【第十五夜】 砕ける
千歳は307号室の扉を開け放つ。
鍵はかかっていなかった。
廊下の先に見えるリビングが昏い。空気が澱んでいる。
今の時間なら午後の陽が射しているはずなのに。
あかりの負の澱に曳かれて、『泥』が集まっていることが気配でわかった。
「あかりさんっっ!!」
靴もそのままにリビングへと走る。
部屋の中は灰昏く、無数の黒い人影が不気味な低い唸り声を発して蠢いていた。
その中心にあかりと孝平がいる。
「うわあっ!? なにこれーーっ!? きもっ!!」
追いついた正宗は、千歳の後ろからリビングを覗いて奇声を上げた。
ゆらゆらと揺れていた人影は、正宗の声にざわりと反応する。
あかりと孝平に向いていた人影の注意は、千歳と正宗に逸れた。
千歳は紐を通し、ブレスレット状にして手首に巻いていた曲玉を素早く握りしめる。
それを頭上にかざした。
「ひふみよいむなや……しきるゆゐつ……うおゑにさりえて……」
流れる言の葉の咒が人影を縛った。
人影の動きはぴたりと止まる。しかし重く低い唸り声はまだ、波のように寄せたり引いたりを繰り返して共鳴していた。
孝平は口をだらしなく開けてよだれを垂らし、白目を剥いている。
首筋にはあかりの両手が埋め込まれていた。
あかりはそんな孝平を、深い穴のような目で見つめている。
動かなくなった人影を抜けると、千歳はあかりに駆け寄った。
あかりの両腕を掴むと孝平の首筋から一気に引き抜く。
支えを失った孝平の身体はそのまま崩れるようにして、どさりと床に倒れた。
「あかりさん! 俺を見て!」
千歳はあかりの両肩を掴む。
のろのろと動いた視線は、ようやく千歳を捉えた。
千歳はあかりの耳元に顔を近づけると、ゆっくりと話す。
「ダメだよ。あかりさんが手を汚す価値はない」
あかりの深い穴のような虚ろな目に表情はない。口だけが動く。
「だ メ ……? ど う しテ?」
「こんなことをしても、誰も救われない。あかりさんにはもう、悲しい思いをしてほしくない」
「カ な しい? ち ガう。 愛 して ルの」
「この男は違う。そうじゃない」
「……ちが ウ? ち がう? ちがう? 違う、の?」
「違うよ。そんなの」
虚ろを宿した瞳が揺れる。
あかりは瞼を閉じた。
噴き上げていた黒い焔は、徐々に弱まっていく。
再び目を開けたときには、わずかな光がもどっていた。
「……じゃあ、どうすればいいの? ……わたし、どうすればいいの……?」
震える声で千歳に問う。
「上がろう。道を降ろすよ」
穏やかな声で千歳が答える。
「上がる……?」
「うん」
「……ううっ、痛ぇ」ぼそぼそと呟き、床に倒れていた孝平が目を覚ました。
頭を押さえて、ゆっくりと上半身を起こす。
首を上げてあかりを見ると、顔を恐怖で歪ませた。
「うわぁぁ!! 助けて! 誰か助けてくれぇーーっ!!」
悲鳴を上げると尻をついたまま後退った。
あかりの足元からは、再び激しく黒い焔が噴き上がる。
「どこに行くの……? また、逃げるの……? 愛してるって言ったじゃない」
「あかりさん」
千歳の制止する声を無視し、両腕を振りほどくと、ふわりと孝平の後ろに移動した。
逃げ道を塞ぐ。孝平はもはや半狂乱だ。
「ひぃいい! なに言ってんだよお! お前……お前のせいでオレは捕まったんだぞお!!」
立ち上がろうとするが腰が抜けているのか、なかなか立てない。
四つん這いのままで喚いている。
「お前だっていい思いしただろっ! 優しくしてやったじゃないかっ! ホストに貢ぐのと一緒だろっ! それなのに当て付けがましく首なんか吊りやがって! どうなってんだよ! もう死んでるんだろっ! 化け物! 化け物!! オレの前から消えろーーーっ!!」
孝平は叫び続ける。
あかりはかつての婚約者が自分を罵る声を聞きながら、ただ孝平を見下ろしていた。
「ほんとに……ほんとに、全部、ウソだったんだね……。こんな……こんなのって……ないよ……」
あかりの透けた瞳に涙が浮かぶ。
流れる滴は頬をつたって床に落ちる前に、かき消えてしまう。
足元から噴き上げている黒い焔はさらに勢いを増す。旋風をともなって、あかりの髪をまき上げた。
同時に轟音が鳴り響く。リビングのすべての窓ガラスが、内側から爆発したように砕け、割れ散った。
――っ!
千歳はとっさに腕で顔を防ぐ。
粉々になった破片が耳障りな音を立ててベランダに散乱する。
「ぎゃーーっ!! 千歳っ!! 大丈夫か!? なんじゃこりゃあ!!」
正宗がリビングの入り口で騒いでいる。
人影がゆらゆらと動きだし、孝平との距離を詰める。
今のあかりの力の暴発で、人影を縛っていた千歳の咒が解けたようだった。
孝平は床にへたり込んで言葉にならない言葉を吐きながら、呆然としていた。
あかりが孝平に手を伸ばす。
――あかりさん、ごめん。
千歳は曲玉を握りしめて、頭上にかざした。