど、凌空にお願いしてみよう、凛はそう考えた後、ハッとした。
(私、どうして、今まで気づかなかったの……?)
凛はもう一度、目を閉じて、先ほど見た記憶を辿ってみた。
小学生の時の記憶、中学生の時の記憶、本当に、どれも優しい表情だ、と改めて思う。
(凌空、この頃から……私じゃなくて、この身体の持ち主だった凛が好きだったんだ……)
凌空がようやく好きだと気づいた凛は、自分ではない。
凛は、その事実に今さらながらに気づいた。
(どうしよう、私、凌空を幸せにするどころか、凌空の大事な女の子、奪っちゃったんじゃ……?)
できることなら、すぐにこの場で入れ替わってあげたいと思う。
けれど、凛はどうすればこの身体を元の持ち主に戻せるのか、自身はどうすれば元居た世界に戻れるのか、何もわからなかった。
「凌空、あの、ね……、お願いが、あるんだけど……」
凌空はその日、特にクラスメイトと話すことなく、買ったばかりの本を読んで休み時間を過ごしていた。
そんな折に、凛の声が聞こえて、本から視線を放し顔を上げる。
「ん?どうした?……って、おまえ、なんで、んな息上がってんの!?」
座っているため、立っている凛を見上げる形になった凌空は、肩で息をする凛を見てぎょっとして立ち上がる。
「とりあえず、まずは座れ」
凌空はそう言うと、自身と入れ替わるように、凌空の席に凛を座らせる。
凛の顔色は見るからに悪く、凌空は凛と視線をあわせるようにしゃがみこむ。
「どした?保健室に行きたいのか?」
問えば、凛はすぐに首を振った。
「あ、あれ……、運ばないといけなくて」
凛が指差す先にある先ほどの授業で使用した世界地図を見て、凌空は凛のお願いも、凛の息が上がっている理由も察した。
「まさか、自分で運ぼうとしたのか?ああいうのは俺に言えって、いつも言ってるだろ」
知っている、凌空がそう言ってくれる記憶も、凛はたくさん見たのだ。
けれど、それを言われた相手が自分ではなかった、そう思い始めると安易に凌空に頼む気にはなれなくて、なんとか一人で運べないかと格闘してしまったのだ。
もっとも、結果、どうすることもできず、疲れ切っただけで終わってしまったのだけど。
「はこ、べるかな、って……」
「んなわけ、ないじゃん」
はぁ、と凌空のため息が聞こえてきて、凛はぎゅっと目を閉じた。
結局、より迷惑をかけるだけになってしまった気がして、居たたまれなさが募る。
「結芽、ちょっと!」
「なに?」
凌空が呼べば、すぐ傍に凛も居たからなのか、他のクラスメイトと話をしていた結芽はすぐさま凌空の元へと駆けてきた。
「どしたの?……って、凛、顔色悪いよ。具合悪いの?」
「あ、えっと……」
「悪い、ちょっと凛についててやって。俺、あれを片付けてくるから」
あれ、と今度は凌空によって指差された、世界地図。
それを見て、結芽もまた現状をなんとなく察した。
「あー、なるほど。行ってらっしゃい」
「もしヤバそうだったら、保健室に連れてって」
「そんなの、凌空に言われなくても、わかってるわよ!」
凌空ばっかりが凛のことをわかっているような口調が気に入らない、とでも言うように結芽は少し頬を膨らませながら言う。
それを見て、凌空はそれなら安心だと、足早に世界地図を片付けに向かった。
「もー、凛ってば、なんで自分で頑張っちゃうかな。あんなの、凌空に押し付けてやればいいのよっ!あいつ、好きでやってんだから」
呼吸の荒い凛を心配し、その背中を撫でながら、結芽は軽い口調でそう言いながら笑った。
その笑みに釣られるように、凛からも笑みが零れる。
さすがは漫画のヒロインといったところだろうか、凛は一緒にいるだけで気分が明るくなれるような気がした。
凛は持ち上げることすらまともにできずに終わったというのに、凌空はあっという間に世界地図を片付けて戻ってきた。
「どうだ?少しは落ち着いたか?」
「うーん……、さっきより、呼吸は落ち着いた気がするけど……」
結芽は、どうだろう、と首を傾げながら凌空の問いかけに答えた。
その手は未だ、凛の背中を何度もさすっている。
「も、もう、大丈夫だよ。凌空、ホントにごめんね。代わりに運んでくれてありがとう」
凛はそう言って、慌てて立ち上がった。
だが、視界がぐらぐらと揺れるような感覚とともに、身体から力が抜けていく。
「あぶないっ」
凌空と結芽、2人分の声が響くとともに、凛は両脇からしっかりと抱えて支えられた。
「どこが、大丈夫なんだよ」
「これは、保健室行った方がよさそうだね」
凌空と結芽はそうして、互いに頷きあった。
このまま、凛はきっと保健室に運ばれてしまうのだろう、そう感じて凛は慌てる。
「ま、待って、ちょっと立ち眩みがしただけだから……」
そうは言っても、凛は凌空と結芽に支えられている状態で、足にはほとんど力が入っていない。
大丈夫だと、そう訴えたいという気持ちは痛いほど伝わってきたが、凌空も結芽もとてもではないが大丈夫だなんて思えなかった。
「ごちゃごちゃ言ってないで、さっさと行くぞ」
凛がふわりと身体が浮き上がる感覚を覚えると同時に、あちこちから黄色い悲鳴が上がったような気がした。
きっと、凛は今、凌空にお姫様抱っこをされていて、そんな姿もまた凌空はものすごく絵になったのだろうと凛は思う。
当の凛は、今もまだ視界が揺れていて、凌空をきちんと認識すらできていないけど。
「り、凌空、待って。あのね、次、数学でしょ?今やってるとこ、苦手なの。だから、授業受けたくて……」
「あとで俺が教えてやる。それで、いいだろ?」
きっと、本来のこの身体の持ち主であったなら、きっとそれでよかったのだろう。
けれど、今の凛は、そうしたくないために、授業を受けたくて必死なのだ。
(それじゃあ、また、凌空に迷惑かけちゃう。私は、凌空が思ってる凛じゃないのに……)
凌空の親切を受けるべきなのは、幼馴染として凌空と長年関係を築いてきた凛であり、自分であってはいけない。
そう思っても、今の凛の身体はとても弱く、凛の思う通りには動いてはくれない。
悔しさから、凛の瞳から涙が零れた。
「ほら、辛いんだろ。無理すんな」
凛が零した涙を、体調不良によるものだと思った凌空は、そのまま保健室へ向かって歩きはじめる。
一定のリズムで身体が揺れはじめたことで、凛はそのことに気づいた。
「ごめんね、凌空……」
「だから、気にすんなって、いつも言ってるだろ」
凛が謝ったのは、そのことではない。
けれど、今の凛は凌空の知っている幼馴染の凛ではない、などとここで説明するわけにもいかず、凛はただ、ぎゅっときつく目を閉じることしたできなかった。




