【第十三夜】 咒
「……あ……あ……わたし……」
あかりは自身と千歳を覆い尽くした、黒い陰の中で茫然としていた。
「あかりさん、俺の声だけ聴いてて」
まず、あかりを落ち着かせなくてはならない。
千歳はあかりの肩を抱いたまま、陰を祓うための咒を――「神火清明神水清明神風清明」――素早く口の中で唱えた。
咒は言の葉となり、言の葉は咒となる。
咒が黒い陰へと飛び込み、交じった瞬間。
千歳とあかりを覆っていた黒い陰は、まるで霧が蒸発するかのようにして、一瞬で跡形もなく消え去った。
急がなければ――。
あかりの足元からは、それでもまだ、わずかに黒く滲み出している。
千歳は晴れた視界で周囲の状況を確認した。
ホームの上に、点々と落ちた赤い血痕に目が留まる。
――これ以上被害を出すわけにはいかない。
すでに駅員たちが駆けつけている。
ホームにいた客も無事だった者は、怪我人の救護にあたっていた。
「あかりさん……出るよ」
あかりは自分の両腕を抱えながら小刻みに震えている。
千歳はあかりの腰に腕を添えた。
混乱したホームから、人を掻き分けながらエスカレーターへと移動を促す。
「……千歳君……ごめん……なさい」
「うん。大丈夫。とりあえず駅から」
「違うの……わたし……やっぱり……」
あかりは震えた声でそう呟くと下を向いた。
そして次の瞬間に、千歳の腕の中から消えた。
まるでそのまま空気に溶けてしまったかのように。
「あかりさん!?」
未だ騒然としたホームには、千歳だけが残された。
▲▽▲▽▲
「それじゃあ、内見に行ってきまぁす」
正宗は壁にかけてある社用車のキーを、ひょいと指に引っかける。
そのときに上着のポケットに入れた携帯電話が細かく振動した。
画面に表示されている名前は千歳だ。
お、『祓い』が終わったのか?
画面をタップし、呑気に電話を取る。
「はい、俺」
「正宗! 車を出してくれ!」
耳に飛び込んできたのは切羽詰まった声だった。
焦って余裕がない様子が電話越しでも伝わってくる。
「なに? どうしたの?」
「説明してる時間がない! すぐにきてくれ!」
正宗には事情はまったくわからない。しかし、千歳がこんなにも取り乱すのは珍しい。余程のことだ。
正宗の前ではいつもしゅっとして、取り澄ましているというのに。
「わかった。落ち着け。今、どこ?」
千歳は駅名を告げる。
「了解。二十分、いや十五分で行く。待ってろ」
「頼む」
「任せなさ~い」
正宗は電話を切ると、机で書類を作成中の松本に声をかけた。
「松本さん。すみません、俺、緊急案件入りました。内見担当代わってください。これ、資料です」
「え!? ちょっと、矢井田さん!?」
松本にファイルを放ると、返事を聞かずに駐車場へと走りだした。
▲▽▲▽▲
「千歳、乗れ!」
駅のロータリーに車を停めると、すぐさま千歳が助手席に乗り込んでくる。
「で、どこに行けばいい?」
「307号室。マンション。急いで」
「了解!」
正宗が車を急発進させる。
ここからマンションまで、車なら十分程度だ。
「それで、どういうことなの?」
正宗はハンドルを握って前方を見据えている。
出来得る限り最高の速度で車を走らせていた。
「あかりさん――307号室にいたのは、発見された遺体の本人だった。明日には上がるはずだった」
「うん」
「あっ、くそっ、信号にひっかかった」、正宗が口の中でぶつぶつと呟いてブレーキを踏む。
反対車線には、赤いランプを点滅させたパトカーが信号待ちをしていた。
「詐欺師が逃げたらしい。それで――彼女が暴走した」
「ああ……」
正宗が車のラジオをつける。
丁度、アナウンサーがそのニュースを読み上げていた。
「……周辺住民のかたは、十分に注意してください」
「ちょっと前に速報で入ってたな」
「……」
「で、本当にあのマンションでいいの? 彼女がそこにいるっていう確信はあるの?」
信号が青に変わり、正宗が車のアクセルを踏む。
交差点でパトカーとすれ違う。
「さっき、部屋に張ってた結界が破られた」
「……なるほど。じゃあ、もしかして」
「可能性は高い」
「ヤバイな。急がないと死体が増える」