第40話『寝取られ男と勝利の旗』
「あ……が?」
嗚咽を上げる声。
誰だろうか?少なくとも、誰かは不明のその声。
しかし、それが確実にこの村近くの草原で起こったことは明らかだった。
痛み、辛さ、そんなものが脳内に訪れたのはとっくの昔だっただろう。
「な、んで、クソガキ……お、まえ」
刃が容赦なく、山賊頭の頭にかぶった革兜に突き刺さっていた。
まるで糸を張られたマリオネットのように、山賊頭の動きは硬直している。
「けほっ、苦労したよ。自分から隙を作るのはさ」
そして、腹をさすりながら山賊頭の眼の前で笑う男。
斧で切り殺したはずのジョン・ステイメンが確かに立っていた。
「俺を蹴り飛ばした時、たしかにあれは痛かったな……恐ろしく痛かった。突然体が硬直したのも突発的なミスだった」
この体に慣れていないせいでな、と付け足しながら。
だが、その小さなつぶやきに気づくものは誰もいない。
「はぁ、はぁ。だけど、まさか驚いただろう?俺が斧に立つなんてこと」
ときはほんの数十秒巻き戻る。
完膚なきまでに蹴り飛ばされ姿勢を大きく崩したジョンに大して身の丈以上の大斧を振るう山賊頭。
誰が見てもジョンの死を確信するその場面。
だが、ジョンは死ななかった。
それどころか、空中で姿勢を持ち直し。
横に振るわれた斧刃の上に立ったのだ。
軽業的な、慣れてなければ出来はしない奇跡の所業。
だが、それでもジョンは成し遂げた。
追い込まれた獣ほど凶暴という。
そしてジョンは未だ運動エネルギーを加速させる斧刃から素早く跳躍した。
それから不意を突かれた山賊頭の頭へとジャンプによる致命の一撃がヒットしたのだ。
しかし、山賊頭は疑問に思う。あの蹴りは内臓ごと砕くつもりでやったものだった。なぜ無事でいられるのか?
その視線に気づいたジョンがバッと衣服の腹部分の裾を上げる。
すると破いた布で腹部から背部まできつく締め挟まれた枕がそこにはあった。
中からは木綿が飛び出しており、確かに衝撃を受け止めたことだけがわかる。
「防具付けてるのはお前だけじゃないんだ」
「そ、即席の綿甲……ってか?が、は……くそ、俺が、こんなクソガキに――がぼっ」
頭蓋を砕かれ、脳を割かれた山賊頭の思考が停止。鼻と口から血が吹き出し、目は白目を剥く。
神経ごと砕かれ、もはや生命維持が困難になった体。
山賊頭は呆気のない悲鳴を上げ、その場に顔面から倒れ伏せた。
「やっ、た。……くっ」
だが、ジョンとて無傷ではない。
辛うじて立っていたせいで、足の体幹が耐えられずその場に膝をついてしまう。
「ジョン!やったじゃないか!」
周りを囲んだ山賊の間に混じってみていたボーグが中へと飛び出してきてジョンの体を支える。
そして、リーダーを子供に殺された山賊たちのざわめきが響き始めた。
「おい、頭がッ」
「あんなガキに?う、うそだろ?」
「こ、このままじゃ俺たちも」
そして山賊たちは全員武器を放つ。
士気は最底辺だろう。だが、それ以上にこの危険な子供を排除しなければという生物的な本能が彼らを反射的にそう動かせたのだろう。
「そ、そんな……」
「リーダー、殺しても無駄だったのかよ。畜生ッ」
それを見て、ジョンは苦しげに笑う。
ボーグにも絶望的な表情な浮かんだ。
「やめなさい!これ以上戦うのならば、我々辺境伯軍は容赦しません!」
刹那、声が響く。
明朗とした、しかし凛とした鈴のような声。
二人の見上げた先。
そこには青字に三つ葉の白銀の白詰草の刻まれたシャムロック辺境伯軍の旗がはためいていた。
そして無数の馬に跨った騎士を背景に、率先して馬に跨りその声を上げた少女がいた。
「ヴィクトリア!?」
「遅くなって申し訳ありません、先生!―――このヴィクトリア、ただいま馳せ参じました!」
10歳ながらにして騎兵を率いて村へとやってきた辺境伯の娘。
だが、その掲げる旗は確かに辺境伯のものである。
そして、それが意味するものは。
山賊たちの青白くなった顔を見れば、一目瞭然であった。
「俺たちは……勝ったのか?」




