第十六話 『均衡を保つ者(イージスバランサー)』
少年は仲間たちと別れ、目的地もなくひた走っていた。息を切らしている体に鞭打って、意味も無く。
ただただ怖かった。僕が『僕』である時、皆の期待に応えることができないことが。皆が望んでいるのは『僕』ではない。
「〈オレ〉だ」
その邪悪で禍々しい声はいつからか心のどこかで聞こえ始め____否、僕が聞こえぬふりをしてきたのだ。それが『死神』との戦いで耳を貸さずには居られなくなったというだけの話だ。
『……時に少年。君に、『受け止める』力はあるか?』
ユースがゴブリン討伐の依頼を受ける時、隻腕で額に痛々しい古傷のある青年にそう問いかけられた。
それは今の今まで、頭の片隅で気にかかっていた言葉だった。『僕は弱い』、それを受け入れるべきなのだ。『受け止める』とは怪我の事でもなんでもなく、『弱さを受け入れる』ことなのだろう。
必要とされているのが『僕』でないのなら、とことん成ってやる。
その末に自分がどう成るのかはまだわからない。けれど、自分が世界を見返した瞬間を想像してしまえば、もう我慢することはできなかった。
ユースはポケットの白銀のペンダントを触り、『堕ちる』ことを決心したのだった。彼自身呪いに身を任せることを『堕ちる』と表現した時点で、己の本意には気づいていたのかもしれない。
それからというもの、ユースはただ独りで『紫龍』の依頼を受注し、血眼になってその情報を冒険者達から集めていた。
◇
時は遡り______疲労から回復し、ユースが目を覚ましたのは『玉石竜』の戦いから半日ほどが経った頃であった。ユースがドラコ一行と袂を分かつ前日の事である。
例の宿屋で目が覚め、遅めの朝食を食べながらユースはドラコから異能力の可能性についての話を聞いていた。
「あなたの能力は簡単に言えば、敵とみなした対象と同等のステータスを得る。通称『均衡を保つ者(イージスバランサ―)』と呼ばれるものだと思うわ」
「同等のステータスを得る……?」
ユースのピンとこない様子に、ドラコは首肯して説明を続ける。
「ええ。それを可能とする魔力源がどこにあるかは不明だけれど、それも含めて『異能力』といったところかしら。問題なのは二つ。一つはそれが一時的なものだという事よ。これはあなたの能力が覚醒型っていう証明ね」
殊勝な面持ちで「そして二つ目は……」と二つの指を立てるドラコに、ユース自身も固唾を呑む。
「あなたが敵とみなせば、どんな対象にも能力が適用されてしまうこと。これが一番厄介と言えるわね」
「厄介……ですか」
改めて自分に異能力があると伝えられ、この世界に転生して間もないユースならばそれだけで飛び跳ねて喜んだだろう。
だが、多大な苦労と葛藤を抱えてきた今の彼にそんな楽観的な振る舞いはできない。自分が進む先にどれほどの暗闇が待っているのか、それすらもわからぬのだ。
「対象が『死神』や『玉石竜』のような強敵ならまだしも、かけだしの冒険者ですら容易に討伐のできるモンスター____例えばゴブリンなら最悪ね」
「……!」
ゴブリンと言えば、かつてユースが『小鬼の階』で大敗を喫したモンスターである。ただ、当時は油断しきっていたのだ。ユースであってもある程度の特訓さえすれば最弱モンスターくらいは難なく狩れる、と想定していた____のだが、ドラコの言うことが正しいのであれば、そう簡単な話でもなくなってしまう。ひょっとすれば、あの時も既に能力が発動していたのかもしれない。
「僕は……一生ゴブリンと互角ってことですか……?」
「……そうなるわね」
持っていたフォークが手から零れ落ちてしまう。それすら気が付かず、ユースの思考は絶望に支配されていた。
何故だかドラコも悲痛な表情をしていたのだが、心優しい彼女はユースに同情してくれているのだろう。
「……まだ確定だというわけではないけれど……あなたと同じ能力を持つ『前例』がいたから、確度は高いと思うわ」
彼女の『前例』という含みのある言葉を、今のユースには気にかける余裕は無い。
『上級』の冒険者でさえパーティーを組まなくては討伐不可能とされているネームドと互角に戦うことができる代わりに、最弱モンスターを狩るのにも一苦労というわけだ。
僕は一生、あのダンジョンでの悪夢を繰り返すことになるのか。
初々しい冒険心をへし折られた絶望、ドラコの前で醜態を晒した屈辱。僕が『僕』である限り、それは終わらぬ悪夢だというのか。
「僕にはとても、『あの時の約束』を果たすことはできそうにありません」
「えっ……!?」
ユースの言葉に、ドラコは心臓の鼓動を強く打ち付ける。否、彼は当時の記憶をなくしているはずだ。そうわかってはいても、その一言はドラコの胸に深く突き刺さった。
「皆さんに付いていけるほどの実力を、あと五日余りで付けられる自信がないんです」
案の定、彼の意図する約束はドラコのそれとは異なっていた。
「おい、ユース。そのことは昨日言ったろ? 俺が無理言っただけだ、何も気にする必要はねえよ。それにお前はもう十分……」
「やめてください、スラッシュさん。僕が未熟なことは今回で改めて思い知りました。そのせいでパナキアさんをも危険に晒してしまった」
「ユースくん……」
「だから、僕は『ある目的』を果たすまで、このパーティーを離れようと思います」
もう、ユースの気持ちは固まっていた。『紫竜』の討伐。それを一人で成せば、自分の能力に順応できるかもしれない。
会計を済ませ、ユースは「お世話になりました」とだけ言って一同に背を向けて宿屋を後にする。
そんな彼の後姿に震える手を伸ばし、目に雫を浮かべる少女が一人。
「やっぱり、間違ってたのかな……」
これで今生の別れになるかもしれない。彼に何も告げることができずに、しかし彼の足を止める権利すらもない。
そして少年は、更なる悲劇を生むことになるだろう『目標』を胸に、少女の想いを振り払って孤独の旅に出たのだった。