【第五夜】 邂逅
マンションの裏側にある駐車場の隅に、白いワゴン車を停めた。
車には紺色の文字で『夜須清掃サービス』と記されている。
『夜須』とはうちの会社の社長の苗字だ。
管理人室を借りて、仕事用の作業服に着替えさせてもらった。
清掃用具一式を抱えて階段をのぼる。
エレベーターは使わない。
これらはマンションの住人に対する配慮になる。
昨日までに、部屋の荷物はすべて運び出している。
すべてが廃棄処分になった。
こういった現場にわいたハエの糞の臭いはとれない。
今日からは一人作業になる。
部屋の洗浄、除菌、消臭、害虫駆除はもちろんのこと、壁や床下の断熱材の張替え、窓や浴室の清掃なども行う。
307号室。
角部屋の扉の前に立って目を閉じた。
視覚が遮断される。
大通りを走る車の排気音、近所の住宅からの赤ちゃんの泣き声、自転車のブレーキの音、どこかの階からの住人の話声、敷地内に植えられた樹の葉擦れ、なにかわからない様々な音。
そういった音が耳の奥に一気に流れ込んだ。
現実は静かではない。喧騒に溢れている。
目を開けて深く息を吐いた。
冷たいドアノブを握り、扉を引く。
荷物を運び出すときにもそうだったが、壁を剥がし、床下の断熱材を張替え、大量の薬品を噴射しているときも、彼女はリビングの隅に膝を抱えて座り、俺の作業の様子を虚ろな瞳でぼんやりと眺めていた。
それでもそのまま仕事を続ける。
なにも見えないふりをする。
彼女が座り込んでいる床面や、背中側の壁紙もお構いなしにバリバリと剥がしていった。
剥がして、汚れと臭いを消して、張替える。
透けた身体を通り抜けるときの、なんともいえない感覚は好きではない。
さすがに、もう慣れはしたけど。
▲▽▲▽▲
数日をかけて作業を終えた。
発見されるまでに時間が経っていたこともあり、臭いは通常以上にしぶとく残った。
最後にもう一度オゾンで脱臭し、薬品を撒いた。
彼女はその様子もぼんやりと見ている。
ただじっと座って。
マスクを少しだけ下げた。鼻で空気を吸い込んでみる。
……よし。大丈夫。
これで作業は完了。
さて……。
次は。
「あのさぁ、そんなんじゃ楽しくないよね?」
彼女の顔を真っ直ぐに見て話しかけた。
半透明なので、後ろの壁まで見事に透けている。
肩までの黒い髪が揺れて、肩がぴくっと動いた。
ゆっくりと視線が上がる。
目が合った。
「……わたし?」
小さい声だ。
それに肯く。
「うそ……? 見えるの……?」
「うん」
「話しも……できるの?」
「うん」
彼女は両手を口に充てた。
驚きの仕草なのか。感激の仕草なのか。あるいはその両方か。
彼女の前にしゃがんで視線の高さを合わせる。
名前は知っている。でも、本人から聞く。
確認のために。
「あのさ、とりあえず、名前を教えてくれないかな? 俺は新名千歳。漢字で書くと、新しいに名前の名、千歳飴の千歳」
「あ……わたし……立原あかり」
立つに原っぱの原、名前は平仮名であかり。そう名乗った。
本人で間違いない。
伏し目がちで話す様子は、どこかおとなしそうな印象を与える。
俺を警戒しているだけなのか、または人見知りなのか。
ニュースで見た顔よりも、年齢を重ねた大人の顔になっていた。
なんでああいうのって、昔の写真が使われるのだろう?
あかりさんの隣に座った。
彼女は不可解なものを見るように、おずおずとこちらの様子を窺っている。
「ずっと……ここにいたんだ?」
薄青く透けた目を見て訊ねた。
あかりさんはただ肯いた。
「寂しかったね」
彼女の両目からは静かにぽろぽろと涙がこぼれた。
そのまま頬を伝って流れ落ちる。
涙は床に辿り着く前にすっと、かき消えてしまう。
「あれ……? わたし……?」
あかりさんは戸惑いながら両手の甲で頬を拭った。
流れる涙にたった今しがた気がついたというように。
気が弛んだのだろう。
ムリもない。
こんなところに一人で残されたのだ。
朽ちていく身体と一緒に。
「いいよ。俺のことは気にしないで。好きなだけ泣きなよ」
涙で潤んだ彼女の目は、まるでガラス玉のようだ。
ラムネの瓶の中のビー玉。
その目が瞑られると突如として顔が歪む。
あかりさんは大きな声をあげて、小さい子どものように泣き出した。
「うううわあああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁん……うううわあああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁん……うぐっ……ううううっ……うわあああぁん」
泣き声に時折、嗚咽が混じる。
だけどその声は俺にしか聞こえない。
物質の世界には届かない。
今までは泣くことも忘れていたのだろう。
「……わたしの……こと、怖く……ないの?」
感情を爆発させてしばらく泣いたあとに、震える声で訊いてきた。
短い言葉だったが途中で何度もすすり上げた。
「怖かったら話しかけないよ。無視する」
半分嘘で、半分本当だ。
仕事とはいえ、中には関わりたくないモノもいる。
正宗には悪いが、そういうときには依頼はキャンセルさせてもらう。
俺よりも腕のいい祓い屋はいくらでもいる。
そっちに頼めばいい。
どちらかというと俺は「祓う」というよりも、話し合い重視だ。
納得して上がってもらう。
だから話の通じないモノは論外だ。手に負えない。
俺もそっちも、両方が手痛い目を見ることになる。
この数日観察した結果、あかりさんはそういったモノではない。と、判断した。
「そっかぁ……。わたし、怖くないんだ……」
ずずっと鼻水をすすり上げて、自嘲的に微笑った。
そのまま、ただ隣に座っていた。
あかりさんは泣き止んでいた。だけど膝を抱えたまま、なにも話さなかった。
なにも訊かなかった。
西日が部屋を満たすころに、締め切った窓の外からは防災無線の帰宅を促すメロディが流れてきた。
家に帰りたくなるような、郷愁を誘う旋律だった。
それを合図にして立ち上がる。
「……帰っちゃうの?」
「うん」
「明日も……来る?」
「来るよ」
笑ってそう答える。
いくらか安心したように、恥ずかしそうに、あかりさんは小さく手を振った。