試験と器①
「何があったんです?兄さん?」
ゴズ・リーの弟であるヨン・リーが皆を代表して尋ねる。
「いや厄介な事が持ち上がったよ。」
そう言って禿頭をさすったのは学長のゴズである。口では困ったと言っているが、その魔眼はぐりぐりと多様に輝き、楽しそうにすら見える。
その日、学長室には1年級主任のニン老師をはじめ、2年級主任とヨン・リーの4名が集まっていた。学舎の経営問題について協議するときの顔ぶれである。
ヨンは総師範という職にあるが、実情は庶務を担っている。学舎運営の責任者である。
兄とは違って豊かな黒髪と黒い目、優しい顔立ちという容貌であり、2人並んだところも兄弟には見えようもない。歳も2歳違いであるが、師匠と弟子ほどにも違うように見える。
とても同父母兄弟とは思えない。
ところがこの兄弟は、互いの見た目には無頓着で非常に仲がいい。
お互いに助け合いながら、ゴズは教育と孤児院を、ヨンは学舎と商会の経営をそれぞれ受け持っている。
冒頭ゴズが『厄介事』と言ったのに、ヨンの様子が慌てていないのは、言外に悪いことが起きたのではないと伝わってきたためである。
「今日の午前中、カイファン・トイ卿が面会にやってきた。ジャン家の5男を当学舎へ入学させたいとのお申し出だったよ。」
「なんと!」
「そんなことが・・・」
「トイ卿自らこの学舎へ?それは大変名誉なことではないですか!」
驚きは三者三様である。
「ジャン家のご子息が当学舎へ通学されるとなれば、我らの格も上がりましょう。それに多額の寄付も期待できるのでは?」
ヨン・リーは計算高いところを隠そうともしない。
ゴズは弟の即物的反応に、苦笑いしつつも頷いた。
「確かにトイ卿からは、驚くべき額の寄付が申し入れられた。」
「ヨシッ!それは素晴らしい!早速受け入れ態勢に入りましょう!公子の修学ともなれば、並みの扱いとはいきますまい。」
トイ卿と言えばリュー公国の政策決定機関である『廟堂』第2位の高官であり、公爵家の大番頭でもある。そんな人物とのつながりは、学舎のみならずあらゆる側面でリー家の助けとなる。
「ヨン総師範、少々お待ちください。」
手を挙げたのは、2年級主任師範のゾウ老師だ。武術主任でもある彼の力強い声が響き、ヨンはぴたりとはしゃぐのをやめた。
「ゾウ老師は何か御懸念でも?」
ヨン・リーは二人の主任教育者に、大いに敬意を払っている。
学舎経営決定にこの二人を読んでいるのも、ヨンの意志によるものだ。
「左様、ジャン家の5男と言えば、巷で悪名高い『二環北のジェズ』殿でありましょう。」
リー家の2人より年上のゾウ老師は、闘犬のような顔をぐしゃりと潰し、ゆっくりと言葉をつなげる。
「このお方、幼い事より筋金入りの悪童にて、近所の子弟をそそのかしては、乱暴狼藉し放題であったと聞き及んでおります。」
そんなことも知らぬのかと言いたげに、ゾウ老師は3人をねめつける。
「かような方は『自律自学』を重んじる大同学舎に相応しいとは思われません。格というのであれば、当学舎はすでに全国各地から、貴族の子弟方を受け入れております。ただリュー公ジャン家では、これまで伏竜学舎へすべての子弟を就学させておられた。」
ここで一息つくと、ゾウ老師はその表情を怒りで曇らせる。
「5男のご就学にあたって、今さらなぜ当学舎を選択されたのか?恐らくは評判悪きご素行から、庶民の学舎を選ばれたか、あるいは伏竜学舎を断られたのでは?となれば我らに何の格が上がりましょうや?」
これを聞いたヨンはその顔から気色を消し去り、腕を組んで考え込んでしまった。
ゴズも頷いて同意を示す。
「私が厄介事と言ったのもそれを考えての事だ。第5公子は世に素行不良で悪いうわさが多い。トイ卿へはその点、包み隠さず申し上げた。」
彼は一同を見渡し話を続ける。
「だが卿は私の不安を一笑に付された。」
ゴズもここでニッコリ笑う。顔は怖いが笑顔には何とも言えぬ愛嬌がある。
「卿はかの公子を人材として高く評価されておられ、ご自身の若き頃にもなぞらえておられた。教育さえ万全であれば、やがて公国を支える礎になろうと仰せだった。そのためにも・・・我らが学舎での教育をご希望されておいでだ。」
ううむと一同うなり声を上げる。
「私はこのお話お受けしようと思う。」
「学長!それは早計では!?」
ゾウ老師は声を荒げる。そこに静かな声で制止が入った。
「ゾウ殿のご懸念はごもっとも。でも学長がお決めになったこと、もうその辺でお止しになっては?」
1年級主任のニン老師は、その知性を秘めたまなざしで諭すように続ける。
「トイ卿ほどのお方が、ご自身になぞらえるほどの人材、任せていただけるならば何を戸惑うことがありましょう?今の世の人が何と言おうと、後の国家の礎を教育する贅沢を、みすみす他に譲ることもありませんでしょう?」
2人の師範は同格であり、仮に公子が入学となればニン老師の管理下となる。
預かる方がそれでよいと言っているものを、関係なき方がそれはならぬとは言えない。
ゾウ老師はぶつぶつ言っていたが、ここは引き下がるしかなかった。
そんな経緯で預かった公子を、ふた月程度の間ではあるが観察してみて彼女の目に映るのは、世間の評判とは異なる仲間思いの、心優しき少年である。
態度の粗暴さはこの年によくあること、口より手が先に出るのも大した問題ではない。
驚くべきことに『波動』の能力がすでに発言している、とゴズ・リーから聞かされている。
文術への興味は薄いが仲間にやさしく、道理を重んじる傾向はある。
― この子の将来に役立つ教育とは何か。
王者を育てることではないと彼女は考えた。
トイ卿の言う国家の礎とは、まさしくトイ卿自身のような生き方、すなわち臣下となって国に尽くすこと。
― 武の才は疑いもない。ならば将の器を整えてやることか。
それには細かな暗記や計算をさせるより、その背景にある摂理を捉える力を身に付けること。
それができるようになれば、国家の礎となる大将軍となれよう。
彼女はジェズにそんな教育方針を立てている。
亥の月(12月)の満月の日、大同学舎では文術試験が始まった。午前中に数人の組に分かれて文字の試験が行われ、午後より歴史の口述試験が行われる。
口述試験は教室棟の北側に位置する、数部屋の試験部屋で一人ずつ実施される。
離れしていない新入生などは、雰囲気にのみこまれてすっかり緊張してしまい、せっかく覚えた知識も発揮できぬまま終わってしまうことが多い。
時間にしてせいぜい1刻(15分)程度のものだが、生徒たちにとってそれは永遠とも思える時間でもある。
ジェズの番がやってきて、扉の前で声高く名乗る。
「1年甲級、ジェズ・ジャン。」
「お入んなさい。」
静かなニン老師の声が答える。
灰色の師範着をきっちりと着込んだニン老師は、いつも通りの温和な態度でジェズを迎え入れた。
還暦を迎えるだろう年齢は、彼女の簡素な佇まいと表情にむしろ経験の持つ美しさを添えているようだ。
「入学してまだふた月ほどだけど、すっかり学舎になれたようね。ジェズ・ジャン。」
「うん、この学舎はとても快適だ。師範も生徒もいい人ばかりで感謝している。」
素直に感謝を口にするようになったのは、大きな成長でもある。
入学当初に師範を一人病院送りにしてゾウ老師を怒り狂わせたが、その後は大きな問題も起こしていない。
「今日は随分待たせてしまったけれど、大分緊張したのでは?」
彼は途中入学という事もあり、順番は一番最後になる。待つ時間が長ければ、余計な事を考え緊張感が増していく子供も多い。
「いや、今さら緊張しても出来ることが増えるわけではないからな。」
そう、とニン老師は微笑んだ。
彼に出題する問題が・・今決まった。
「それでは試験を始めます。」
さすがにジェズは少々引き締まった顔つきになる。
「公国の開祖リューシャンは、建国大戦の中で強大な力を手にしていきました。」
それは『建国記』の中から読み取れる。
軍隊も協力国も、作戦も天仙との協力も、彼なしでは動かないとされた。
「そこまでの実力者であった開祖リューシャン、彼はなぜ、自ら王国を望まなかったのでしょうか?これがあなたへの問題です。」
「は?」