大腸菌の形質転換における適正な培養時間と人が恋に落ちるまでの時間の関連性についての考察
2024年の初投稿がこちらです。変態事始めってやつですかね。久々の独白スタイルです。
冬は人肌恋しくなる季節だと言われている。
人肌恋しいとは、要は生殖行動への欲求が高まるということだ。
となると疑問が湧く。
そもそも人間の雄の精子の理想的な排出サイクルは約三日と言われているし、人間の雌の排卵期はほぼ一月サイクルだ。つまり人間という生き物は、基本的に一年中発情期だと言い換えることができる。
冬に限ったことではないのだろう。
ところで、恋と発情――つまり性的欲求は同じものだろうか。
どうだろう。
自分の過去を振り返ってみる。
僕がかつて感じたのは、ただの発情期に起きた生物的欲求と恋……どちらだったのだろうかと。
もし、恋だったのだとしたら。
今でもまだ、僕は恋をしているのかもしれない。
もう、会うこともないあの人に――。
西園寺真純先輩の存在を僕が知ったとき、彼女は大学院生だった。
彼女は僕の配属された研究室の先輩だった。
彼女の長い黒髪はいつもボールペンがまるで簪のように刺さって器用にまとめられていた。
長い爪に塗られた真っ赤なマニキュアは、いつも有機溶剤でところどころ溶けている。
どこか浮世離れした、ミステリアスな雰囲気の女性だった。
いつも眠そうな目は伏し目がちで、けれどその細い目はいつだって理知的な鋭い光を放っていた。
ある日、講義が休講になったとき、購買で西園寺先輩を見かけた。白衣は着ていないし、髪にボールペンも刺さっていない。
踵の高いヒールを履いて、艶のある質の良さそうな革のバッグを肩にかけていた。今までは研究中の先輩の姿しか見たことがなかったので、少し新鮮だった。
思わず、近づいて声をかけてしまった。
「先輩こんにちわ。今来たとこですか?」
「いえ、今は放置中だからちょっと出かけてこようと思って」
今は放置中……?
その言葉が、僕の脳の奥深くに甘く突き刺さるのを感じた。なぜか鼓動が速くなる。
「……え? 放置って……なにを……ですか?」
先輩は気だるげな微笑みを浮かべ、僕の質問に答えてくれる。
「ふふっ、大腸菌よ」
大腸菌……。
先輩の唇から発せられる言葉は、例えそれが大腸菌だったとしても非常に心地よい旋律で僕の耳へと届く。先輩が扱う大腸菌のシャーレは、きっと光の粒子が輝く宝石箱のようなのだろう。
放置中……。
大腸菌を放置中……。
大腸菌を放置する西園寺先輩……。
放置された大腸菌と大腸菌を放置中の西園寺先輩……。
放置されたままの大腸菌を置き去りにして放置したまま出かけようとする放置中の西園寺先輩……。
そのあまりにも魅力的な言葉が頭から離れなくなり、僕は先輩を見かけるたびに話しかけるようになっていた。
放置中。
その言葉が聞きたくて。
放置中。
その言葉を口にする瞬間の、先輩の瞳の妖しさに吸い込まれたくて。
放置中。
そう口にする、先輩の濡れた唇に魅入られて。
僕はいつでも先輩の姿を探していた。
この感情が恋だと認識するまで、さして時間はかからなかった。
忘れもしない、バレンタインデーの日だ。
いつものように先輩の姿を見かけた僕は挨拶をした。
「先輩、今日も放置中ですか?」
「ええそう。今日はまだあと6時間は放置よ。……須加くん、チョコ平気? ひとつあげるわ」
無造作に僕の手へと渡されたチョコレート。
その日がどういう日か知っていた僕は、頭に血が上ってしまい、思わず口走ってしまった。
「……先輩……が、好きです。あの……もしつきあってる人がいないなら……その……僕と……つきあって……ください……」
先輩は珍しく目を大きく開き、僕はその美しすぎる瞳から逃げるように視線をそらした。
「須加くん、少し考える時間をもらえる?」
僕は先輩の顔を見れないまま、黙ってうなづくしかなかった。
そのあと、いつまで経っても先輩からの返事はなかった。
ホワイトデーの日にチョコのお返しをして、あの日の返事を聞いても、先輩はただ「もう少し時間をくれる?」としか言わなかった。
僕は待った。
先輩は無事に論文を書き上げ、修士課程を修了することになった。
博士課程には行かないらしい。
あの日の返事はまだもらえていなかった。
でも僕は、その頃にはようやく気づいていた。
先輩は……。
先輩は僕のことを……。
放置しているのだということに。
そう気づいた瞬間、僕の体を電撃が走っていくような快感が貫いていった。
僕は今、先輩に放置されている――――っ!
そう思う度に、僕の全身が悶えるほどの甘く苦しい切なさが走り抜けていく。
この甘美な悦びは、とても言葉では表現しきれない。
なんという幸せ……!
なんという恍惚感……!
イケる! これだけで何回でもイケる――!!
ありがとう先輩! さすがです先輩っ! 僕が欲しかったのはこれなんですっっ!!
僕はこれが欲しかったんです――――っ!
自分の性癖を自覚した瞬間だった。
先輩の修士修了を僕は温かく見送った。
先輩は何も言わなかったし、僕も何も言わなかった。
僕のスマホの中には、今でも先輩と連絡の取れるつながりが残っている。
その気になれば、いつでもまた話をすることができる。
だけど僕から連絡を取ることはしない。
あの日の返事は、まだ保留のままだ。
だけどそれでいい。
このままの関係でいい。
あの日の返事がまだのうちは、ずっと僕はあの人に放置されている状態でいられるのだから――。
もう大腸菌なんかにあの人を独り占めさせたりなんかしない。
あの日からずっと、あの人を独占しているのは僕なのだから――。




