自粛によるおあずけが人の狂気を呼び起こす可能性
まったくの無意識かつ無自覚にパソコンにDVDを挿入し、ヘッドホンを装着してからふと気づく。
――しまった。もしかしたら鑑賞中に橋本が帰ってくるかもしれない。
断腸の思いでディスクをパソコンから取り出し、セキュリティボックスに片付ける。施錠して鍵は速やかに隠す。
ああ、僕の貴重なご褒美の時間が。
一日がんばった自分への至福のご褒美タイムが。
僕の大好きな『ドSなリケ女の禁断実験〜M男の●●●を●●●●で●●●●●してあげる♡』(タイトル自主規制)の鑑賞タイムが!!
けれど、お楽しみ真っ最中な僕の姿を、帰ってきた橋本に見られるわけにはいかない。
僕は泣く泣く、秘蔵DVD鑑賞用の高音質ヘッドホン(¥49,800)も引き出しの中へとしまった。
感染拡大防止のため、僕たちは会社からかつてないほどのプライベートの制約を受け、もう1年半が過ぎようとしている。
医療従事者として、職場に感染源を持ち込まないようにするため――。
寝食を共にする家族以外との飲食、会合の禁止。
社内の人間との仕事外での接触、交友の禁止。
旅行、レジャー以外にも、混雑が予想される施設、感染の危険性が高いと判断される施設への不要不急の外出自粛。
医療従事者のワクチン先行接種が進行している今も、その徹底した管理が緩む気配はない。
当然、僕の大好きなご主人さまのお店に立ち寄ることも禁止されている。
本当だったら僕の働いたお給料は、みんなご主人さまであるHI☆ME☆KAさまに捧げるはずなのに。
そして僕はHI☆ME☆KAさまに、●●●を●●●●●●●●ながら●●●●●●●して●●●●●●からの●●●●●で●●●●されたまま●●●●●●●されるはずなのに!!!!(激しく詳細を自主規制)
はあ、はあ。いけない。興奮しすぎて熱くなってきちゃった。
そこへ玄関のドアノブがガチャガチャと音を立てた。
「須加ー。ただいまー。開けてー」
やっぱり橋本が帰ってきた。間一髪だった。
僕がドアのシリンダーを回すと同時に、橋本が文句を言いながら入ってくる。
「なんだよー、鍵なんかかけて。
つーかいい加減おれにも合鍵くれよー。
あ! もしかしてエロエロタイムの真っ最中だったとか? なんだよ、言ってくれればちょっと時間潰してから帰ったのにー。水くせえなー、そういうことはお互いもっとオープンにいこうぜ?」
「違うよ。つい習慣で帰ったら鍵かけちゃうだけだから」
「そんなこと言ってー、パソコンの履歴とかさー、エロいの出てくんだろー?」
橋本は荷物を置くよりも先に、僕のパソコンの前に立って操作しだした。
しかし橋本が僕の部屋で暮らすようになってから、僕のパソコンは完全にクリーンだ。スマホとの同期も切ってある。
僕の裏の顔の痕跡は塵一つ残していない。完全な無菌状態といっても過言ではない。
おそらく薬剤師向けの医薬品情報(DI)サイトがヒットするだけだろう。
「あ、DI見てたのか? マジメだなー。なんか面白い記事でもあった?」
「クラスターの報告」
僕は短くそう答えた。実際に目を通していたので嘘ではない。フォローしている救急医のドクターのコラムだ。所属する病院でクラスターが起きたらしく、その要因と対策が淡々と記載されている。
橋本はサイト内での僕のマイページを勝手にクリックし、該当のコラムを開き、目を通し始めた。
「ああ、これか。この人のコラムおれも読んだことある。『*は肛門ではなく、アスタリスクである』とか書いてた人だろ?」
「そう、その人」
それから橋本は静かに記事に目を通し、しばらくしてからポツリとつぶやいた。
「……普段笑える話が多い先生なだけに、こう淡々とした文章だと余計……キツさが伝わってくるな」
「うん、そうだね」
感情的な描写は一切なく、時系列で起きたこと、実施したことなど、事実だけが簡潔に報告されている。そのことが余計に切迫した状況を物語っていた。
僕もこのコラムを読んだとき、言い表せないようなもどかしさを感じた。
こんな大変な思いをして働いている人たちがいるのに、僕は医療従事者として本当に医療へ貢献できているのだろうか、と。
「おれたちって、何と戦ってるんだろうな」
急に低めの声で橋本が呟いた。
「最初は、敵はコロナウイルスだって思ってたけど、どう考えても、もう対人間だよな。
好き勝手なことほざいて周りを混乱させてるやつや、マスゴミのやつら、医療従事者・感染者の差別……。
自分のことしか考えずに無症候でウィルスばらまくやつらや、好き勝手に酒を飲み歩いて、感染したときは自己責任だぜとか偉そうに言っといて、ちょっとでも具合が悪くなると途端に被害者ヅラして医療機関に泣きついてきやがる。
そんでPCRが陰性だと、印籠持った黄門かよって我が物顔でまた出歩き始めやがるんだぜ?
発症前が一番人に感染させやすい状態だって分かれよ。具合悪くなってから大人しくしたってもう手遅れなんだよ。てめえがまき散らしたコロナで誰か殺してるかもしれないって知れよ。
お前らがまき散らすからいつまでも感染が終わんねえんだよ」
珍しく荒れた口調で橋本が髪をかきむしった。
僕は冷蔵庫から橋本が買い置きしていたコーラのペットボトルを出し、橋本に差し出す。
「橋本。なんか、あった?」
橋本は顔をしかめたまま、コーラを受け取ると、力が抜けたようにその場へ腰を降ろした。肩にかけたままだったショルダーバッグも放り投げる。
「悪い……ちょっとさ。ネットのクズ記事見てさ、アンチワクチンのでっち上げ論文のこととか、どいつもこいつも情報リテラシーが低いバカばっかりだ……とかさ。なんか、いろいろ連鎖的に思い出してきちまって、腹たってきたっぽい」
集団接種が一般的になってきて、ワクチン忌避者の存在がクローズアップされている。
DIにも関連記事が増えてきた。過去には不誠実で誤解を招きかねない悪質な論文がワクチン忌避者を増加させ、罹患率を著しく上昇させたという出来事もある。
そして今はネット社会だ。当時よりも無責任な情報が蔓延しやすい。
橋本は僕と違って大きな総合病院の門前薬局の管理者だから、深刻な病気の患者も多く来局するだろうし、管理しているスタッフの数も多い。きっと僕が分からないような苦労もたくさんあるのかもしれない。
「論文を精確に読むのって、すごく経験値がいることだからね。意図的に誤解させるような表現をしてる論文もあるくらいだし。……SPINって言うんだっけ、そういうの。
アウトカムがどうとか、エンドポイントがどうだとか、僕もたまに読んでて、正しく理解できているのか分からなくなることがあるよ」
このコロナ禍に置いて、真偽が定かではない情報の流布は著しく、WHOはパンデミックよりもインフォデミックが問題だとの声明を出したほどだ。精査不足の論文も出回り、医療現場が激しく混乱したのは、記憶にまだ新しい。
まったく科学的根拠もないのに、報道キャスターが無責任な発言をしたために、本当に必要な患者に薬が行き渡らなくなるほどの事態が起きた。
今日のニュースでやってた薬はどうやったら処方してもらえるのか、自分にも処方して欲しい、そんな問い合わせが僕の薬局にも頻発した。
僕はそのとき、なぜか子供のころに教育番組で見た人形劇を思い出した。
蜘蛛の糸にしがみついて、自分の足元の死者たちを蹴落とす男。
自分ひとりだけが助かるために。
でも最後には、その男も再び地獄へと落とされるのだ。
その結末を見たときの悲しさを、僕は感染の混乱の中で感じていた。
あのときは多くの人が不安の波に飲み込まれた。
人は弱い。でも、必死で生きるためにもがいているんだ。
きっとそれは仕方のないことなんだろう。それが人間という生き物なんだと思う。
「ねえ橋本。人間ってさ。誰しも自分の周りにフィルターがあると思うんだ」
ペットボトルを握りしめ、固い表情のままの橋本へ、僕は声をかけた。
「そのフィルターはさ、人が成長していくに従って、汚れたり、変色していくんだ。だからフィルター越しに見える景色は、だんだん狭まったり、色が変わって見えたりするんだよね。でも本人はずっとその中にいるから気づかないんだ。自分が見ているものは正しいって信じて疑わない」
橋本は硬い表情のまま、少しだけ僕の方へ視線を向けた。
「それって、白内障みたいな感じか?」
「そうだね、近いかも。
徐々に進行するから、本人は十分に見えてるつもりでも、実際は見えなくなってる。手術して、あまりのクリアさに感動してる人、けっこういるよね」
僕は少し微笑んで話を続ける。
「人ってさ、自分の見たいような見方でしか物が見えないし、自分の聞きたい話しか耳に入らない生き物なんだよね。
身近な人が薬で副作用が出たって話を聞けば、薬の副作用が心配になるし、そういう情報を意識的に集めるようになるよね。その薬は絶対飲みたくない、怖いって、だいたいの人が言うし、それが普通だと僕は思う。
いくら僕たちが副作用の発現率が0.05%以下ですって説明しても、発現した人に取ってみたらそれは100%になるわけだしね」
橋本が不満そうに口を開きかけたので、僕は先手を打って次の言葉を続けた。
「誤った情報に踊らされるな。統計数値を見て客観的に判断しろ。ワクチンは打つメリットが高い。集団免疫を一刻も早く獲得しろ、なんて言うのは、たぶん……医療従事者よりの、さらに数字に強い人間のフィルター内の世界での正義だよ」
不服そうな顔をする橋本に、僕はさらに付け加える。
薬剤師の中にだって、情報の活用レベルが低い人間はいるよ。
論文も統計データも満足に読みとれないような、僕みたいなのがね、と。
踊りたくなくても踊らされてしまう人間もいる。
まだまだ一般の人たちにまでリテラシーを要求するのは難しいと思う。
「みんな自分のフィルターを通して見た世界の中で、自分の正義を持って、一生懸命、自分と大切な人たちを守ろうとしてるんだと思うよ。
お酒を売らなければ家族を養えない人がいて、たくさんの子供たちを守るために、仕方なく医療従事者の子供の預かりを断らなくちゃいけない保育園があって、孤独とかストレスとかに潰されないように、誰か話を聞いてくれる人とお酒を飲んでしまう人がいるんだと思う……」
そう言いながら僕は、ならば僕がHI☆ME☆KAさまにご拝謁にうかがっても許されるのではないかという気持ちになってきた。
僕が医療従事者としての職能を発揮するためには、精神的ストレスをためて潰れてはいけない。心身を健全にコントロールするための努力は、医療従事者としての努めではないだろうか、その通りだ。そうに違いない。
大丈夫!! ソーシャルディスタンスを保ちながらの責めでも僕は全然満足できる! NO! 濃厚接触だ! 許されないわけがない!
つまり僕はHI☆ME☆KAさまに、●●●を●●●●●●●●されながら●●●●●●●と●●●●●●が●●●●●で●●●●されたまま●●●●●●●が●●●●●されてもいいはずなのだ!!!!(再び概要を自主規制)
そうと分かれば速やかに橋本を説得して、僕は出かけなければいけない。僕の最愛の女王さまの元へ。
「橋本だって、家に一人でいたくないから僕の部屋で寝泊まりしてるんでしょ? それだって会社の要請を無視する形になってるじゃない。なら橋本だって他人にそこまで厳しく言えないと思うんだ」
そう、だからこれから僕が不要不急の外出をすることを見逃してほしいんだ。だってこれは僕にとっては必要不可欠なエッセンシャルな行為なんだから。え? 意味が重複してるって? いや、やはり僕にとっての●●●●は必要不可欠でエッセンシャルな要素なんだ。(念のため自主規制)
「いや、おれは規則は守るよ」
橋本はバッグの中からクリアファイルに挟んだ何かの用紙を取り出した。
「ここにサインしてくれ須加。これでおれたちはれっきとした寝食を共にする家族になれる。これで堂々と一緒に住んでることを公表できる」
「ちょっと!? これ、まさか婚姻届!?」
橋本の予想外の行動に僕は思わず大きな声を出してしまった。
「いや、違う。条例で同性婚ができるってのはおれの勘違いだった。正確にはパートナーシップ制度っていうらしい。日本じゃまだ同性婚は認められてないんだってさ。
だから婚姻届は同性同士じゃあ出せない。
けど、これが受理されれば世間に結婚をしていると認めさせる効力があるらしい。明日の昼休みに役所に出しに行くからさ。ささっと書いてくれ」
「本気!?」
「もちろん本気だ。おれを肉じゃがストーカー女から守ってくれるのはお前しかいないと思ってる。
それに、さっきの須加の言葉聞いたら、頭が冷えた。
お前って、いつも冷静で落ち着いてて、カッコいいよな。見習わなきゃなって思ったのと、なんか、惚れるわ……」
会話の流れがおかしな方向へ行き出している。
正直、今の僕はちっとも冷静ではない。
「え? 結婚するとか冗談だよね? やだなあ橋本。そんな本物の書類まで用意して凝ったドッキリとかしなくてもさ……」
今はそんな悪趣味な冗談に付き合うことよりも、僕はHI☆ME☆KAさまに逢いに行きたいんだ!
もう年単位に渡るおあずけのせいで、僕の神経はもう限界なんだ! ●●●●されたり●●●●●●●されたりしたいんだ!!(しつこく自主規制)
「須加。これでもうおれたちが一緒に暮らすことを会社から口出しされたりしない。正式なパートナーになろう」
橋本の目がマジだ。
この表情は、一部の患者に見られる特徴的な表情だ。
下手に刺激してはいけない――。
長年薬剤師として患者と接してきた僕の第六感が告げていた。
橋本は長引く自粛で頭がおかしくなってしまったのだろうか。
それとも橋本をここまで追い詰めるほどに、元カノの肉じゃがストーカーは悪質だったのだろうか。
HI☆ME☆KAさま……!!
申し訳ありません! 僕はやっぱり今夜もあなたに逢いに行けなさそうです……!
僕は早くあなたに●●●●●が●●●●で●●●●●●●●からの●●●●●されたいのに……っっ!!(これでもかと自主規制)
次回は新キャラ出せたらいいなあと思います。