【第八夜】 あかりと千歳
「いく? どこに?」
千歳は人差し指を上に向けた。
あかりはつられたように天井を仰ぐ。
それから千歳に視線をもどすと、納得したように肯いた。
「でも、わたしね……ここから、動けないよ?」
「それは……身体があったから。でも、もう逝けるよ」
「……どうしてそんなことがわかるの?」
「それも俺の仕事だから」
「仕事……? ……千歳君は……わたしを……なんていうか、除霊っていうの? そういうこと、しにきた人なの?」
「除霊とはちょっと違うかもしれないけど……。まあ、そうかな」
「……ふうん。そうだったんだ……」
あかりは神妙な顔をして黙ってしまった。
「言わなくて、ごめん」
千歳は腰を深くに折り曲げて、頭を下げた。
嘘をついていたわけではない。
しかし、故意に言わなかったことは確かだ。
あかりは千歳に伸ばしかけた手を、躊躇いながらも引っ込めた。
「……いいよ。顔をあげて?」
千歳がゆっくりと顔を上げると、あかりは真剣な眼差しをしていた。
「ホントに……この部屋から出られるの?」
「出られる」
「……そうかあ。わたし、成仏? できるの?」
「今なら、上がれると思う」
「上がったら? どうなるの?」
「それはわからない。でも、ずっとここに居るよりかは、はるかにいいと思う」
千歳も上げたあとのことは知らない。
たぶん、生まれ変わったりするのだろう。とは思っている。
しかしそれも、「おそらく」という推測にしか過ぎない。
光の道を降ろして彼らを上げるとき、一様に穏やかな表情を見せることだけならよく知っていた。
「千歳君……正直だね」
呆れたというように、あかりの口角が少し上がる。
「あかりさんに……嘘はつけないから」
千歳を見つめているガラス玉のような瞳が揺れた。
ほんの一瞬だけ視線が外れて、再びもどる。
唇がきゅっと動いた。
「あの…………あのね、この部屋に住んでた人、どこにいるのか知ってる?」
「……」
千歳が答えなかったことを、あかりは肯定と捉えた。
「……教えて?」
「たぶん、知らないほうがいいよ」
目を伏せた千歳のその声からは、教える気がないことがわかる。
「……」
「逝くなら、道を降ろす」
「明日まで、待ってもらってもいい?」
「……」
「わたしね、やり残したことがあるの。思い出しちゃった」
「……悪いことは言わない。憑り殺すのはやめたほうがいい。価値のないことのために、わざわざ自分の手を汚すことはないよ」
あかりは一瞬、きょとんとした表情を見せた。
そして、笑いだす。
「……違うよ。そうじゃなくて、デート!」
「……デート?」
今度は千歳がきょとんとする番だった。
「わたしね、高校生のときには施設から独立するためのお金を貯めるためにバイトばっかりだったし、陰キャっていうの? そういうのだったから。……アオハルしてないんだ。だから、デートしてみたい」
「誰と?」
あかりはすっと、千歳を指さした。
「俺?」
「だって、わたしのことちゃんと見えるの千歳君だけだもん」
「……俺でいいの?」
「千歳君がいい。ダメ?」
あかりは祈るように胸の前で両手を合わせた。
お願いをするその仕草に、千歳は一瞬、戸惑って逡巡してしまう。
あかりが、はたと思いついたように訊いた。
「もしかして……彼女さん、いるから?」
「あ、いや、いないけど……そういうの慣れてないから……。どうしたらいいのか、よくわかんないよ?」
「そうなの? 千歳君、カッコいいから女の子と遊ぶの慣れてると思った。そうかぁ。彼女、いないんだぁ……」
あかりは、からかうようにくすくすと笑っている。
「笑いすぎ。別に……カッコよくないし……」
千歳が口を尖らせて横を向いた。
心持ち頬が紅い。
「ごめん、ごめん。わたしもわかんないから、丁度いいね」
「あかりさん……どこに行きたいの?」
「うんとね。やっぱり、デートの定番って映画かな?」
▲▽▲▽▲
「うわーっ! なんか新鮮! 楽しい! あっ、見て! 路上ライブやってる!」
駅近くの公園を通り抜けようとしたときに、ふよふよと浮いていたあかりが足を止める。
さっきからこの調子だった。
かつてのあかりには当たり前の世界だった。
今は今日限りの部屋の外の世界を、思いっきり楽しもうと決めているようだ。存分にはしゃいでいる。
「ちょっと聴いていこうよ」
千歳に絡ませた腕を引く。
あの日、彼の肩に乗せたあかりの腕は、するりと身体を透過して落ちた。
今はコツを掴んだのか、千歳の体質のせいなのか、あるいはその両方か。
あかりの腕は器用に千歳の腕に絡まっている。
アコースティックギターを弾きながら歌っているのは、十代後半から二十代だと思われる女性だった。
ピンク色の長い髪の毛が印象的だ。
千歳には女性の年齢はよくわからない。
彼女らは化粧をすれば、かなり印象が変わってしまう。
ピンク色の髪の彼女の声は、透き通りながらも力強い。
恋の切なさをとつとつと歌い上げていた。
バラードのようでありながらポップなメロディを散りばめて、通りがかる人の足を止めている。
周囲には彼女の歌を聴くために、同世代らしき女の子たちやカップル、親子連れ、わりとさまざまな年齢の人々が集まっていた。固定のファンもいるようだった。
平日の午前中にしてはなかなかに盛況だ。
千歳とあかりは一番後ろで、その歌を聴いていた。
「……いいなぁ」
あかりがぽそりと呟く。
なにが羨ましいのか、誰が羨ましいのか。
千歳はあえて訊かなかった。
正宗には薄情だと言われるかもしれないが。
要因はいろいろとあったにせよ、あかりは自身の選択を、自身で行ってしまった。
「千歳君はさあ、人を好きになったことってある?」
繰り返されるメロディー・ラインをすっかり覚えてしまったあかりが、そのリズムに揺れている。
「まあ……それなりに」
「どんな子?」
「言わない」
「恥ずかしいの?」
「まあ、ね」
それを聞くと、あかりは悪戯っぽく笑った。