小林みゆう(25)
ーーーセイレーンは、ギリシア神話に登場する海の怪物である。上半身が人間の女性で、下半身は鳥の姿とされるが後世には魚の姿をしているとされた。海の航路上の岩礁から美しい歌声で航行中の人を惑わし、遭難や難破に遭わせる。歌声に魅惑さて食い殺された者は数知れず。積み重なった骨はまるで島の様相を呈していたという。
薄暗いオフィスに、ぼぅっとパソコンのディスプレイに照らされた青白い女の顔が浮かんでいる。
その顔はまるで生気のない蝋人形のようであった。 キーボードを叩く彼女の手は、さながら感情のないロボットの様にディスプレイにひたすらに文字を刻んでいく。
キーボードを叩く無機質な音だけがオフィスに響いていた。
『prrrr………』
デスクに放り投げられたスマートフォンが鳴る。
『終電』という表題とともに設定されたアラームだ。
彼女はアラームを止めてひとつ背伸びをすると、デスクの端に置いていたもうとっくに冷めてしまった自販機のカップコーヒーを一気に飲み干した。
「…帰ろっと」
彼女が務める印刷会社のオフィスは繁華街のすぐ近くにある雑居ビルの二階に居を構えている。
今日は世間でいう華の金曜日。
「いやぁ、今日はありがとうございました」
「また飲みましょう。お疲れ様です」
繁華街は、酒が入り赤く火照った顔のサラリーマンで溢れていた。
ーーー本当は彼女も“久々に”そっち側にいた筈だった。
というのも先日、かなり急ぎの業務を持っていた彼女の後輩が突然行方をくらませてしまったのが原因である。
得意先へ送付する資料の作成。後輩の持っていた業務は繰り上げ式で一番のペーペーとなった彼女に押し付けられのだった。
勿論、彼女には彼女の仕事もある。
こなせない分は残業や休日出勤でカバーしなければならない。
肩にかかる程度まで伸ばした茶色がかったストレートヘアを揺らしながら、彼女は雑居ビルの階段を下り繁華街へと降り立った。
雑居ビルの向かいの居酒屋から男女の大学生の集団が楽しげに出てくるのを見て、なぜだか涙がこみ上げてきた。
ゴシゴシと目元をこすると、涙で滲んだアイメイクが手についた。
彼女は繁華街の向こうにある駅を目指して歩き出した。
数歩も歩かないうちに、目の前に若い男が勢いよく飛び出し彼女に声をかける。
「カラオケいかがっすかー?」
居酒屋やカラオケのキャッチというものは声をかける相手のそれまでのことなどは考えていない。今にも泣き出しそうだった彼女にも無差別に元気な笑顔を振りまきながら勧誘を行う。
「私一人なので」
「ヒトカラもできますよ。なによりもう終電なくないですか? お姉さん顔色悪いしどっかで仮眠とったほうがいいですよ」
終電がまだなことは知っていたが、カラオケで軽く仮眠をとって始発で帰るのもアリかもしれない。男の話を聞いて彼女はそう思った。
なにせ彼女はひどく疲れていた。
とても、家まで辿り着く気力も体力も残されていなかった。
「ごゆっくりどうぞ」
カラオケの個室に案内された彼女は、店員がドアを閉めたのを確認してからおもむろにソファへ倒れ込んだ。
「こんな生活してたらきっと死んじゃう」
誰にいうでもなく彼女は呟いた。
それは正真正銘の心の叫びだ。
もちろん彼女は、自分より過酷な環境で仕事をしている人がいることは知っているし、自分はその人たちと比べるとまだマシな方とは理解しているつもりだ。
ーーー終電で家に帰れる。
家に帰れるのは幸せなこと、きっと私は幸せ。
そう自身に言い聞かせ働き続けて、はや3年。
でも、彼女はもう限界だった。
どのみちここで仮眠を取っても明日の早朝には、4駅先の自宅へ帰って身支度をし直して休日出勤。
考えるだけで吐きそうだった。
彼女はソファに仰向けに寝転がり、スマートフォンをタップする。彼女の日課のSNSの確認である。
『今日は華金!同期と飲んでまーす♡』
『有給を使ってダイビング!海ってこんなに綺麗なんだ〜♡』
『今日は彼氏の誕生日♡ 一緒にお祝い!』
真っ先に目に飛び込んできたのは、
学生時代の友人達の充実した私生活の姿。
スマートフォンを放り投げ、溢れそうになる涙を誰かに見られないために両手で顔を覆う。
といっても、ここには彼女以外いないのだが。
それが最後の彼女のプライドだった。
「私だって彼氏ほしいよ…」
彼女は決して顔やスタイルが悪いというわけではない。
むしろ学生時代はモテていた方だ。
しかし、現在目の下にできた大きなクマがその顔を台無しにしているのはいうまでもない。
なんかクスリしてるの…?とは、最近結婚した友人の夫からの言葉。
彼女はおもむろに部屋に据え置きされている電話でビールを注文した。ビールは数分の後すぐ届いた。
もうどうにでもなれーーー
自暴自棄じみた発想で、届いたビールを飲み干す。
悲しみを吹き飛ばすように彼女は叫んだ。
「う、う、歌うぞ〜〜!!」
ーーーその時だった。
彼女の足元に幾何学模様の円“サークル”が出現した。
どこから投影されているのか、床に映し出された平面的な円“サークル”は彼女を中心にゆっくりと回り出す。
え?なにこれ、仕様? 彼女は少し狼狽える。
やがて、円“サークル”の回転速度は幾何学模様が見えない程速くなり、光の粒子が部屋を舞い始めた。
そして、光の粒子は彼女を覆う。
ーーー次の瞬間には彼女は部屋から消えていた。
残されたのは彼女が放り投げた携帯と、通勤カバンだけだった。