【第十一夜】 約束
千歳は運ばれてきた二人前のハンバーグ定食と格闘していた。
たっぷりと載せられたチーズはトロトロに蕩けて、丸くて厚いハンバーグを包み込んでいる。少々無骨な形なので店で捏ねているのだろう。
箸を入れるとじゅわっと溢れ出す肉汁。たっぷりの刻み沢庵はチーズと絡み、甘さが効いたハンバーグソースと甘じょっぱいハーモニーを奏でている。歯ごたえもいいアクセントになっていた。
「チーズと刻み沢庵、いつもよりサービスしてくれてるよ」
千歳が食事をしている間、あかりはにこにこと笑顔だった。
店の中をふよふよと浮いては、おかみさんや店主の傍を漂っている。席にもどってくると、千歳の食べっぷりを「すごーい」と言いながら眺めていた。
千歳の体格はどちらかというと細身の部類に入る。しかし、決して少食ではない。
「その身体のどこに入るんだ?」
正宗は千歳の食事風景を見るたびにしきりと感心していた。
「……おかみさんたち、元気そうでよかった」
あかりが椅子にふわりと座って呟いた。
千歳は残り一切れになったハンバーグを箸で掴むと、ご飯と一緒にかき込んだ。
お茶を飲み干すと一息つく。
「美味しかった?」
「めちゃくちゃ美味かった」
「気に入ってもらえてよかった。……あ」
「?」
あかりの指が、すっと千歳の口元に伸びる。
唇の横にハンバーグのソースが付いていた。
あかりの指は千歳の唇の端には触れたが、ソースを拭い取ることは出来なかった。
千歳が肩を、ぴくっと後ろへと微かに退く。
あかりは自分のその指先をじっと眺めた。
それから「……ここ、ソースが付いてるよ」と、口元を指して千歳に教えた。
「……あ、うん、ありがと」
紙ナフキンを取り、千歳はさっと口を拭った。
「美味しかったです」
会計を済ませて店を出ようとしたときに、おかみさんから声をかけられた。
「また、来てね」
千歳は「はい」と肯く。
「バイバイ」
あかりは名残惜しそうに手を振っていた。
駅までもどる道すがら、あかりの口数は少なかった。
千歳の腕に掴まってふよふよと浮いてはいたが、どことなく心ここにあらずといった感じだ。
大通りを渡るために、歩道橋の階段をのぼりながら千歳は声をかけた。
パトカーのサイレンの音が遠くに聞こえている。
「あの、あかりさん?」
「うん?」
「……どうかした?」
「え? ……あ、ごめんごめん。ちょっと考え事してて」
あかりはふよふよと浮きながら、千歳の周りをくるりと一周した。
「考え事?」
「……うん」
「俺に……話せる?」
「……」
あかりは階段をのぼりきると、歩道橋の上で足を止めた。
そのまま欄干の上にふわりと腰をかける。
大通り沿いに植えられた街路樹の青く繁った若葉に、初夏の陽射しが跳ね返る。
明るい光が目に眩しい。
まだ濃い青になる前の空には飛行機雲が長く伸びていた。
道路を走る車の音や、歩道橋を行き交う人々の足音、話し声。
物質世界の街の雑踏。
なんて騒々しい。そして、美しい。
たいていは失くしてからその価値に気がつく。
「……わたし、なんであんなこと、しちゃったんだろうって……」
その街の風景を眺めながら、あかりがぽつりと呟く。
「……」
千歳はそれには答えられなかった。
いくら自分自身の選択の結果だったとしても、あかりは本心からそれを望んでいたというわけではないだろう。
此岸の生者である千歳が、彼岸の亡者であるあかりにかけるべき言葉はもたない。
どんなに言葉を尽くしても、命は還ってはこない。
「……あ、ごめんね。今さらだよね。こんなこと言われても困るだけだよね。大丈夫。わたし」
「あかりさん」
「千歳君を困らすつもりじゃなくて。ただ、なんていうか」
「あかりさん、いいよ」
千歳はあかりの言葉を遮った。
「俺がしてあげられることは限られてるけど……。聴くことならできるし。無理やり納得するんじゃなくて、思ってること全部言ってよ。全部聴くよ。その……なんていうか、うまく言えないけど、我慢しなくていいよ」
千歳が上げてきた者たちは、最終的には自ら光の道を上った。
彼らは千歳に感謝の言葉を述べて逝ったが、彼らの心残りがすべて消えていたかといえば、千歳はそうは思わない。彼らは消すことのできない、それぞれの想いを抱えていた。しかしそれでも、その想いにある程度は妥協をし、けりをつけて上がっていったと思っている。
無理やりに納得するのではなく、自然とそう思えるようになれば、きっと心は楽になる。
せめて気持ちだけでも吐き出せたなら。
千歳には聴くことしかできないが、あかりもそうなれれば、と思う。
「……千歳君」
あかりは泣いているように笑った。
「…………じゃあ、お言葉に甘えてもいい?」
「いいよ」
「ほんとに? ……でもなぁ、わたしが思ってること言ったら、千歳君、ひくかもよ?」
「大丈夫。ひかない」
「ほんと? 絶対?」
「絶対に」
「じゃあ、約束だからね」
あかりが右手の小指を立てる。
その手を千歳の目の前に上げた。
「うん、約束」
「ウソついたら針千本、飲ませちゃうからね」
千歳の小指とあかりの小指が絡まって、小さく揺れた。