【第十四夜】 詐欺師
「なんで……? なんで……? なあ、お前……死んだ……よな? ここで首吊った……だろ?」
トイレに行かせてくれと頼んだ。入った個室の小さくて狭い窓から逃げ出した。
窓に無理やり身体を押し込んだために、肩がかなり痛かった。しかし、そんなことはどうでもいい。
ビルの間の路地裏を抜け、鍵のかかっていない自転車を物色した。
パトカーのサイレンが聞こえる方向とは逆に自転車を走らせた。
逃げ出すことさえできればなんとかなる。オレには人を信用させて、虜にする才能がある。
裏通りのような細い道を、ただひたすらに自転車を漕いで進んだ。
そこまでは記憶がある。
それなのに気がついたらここにいた。
窓の外の景色はかつては見慣れたものだった。
ここは――男が住んでいたマンションの307号室だ。
「なんで……ここにいるんだよ……?」
それは自分に向けても呟いた言葉だった。
死んだはずの女を目の前にして、困惑し、狼狽し、恐怖を感じていた。
男は首を吊った彼女の身体ごと、この部屋を捨てたのだ。
「……」
あかりはなにも答えなかった。
禍々しい黒色の陰は足元から焔の蕾のように噴き上がり、胸元まであかりを覆っている。
細く黒い陰は、それを取り巻くようにして漂っていた。
「オレ、おかしくなったのか? そうだよな……なんか、お前、若くなってるし……。あり得ないよな……うん、あり得ない……」
あかりはじっと男を見つめたままだった。
その透けた瞳の感情は読めない。
「……くそっ」
男は部屋から逃げ出そうと、あかりに背を向けようとする。しかし、身体を動かすことができなかった。
足が動かない。力を入れてもびくともしない。
「……孝平さん」
耳元で声がした。息がかかるほどの距離だ。
あかりが息をしているのであればの話だが。
あかりはいつの間にか、孝平の肩に両腕を回していた。
「ひっ!?」
黒い焔は孝平にも移り、胸元までを焦がす。
あかりの身体の感触も、焔の感触もない。だが、冷たいと感じる。
身が凍てつくような冷たさだ。そして、とてつもなく不快な冷たさだった。
「放せよ……っ。お前は勝手に死んだんだろっ! オレは関係ないっ! 手を離せっ!」
孝平は顔を引きつらせて叫んでいた。
あかりはじっと男を見ている。
恐怖と憎悪を剥き出しにした、かつての婚約者だと思っていた男の醜く歪んだ顔には、「愛している」と優しく微笑んでくれた面影はない。
「どうして……?」
孝平を見つめたまま、あかりの唇が動く。
「……?」
「どうして……騙したの?」
「どうしてって……」
孝平の眼に狡猾な輝きが宿った。唇の端が引き攣れて上がる。
「……あかり、よく聞いてくれ。違うんだ。……なにかの間違いだよ。オレが……あかりを騙したと思ってるの? そんなことあるわけないよ?」
「……違うの?」
「違うよっ! オレが愛しているのはあかりだけだ」
「……ほんとに?」
「本当だよ。だから……この手をちょっと、離そうか……」
孝平に従い、あかりは腕を離す。
片方の手はそのまま孝平の胸を這い上り、首筋を指で撫でた。
「愛してた……の?」
「そうだよ。愛してるよ。今も愛してる。だから……」
「ウ ソ ツ キ」
「……え?」
あかりの周囲に漂っていた陰が一斉に集まり、固まって、人影を創っていく。
一つの影を模ると、もう一つ。さらにもう一つ。濃い影もあれば、薄い影もある。
黒い人影はゆらゆらゆらゆらと揺れて、十幾つの人影があかりと孝平を取り囲んだ。
「……なんだよこれ? あかり……これ、なに?」
孝平はあかりから逃れようと身体に力を入れているが、まったく動けない。指先さえも動かない。
「ウ ソ ツ キ」
あかりが繰り返す。
その目は穴のような虚ろだった。
表情というものがない。
「ウ ソ ツ キ」
「う そ つ き」
「嘘 ツ き」
「うそ ツ キ」
「ウ そ つ き」
「うそつ き」
「嘘 ツき 」
「ウソ つき」
「嘘 つ き 」
「う ソ ツ き」
「ウ そ つ キ」
あかりに呼応して人影たちが一斉に騒めく。
気色の悪い低い声を発して、ゆらゆらゆらゆらと揺れながら、孝平に迫る。
「ちょっ……!」
「孝 へい さ ん 愛 して る?」
「愛してる! 愛してるよ! だから、ちょっ……これなんなのっ!?」
孝平は恐怖で目を見開いていた。
顔色は青を通り越して死人のように白い。
あかりは孝平の首筋に、もう一方の手も這わせる。
透けた指先で温かい血の筋を辿った。
「愛 し て ル なら 一緒二 行 こう ヨ」
首筋にあかりの指先が埋まっていく。
「なにしてっ……!? く、苦しっ……!?」
あかりの唇が歪んで上がった。