【第三夜】 三階の角部屋
「口座から家賃の引き落としが出来なくなっている」
「借り主と保証人に連絡がつかない」
「マンションの住民から異臭がすると管理人に苦情が入った」
だからさ、矢井田、見てきて。と、目の前で椅子にふんぞり返って座っている上司、玉木が言った。
マジか……。
玉木係長は実際にはふんぞり返っているつもりではない、らしい。
ふくよかな腹が邪魔で、そういう態勢になるとのこと。だが、しかし。俺から言わせれば、がばっと両足を広げて椅子の背もたれをキイキイいわせているその姿は、偉そうにふんぞり返っているようにしか見えない。
不動産屋の営業なんだから歩けよ。
歩いてカロリー消費しろ。
「あの、そこの物件、俺の担当じゃないんですよ。確か、松本さんの担当じゃないですかね……」
ムダだとわかってはいるが、一応、さらっと反論してみる。
振り返ると、机で書類をまとめていた松本さんは、さっと視線を逸らした。
まあ、ね。気持ちはわかる。
こんなん、たいてい、アレだもんね。
玉木は上目でちらっと俺を見ると「ううん、まあさ、そうなんだけどね」と、言葉を濁した。
ほら。あんただって十中八九そう思ってるんじゃないか。
「そうだった場合はさ、そのまま、矢井田くんの幼馴染のさ、あの、例の特殊清掃さんに頼んじゃっていいからさ」
玉木はそう続けた。
ああ、やっぱり。そういうことですよね。
俺を行かせたほうが、手間が省けて合理的ってわけだよね。
「はぁ。あの~、じゃあ、例の場合は、そっちのほうも頼んじゃっていいんですか?」
「もちろん、もちろん。きっちりばっちり両方キレイにしてもらってよ。間違ってもヘンな噂が立たないように、ね。あ、でもさ、これね」
そう言って、目の前で手のひらを広げた。
「これ以上は払えないからね」
「了解でぇす」
正直、俺には指五本―――五万円が安いのか、高いのかはわからない。
相場って、いくらくらいのもんなのかな?
祓い屋稼業って。
「ああ、それからさ、オーナーの北見様は立ち会わないって」
まあ、そうだろうな。
あの爺さんも勘だけはいいしな。
勘だけでのし上がって、今じゃこの辺の不動産王だし。
「了解でぇす」
そう返事をして、椅子の背に引っ掛けていた上着を羽織った。
ああ。俺もヘンな勘はいらないから、値上がりする株がわかるとか、当たるスロットがわかるとかの勘のほうがよかったな。
壁にかけられた社用車の鍵を手に取る。
件のマンションに向かうために、ため息をつきながら駐車場へと向かった。
▲▽▲▽▲
問題の部屋は三階の角だ。
事前に連絡を入れて、警察官二名に同行してもらっていた。
玄関扉の前で、すでになにか臭う。部屋の中の異臭がわずかに漏れ出している。
これは苦情もくるわけだ。っていうか、そのまま警察へ通報してほしかった。
この臭いは……。
嗅いだことのある、ヤバいやつな気がする。
だけど、確認しないことには断定はできない。
警察官と顔を見合わせる。
マスクをかけて覚悟を決めた。
「じゃあ、開けますよ」
三人で息を止める。
鍵を回してガチャリとドアノブを引く。
その途端に開いたドアに向かって、唸るような羽音を立てた大きな黒い塊が押し寄せてきた。
「うわぁ!」
思わず声をあげてしまった。
慣れているだろうはずの警察官二人も隣で低く呻いた。
急いでドアを閉める。
間一髪。と、思いきや。
しかし若干、間に合わなかった。
選ばれし勇敢な十数匹のハエが異臭を伴い、外を目指してドアの隙間からダイブしてきた。
ものすごい勢いで隙間をすり抜けて飛び出すと、四方八方へと散り、どこかに飛び去っていった。
ああ、やっぱり。
鼻の奥に独特の腐臭がこびりついた気がした。
くそっ。
当分の間は肉どころか、なにも食える気がしない。
ここで吐かないだけ、俺も慣れてきたっていうことだ。
「あの、俺、部屋に入らなきゃダメですかね?」
心底ムリです、という表情で訊いてみた。
だって。ヘタに部屋に入ったら、現場を荒らしちゃうよ? ホントに入りたくもないし。
警察官二人は憐れむように俺を見ると、「ちょっと待ってて」と、警察無線でなにかやり取りをしていた。