第30話『寝取られ男とゴブリンたち』
洞窟に毒煙が放たれてからもう20分程度が経過した。
ジョンは、まだ戻ってこない。
「ボーグくん、ジョンは?」
「……」
ボーグくんが、どこか苦しげな表情で俯いている。
ジョンのお父さんは今は村の方へと向かっていてここにはいない。
「ボーグくん、助けに行こうよ。このままじゃ……ジョンが死んじゃう」
「――毒煙の濃度は、ぎりぎり大丈夫なラインのはずだよ。ジョンを、信じよう」
信じろ?
最初から……ずっと、ジョンのことは信じてるに決まってる。
ジョンを信じたい。でも、もしジョンが死んでたら。
「っ!エリーゼ、なにしてるんだい!」
「……見て分からないの?助けに行くの」
「いくら毒煙が人間には通じづらいと言ってもゴブリンが中にいるかもしれないんだぞ!ジョンの友人として君を行かせるわけにはいかない!」
友人なら、なんでジョンのことを助けに行かないの?
ジョンが心配じゃないの?
ジョンのことを信じていたら……助けなくていいの?
「なら、ボーグくんはずっとそこにいて。私は行くから」
「待っ」
ボーグくんの声を置き去りにして、私は洞窟の中へ走り入っていく。
口元を袖で塞いで、目を細めて毒でやられないように。
洞窟の中は煙で白濁としていて、どこになにがあるのかは全く把握ができない。それでも、探せば必ずジョンはいるはず。
口元を隠しているはずなのに、早速喉が痛くなり始めた。
やっぱり、いくら死ななくても、これが続けばジョンが無事なわけがない。
「ジョン。待ってて……今、助けに行くから」
「ハァ、ハァ、ハァ」
体中が、血に塗れている。
頭から流れる血で片目は全く見えない。ゴブリンの牙や爪もいくつか肌にえぐり込んでいることだろう。
痛い。
辛い、泣きたい、叫びたい。
毒煙らしき匂いが先程からずっとしている。
ボーグ、あともう少し早くしてくれたらなぁ。
カラン、と乾いた音と共に錆び剣が地面へと落ちる。
腕に巻いていた紐はもうとっくの昔にどこかへ行ってしまった。たぶん、一番最初のホブゴブリンへ思い切り切りかかったときに緩んだんだろう。でも、そのおかげで仕留めることができた。
「はは……」
泥の跳ねる音と共にその場に座り込む。
もう、立ち上がることはできない。
煙のせいで鼻や喉が痛くて、目からはボロボロと涙がこぼれ落ちている。
俺の眼前には、無数のゴブリン共の死体。
人間、やればできるもんだと感心してしまう。
もっとも最初にホブゴブリンを殺したおかげで士気が下がっていたのも、大きな要因だっただろう。
「はは、ははは」
俺、死ぬのかな。
頭にそんなことが浮かぶ。
いくら毒煙が人間を殺すには至らないと言っても、百パーセントじゃない。体中が傷だらけで毒が入り放題の今の状態で、そんな言葉を信じるのが馬鹿らしいだろう。
出口に向かいたくても、足に力は入らない。
片目は血で見えない上に目は潤んでいて、視界はゼロに等しい。
血の味のする咳が出た。
こんなところで死にたくないなぁ。
「生き、たい。まだ、死ねない」
でも、立ち上がれない。
もう、俺の体は言うことを聞いてくれない。
「ぁ、あ、う、ぅ」
ならばとうつ伏せになって這いずる。
あぁ、これならまだマシだ。でも、全く進まない。
それでも、止まるよりは何倍もいい。
「と、まるな」
止まるな。
進め。
「おれは、いき、る」
手が進まない。
足が動かない。
眼球すらも動かない。
「おれ、は」
体の感覚が、無くなる。
まるで空を浮いてるみたいに体全部が焼けた鉄のように熱くて、脳みそから煙が出ているような感覚に陥る。
「ぁ、あ」
「ジョン」
「ぁ……」
「頑張ったね、ジョン」
「ぅ……ぁ、が」
「力を抜いて。もう……ゆっくり、寝てもいいから」
優しげな、声が脳に響く。
あぁ、誰だ。これは?
あぁ、でも聞いたことのある声だ。
そうだ、懐かしい……懐かしい、声。
おぼろげな風景が頭をよぎる。
一面のシロツメクサ、悠久の時を刻むように回る風車、綿菓子みたいな雲を浮かべた海のような色をした空。
あぁ、そっか。
俺はもう……休んでもいいんだ。
そして、俺の意識は途切れる。
深い深い海に沈むように、ゆっくりと……優しく。




