【第十二夜】 急転
「ふざけんなーーっ!! この詐欺師ーーっ!!」
「わたしの愛を返せーーっ!! ついでにお金と時間も返せーーっ!!」
「信じてたのにーーっ! 裏切りものーーっ!!」
「バカヤロウーー!! ウソつきーーっ!!」
「人を騙してなにが楽しいんだよーーっ!! このクズヤローー!!」
「騙されたわたしも大バカーーーっ!」
先ほどからあかりは歩道橋の欄干の上で仁王立ちになり、手で口の周りを囲って叫んでいた。まるで山びこを期待している登山者のようだ。しかし、あかりのその声が返ってくることはなく、初夏の風に流されて街の中へと消えていく。
千歳は欄干の上に肘を乗せて寄りかかり、あかりの文字通りの魂の叫びを聴いていた。時折、ちらりちらりと車通りや歩道の通行人を眺めている。
パトカーが数台、赤いランプを点滅させて上下車線をすれ違った。
あかりがいくら大きな声で叫んでも、誰も気に留める様子はない。
どうやら付近には視えている者はいないようだった。
あかりの負の感情に曳かれて寄ってくる『黒いモノ』もない。
『黒いモノ』―――夜須はそれを、泥濘んだ感情が寄せ集まったモノ、『泥』と呼んでいた。
『泥』は陰の気だ。
明るい陽の下では存在することができない。こんなにも陽射しが降り注ぐ日には、濃い影が創られている暗い場所にでも姿を潜めているのだろう。
千歳が一緒にいるとはいえ、それでも部屋を出るときには、あかりの周囲に『泥』を寄せつけないための結界を張っていた。
「ふうっ」
あかりが息を吐いて、ふわりと欄干から降りてきた。
「もういいの?」
千歳は肘を離すと、背中をもたせる。
「……ちょっとだけ、すっとした」
「うん」
「千歳君、ほんとに……ひいてない?」
眉根を寄せたあかりが不安気に訊く。
「全然。もっとボロクソに言ってもいいのにって思ってる」
「ほんと? ……よかったあ」
あかりは千歳の言葉にほっとして胸を撫で下ろした。
「わたしね、あんなに大きな声で叫んだの、初めてだったかも。ちょっと楽しかった」
「うん」
穏やかに肯いた千歳を、あかりはまじまじと見つめた。
「なに?」
「なんか千歳君、年下には思えないよ」
そう言って苦笑する。
「そうかな?」
「そうだよ」
「っていうか……今のあかりさんの外見は俺より年下だからね。高校生くらいだよ」
「うそっ!? えっ? どうして?」
あかりは鏡には映らない。
もちろんショーウィンドウにも映らない。
あかりは自身の姿の変化に気がついていなかった。
自分の顔を両手でぺたぺたと触って確かめている。
「もどりたいときの姿にもどるみたいだよ」
「えぇ……そうなの? ……じゃあ……千歳君、ほんとにお兄ちゃんだね」
あかりはふよふよと浮くと、千歳の周りをくるりと回った。くすくすと笑ってはいるが、少し照れているようにもみえる。
千歳もなんだかくすぐったいような気持ちで頬を掻くと、下を向いた。
「海が見たい」
そう言ったあかりの望みを叶えるために、電車を途中で降りた。
高架線にある駅のホームで乗り換えの電車を待っている。
眼下のロータリーには、大学名が入ったスクールバスが停車しているのが見えた。
どこかの大学の最寄り駅になっているらしい。
ホームはざわざわと混雑していた。授業を終えたらしい学生の姿が目立つ。
千歳とあかりは目立たない階段下に移動した。
海に着いたら波で遊びたいと言ったあかりは、「あ、でも、わたし海に入れるのかな?」と、首を傾げている。
「入れるんじゃない? なんなら潜れるよ」そう千歳が返すと、それもいいねと笑った。
雑踏の隙間を縫って、またしても数台のパトカーのサイレンの音が聞こえてくる。
千歳は何気なくサイレンの音のする方向に顔を向けた。そのときに――。
「ヤバっ! 逃げたって」
「えー? なにが?」
「今、速報きたー」
千歳とあかりのいる階段付近を歩いていた、数人の大学生のグループの会話が耳に入った。
……?
「あいつ、ほら、マンションに死体放置した結婚詐欺のヤマモトなんとか」
「は? なんで?」
「護送途中に逃走だって」
――――っ!?
千歳は隣でふよふよと浮いていたあかりを振り返り、とっさに手を伸ばして腕を掴んだ。
実体があるようにしっかりと掴めるわけではない。
しかしそれでも、ある程度はあかりを繋ぎ留めることができる。
「あかりさん」
あかりは目を大きく見開いていた。
学生たちのグループを凝視している。
「ケーサツ、どした?」
「だからパトカー?」
「ヤバくない? わりと近いじゃん」
「なんで逃げられんの?」
「トイレ行かせたら逃げられたって」
学生たちを視界から遮るために、千歳はあかりを引き寄せる。
両腕であかりの肩を囲い、顔を耳元に近づけて言い聞かせた。
「あかりさん。俺の声だけ聴いて」
「何時ごろよ?」
「三十分くらい前みたい」
「えっ!? まだその辺にいるんじゃね?」
「マジで? 怖いんだけど」
あかりの視線がゆっくりと千歳に移る。
「……千歳君」
「大丈夫だから」
「……なにが? なにが大丈夫なの?」
黒い陰があかりの足元から滲みだす。
「ねえ? 今の、あの人のこと? そうだよね? ねえ!?」
「あかりさん、落ち着いて」
「あの人、近くにいる……」
黒い陰は一気にぶわりと噴き上がり、千歳ごとあかりを覆い尽くした。
千歳の耳の奥に、薄いガラスが割れたような高い音が鳴る。
あかりに張った結界が内側から破られた音だ。
階段下周辺の電灯がバチバチと電気的な音を立てて明滅する。
青白い火花が空を駆ける稲妻のように電灯付近に飛んだ。と、思うやいなや、バリンという大きな音とともに、電灯が一斉に弾け飛んだ。
「キャーーーッ!!」
「なにっ!?」
飛び散った大小さまざまな破片は、大きな雨粒のようにホームへと降り注ぐ。
「やだっ! 痛いっ! なんか落ちてきたよ!」
「ちょっ!? なにこれ!?」
「血が出てるっ!!」
落ちた破片をかぶった者の中には、頭から流れた血が頬をつたっている者もいる。
悲鳴や叫声が飛び交うホームは混乱し、騒然となった。
「あかりさん!」