睡眠薬の重複から想起される事象についての見解
変態も妄想も絞り出せませんでした……。
次は変なのが出せそうな気がします。
夕飯を食べながらテレビを見ていた橋本が、不意に話しかけてきた。
「……あ。そういやマイナンバーカードさ、こないだ初めてうちの薬局で使う人が来たけど、あれメチャクチャ助かるな」
ちょうど今テレビでは、マイナンバーカードのコマーシャルが流れている。それで思い出したらしい。
「うん知ってる。受診医療機関も、過去の処方薬や薬局履歴も全部表示されるもんね。
検査値も出るんだよ、知ってた?」
「わっかる! ホントに助かるよな。検査値のデータをコピーさせてもらわなくても記録残しておけるしな」
薬歴ソフトと連動してくれるので、必要なときにデータを呼び出して薬歴に必要な数値を引用できる。
検査数値は副作用の兆候がないかを確認できるだけでなく、今後の治療フォローにとても役立つから、共有できると非常にありがたい。
積極的に検査数値を見せてくれる患者さんもいるけれど、数値を尋ねると不快な表情をする人もまだまだ多い。
個人情報だから仕方がないといえば仕方がないことだけれど、薬によっては生理機能の低下に応じて減量または中止しなければいけない薬もあるので、安全のためには確認させてほしいと思う。
「マイナカードが普及すれば、もうお薬手帳も要らなくなるね。正直さ、スマホアプリのお薬手帳だと見せてくれない人がいるんだよね。
『前回と変わらないです』って口頭で言われて終わり。もしかしたら隠してる併用薬とかあるのかなって、たまに心配になることあるよ」
目視で併用薬が確認できない場合は、高い方の点数で算定するしかない。
ほんのわずかな金額差でしかないけれど、節約したいのであれば必ずお薬手帳の記録は薬剤師に見せていただきたい。
「それなー。でもマイナになればそれも解決するな。急に本腰入れてきたけど、たぶん電子処方箋を導入するのに必要なんじゃねえの?
でなきゃオンライン診療でバンバン眠剤もらうやつとか出てきて、デートドラッグ被害が急増しちまうよ。あとは転売とかな。
処方履歴が分かれば、さすがに眠剤が頻繁に重複しててやべえなって気づくだろ。
そこを見逃すようなザルは、現場から即刻退場して頂きたいね」
辛辣な橋本の言葉に、僕は耳が痛くなった。
「あー、それ……失敗したことあるんだよね……」
適当に味付けした野菜炒めをつまみながら、僕は素直に告白した。
「お、珍しい! 須加の失敗談!」
橋本が嬉しそうに話に食いついてきた。
身を乗り出して、続きを聞く気満々だ。仕方なく僕は過去の失敗談を白状することにした。
「まだ薬局が新規開局して一年目くらいのときかな。新患で眠剤だけ処方された女の人がいてさ。
お金足りなくて、後で払いに来るからって言われて、一応住所と名前と連絡先と、もちろん保険証もバッチリ確認したんだ。
……その3日後くらいかな。薬剤師会からのメールで、近隣の医療機関を片っ端から受診して眠剤の処方を受けてる患者がいるから注意しろって連絡があって、該当患者の情報が載ってたんだ。
……それがさ……」
「わー、その女だったんだー。当然お薬手帳は?」
「持ってなかったし、初回問診票には、処方薬は過去に服用歴ありとしか……。
聞き取りでも『全然眠れなくて……』って言うし、特に疑いもせず……」
「うわー確信犯だ!」
橋本は他人事だと思って、楽しそうに聞いている。そして野菜炒めが気に入ったのか、珍しく箸を進めてくれる。
「しかもね、電話かけても、督促状送っても全部無視。お金も払いに来てくれなくてさ」
結局その後、上に相談した結果、貸倒れの手続きを取ることになった。
幸い薬価が高くなかったこともあり、損失はたいしたことなかったけど。
「うわー。それ他の薬局でもそうなんじゃね? 絶対にこれは転売してんね。犯罪に使われちゃったね。しかも食い逃げならぬ調剤逃げ。警察案件じゃん! 逮捕逮捕!
早くマイナですべての患者は処方薬を管理された方がいいんじゃね?
よし! 早くマイナを普及させて犯罪を未然に防ごう! 患者に化けた犯罪者をあぶり出そう!」
橋本は缶酎ハイを飲んでご機嫌のようだ。
ごめんね橋本……。
せっかくいい気分になってるところ悪いけど、実はこの話、そういう話じゃないんだよ。
「実は後日談があってさ。
何年かして、その女の人のご主人……だったか婚約者って名乗る人が突然薬局に来てくれてさ」
「お? なにそれ急展開」
「郵便物の整理をしてたら、お金を払っていないことが分かって、急いで払いに来てくれたんだって。
なんかその当時、その女の人……家族の問題ですごく大変な状態だったらしくて……。
その男性と一緒になってからは、少し落ち着いたって言ってた」
「……おお、年単位前の郵便物を捨ててなかったのがすげえ。っていうか、もしかしてその家、ゴミ屋敷みたいになってたのか?
じゃあ転売じゃなくて、もしかして全部自分で飲んでた可能性もあんのか……。それはそれで、なんか……やべえな」
橋本がしょぼんとした顔になる。
「結果的に良い方向の話が聞けたから良かったけどさ……。
たった一剤の薬の向こう側に、もしかしたら助けを求めてた人がいたんだよなって思ったら、なんかすごくやるせない気持ちになったっていうか……。
もっとできたことがあったんじゃないかって思うんだよね」
「須加、マジメ! あんま思い詰めると体壊すぜ。
そこまで踏み込んでたら、仕事回せないだろ?」
橋本に注意され、たしかに薬剤師としての立場では逸脱しているかも、とは思った。
だけど『人として』という考え方で考えると、なにかできることがあったのかもしれないと思ってしまったりする。
でもきっとこれは、一種の救世主症候群のようなものなのかもしれない。
「……よく患者を見ようって気持ちを引き締めた教訓話でした。おしまい」
ちょっと空気がしんみりしてしまったので、最後はわざとおどけて締めてみた。
「患者は嘘つく生き物だからな。『薬マジメに飲んます』とか『数値はまったく問題ないです』とか言うけど、大体が嘘なことも多いしな。
でもまあ、転売目的で受診するようなやつは患者じゃなくて売人だ。そんなやつらはマイナカードが普及して失業しちまえばいいんだ」
力説する橋本は、先日『100錠単位の薬は未開封の箱でくれ』と言ってきた患者に『転売防止のため開封します』と断固として応じず、ちょっとしたトラブルになったらしい。
たしかに未開封の箱をわざわざ要求してくるような患者はちょっと怪しいと思う。
患者からクレームが入って、上からは注意されたみたいだけど、医薬品の不正流通を防ぐことだって、きっと薬剤師の仕事なんだと思う。
橋本は正しいことをしたと僕は思う。
「まあ、よく見られたいっていうのは誰しもあるから、アドヒアランスに関しての見栄くらいは許してあげようよ。
でも検診結果や採血データが共有されると、いろんなことがバレて困る人も出てくるかもね……保険とかさ。
きっとこれからどんどん情報監視社会になってくるんだろうね。なんかSFみたいですごいなって思うよ。ところで橋本はもうマイナカード作ったんだ?」
「まさか」
野菜炒めをぱくつきながら、橋本がきょとんとした顔をした。
「え? 作ってないの?」
あれだけずっとマイナンバーカードのこと言っといて?
「だってめっちゃ個人情報入ってんじゃん! 落としたら超こえーじゃん! 無理無理!」
なんだ、あれだけマイナンバーカードのこと推してるから、てっきり持ってるのかと思った。
まあ大体の人が今はそんな感じなのかもしれない。
それよりも、橋本は焼肉のタレで作った野菜炒めをめちゃくちゃ気に入ってくれたみたいだ。
橋本が野菜炒めを残さず食べてくれるのは珍しい。これから野菜炒めは毎日焼肉のタレで炒めることにしよう。
ちょうど今テレビで、焼肉のタレのコマーシャルが流れている。
…………美味しそうだな。
うん決めた。明日は帰りにもやしを3袋買って帰ろう。
僕の頭の中は、すでに明日の夕飯の献立を考え始めていた。




