【第一夜】 彼女
首を吊る場面があります。
苦手な方はご注意ください。
「愛している。君しかいない」
そう甘い声で囁いた男は、結婚詐欺師だった。
彼と連絡が取れなくなったのは三ヶ月前のこと。
『ご婚約おめでとうございます!』
後輩たちから祝福されて会社を退職した。
高校を卒業してから十二年間、陰ではジミネさま(地味なお局さまのことらしい)と呼ばれながらも、頑張って働いてきた。
そんなに大きい額じゃないけど、退職金が出たのはありがたい。
これから引っ越しも控えているので、なにかと物入りになる。
新居での生活が落ち着き次第、彼が立ち上げる予定の会社で一緒に働くことになっていた。
彼から連絡があり、会社の登記に必要なお金が少々不足しているという。それならばと、退職金を渡した。
そのすぐあと。
彼とは連絡がつかなくなった。
最初は訳がわからなかった。
なにか事故にでも遭ったのかと思った。
心配して必死に連絡を取ろうとした。
携帯電話にかけても「お客様のお掛けになった電話番号は、ただいま使われておりません」とアナウンスされる。
震える指で何十回、何百回と電話をかけ続けてそれを聞いた。
SNSのアカウントはすべて削除されていた。
彼の勤め先に電話をかけてみるも、そこは契約者の指定した名義で電話を受ける、代行サービスの会社だった。
「結婚費用の積み立て」「親の手術費用」「新居の購入資金」そういった名目でもお金を渡していた。
……信じられなかった。信じたくなかった。
この状況がどういうことなのか、考えたくなかった。
しかし……そういうことなのだろうと、理解せざるを得なかった。
新居に移るつもりでアパートは解約していた。
わたしは、仕事も家も貯金も『彼』も、なにもかもを失ったのだ。
ネットカフェで寝泊まりをしながら、彼を探し続けた。
警察には行かなかった。いや、行けなかった。と、いう方が正しい。
この期に及んでも、まだなにかの間違いだと思いたかったのかもしれない。
いい歳をした女が結婚をちらつかされて騙された。そう同情されるのを恥ずかしいと思ったのかもしれない。
まだ……彼を愛していたのかもしれない。
笑っちゃうけど。
彼はわたしのことなんてきっと、お金を貢がせるだけの、ただの道具としか思っていなかったのに。
一日中、それこそ寝る間を惜しんでネットに張り付いた。
見知らぬアカウントから投稿された写真の中に、彼らしき人物が映り込んでいるのを見つけた。
背景から目星をつけて、周辺を足を棒にして歩き回り、やっとのことでその場所を特定した。
何日もそこで彼がやってくるのを待った。
ついに現れた彼は、女と一緒だった。
わたしと同じような地味な女だ。
彼は途中の駅で女と別れた。
後をつけて、マンションを突き止めた。
彼が留守にする時間に、ネットで習得した知識で部屋の鍵を開ける。
広くて小綺麗な部屋だった。
なにか微かに甘い香水のような、いい香りがした。
大型のディスプレイにパソコン。座り心地のよさそうなソファ。最新の家電も揃っている。
ベンジャミンだろうか。鉢植えの観葉植物は木目調の家具とよく似合っていた。
わたしのお金で買ったものだろうか。
それとも、あの女のお金だろうか。
もっと別の女だろうか。
付き合っていたのに。
付き合っているはずだったのに。
結婚するはずだったのに。
幸せになるはずだったのに。
『僕のアパートはとても古くて狭いから、きみを部屋に上げるのは恥ずかしいよ』
そう言って、照れたように笑った顔が思い出された。
わたしは、彼がどこに住んで、どんな生活をしているのかさえ知らなかったのだ。
わずかに残っていた最後のなにかが、胸の奥で壊れた。
鞄の中から用意しておいた縄を取り出す。
鞄の底の財布が目に入った。その中には小銭しかない。
わたしを引き留めるものはもう、なにも残ってはいなかった。
すでに迷いは消えた。
天井には縄をかけるのに丁度よいシーリングファンが取り付けられていた。
わりと頑丈そうだ。わたしの体重くらい耐えてくれるだろう。
床に傷がつくのもかまわずに、テーブルを引き摺ってきて足場にした。
縄をファンの軸に引っ掛ける。
輪をつくり首にかけた。
皮膚に感じるざらざらとした縄の感触も、どこか現実ではないような気がしている。
テーブルから足を蹴った瞬間に、縄にすべての体重がかかった。
縄は首に食い込み、一気に絞めあげた。
耳の中でボキっという濁った音を聞いたような気がした。
彼の優しい笑顔が好きだった。
でも、全部、全部ウソだった。
やっとの思いで彼を見つけたとき。彼の前に出て行って問い詰めようと思っていたのに、それが出来なかった。
本当のことを知るのが怖くて、足が震えた。
騙していたなんて。騙されていたなんて。
それでもまだ、こんなことウソだと思いたいなんて。
わたしの馬鹿さ加減に呆れてしまう。
いくら恨んでも恨んでも、まだ恨み足りない。
自分に呆れて呆れて、まだ呆れ足りない。
哀しくて悲しくて痛い。
でも、またわたしの名前を呼んでほしいなんて。
なんて、なんて馬鹿なのだろう……。
やり場のないぐちゃぐちゃとした心の中に、それでも、もうなにも考えなくてもいいという安堵感が入り混じる。
虚しく空を蹴った足は、すぐに動かすことができなくなった。
暗闇がやってきた。閉じた目蓋から滴が流れる。
そして……。
わたしは真っ暗な闇に、落ちてゆくように呑み込まれた。
……はずだった。のに。
気がついたら、首を吊ったはずの部屋にいた。
首筋に手を充ててみる。
縄はない。
痛みもない。
どういうことなの?
目の前にはいつの間にか彼が立っている。
後ろ姿だが、見間違えるはずもない。
彼の向こう側には、わたしの身体が竿に通されたシシャモのように、だらんとぶら下がっていた。