1 不愉快な朝
「――起きろ!」
「――ぉぐっ!?」
突如、腹の上に乗った衝撃で、目が覚めた。
瞼を開ければ、自分の上にぺったりと寝転がってオレを見下ろす少女の姿。
朝の光を、白いローブと長い銀髪が照り返している。
人のことを人とも思わぬ雑さには、この2ヶ月ですっかり慣れっこになった。
こいつは、嘘偽りなく心から本気で、オレのことを『愛玩動物』だと思っているのだ。
「ふーん、ふふーん、ふんふんふーん」
柔らかい身体をイヤと言うほど押し付けたまんま、オレの腹の上でご機嫌な様子で鼻歌を歌っているのは、ちょうど見ていた夢――ボロい小屋の中で大仰に誓った主従関係――の少女、レーグネンだった。
所詮オレの半分以下の体積しかない身体だ。重いとは言わないが、腹から胸にかけてじんわり押されて、気持ちが悪い。むしろ苦しい。
顎を上げて良い気な顔をしているが、そんなぺったんこな胸を押し当てられても……その……つまり、痛いだけだ。ちょっと惜しいとか思うワケもないので、どけて欲しい。いや、本当に。本気で。
……と言っても、この良い気なドヤ顔を見れば、降りろと言ったところで素直に聞くとは思えなかった。
さてどう言うべきかと考えていると、ぐっと身を乗り出し、唇が触れそうな距離まで瞳を近付けられた。鼻先に、甘い息が吹きかけられる。
「……起きたか、ヴェレ? うーん、今日も愛らしいじゃないか」
こちらの瞳を覗き込む、うっとりとした表情。
一瞬心臓が止まりそうになったが、すぐに気付いた。
愛らしいっていうのは、オレのことじゃない。
この次に来るだろう言葉が予測できたので、先回りしてうんざりする。
「ああ……! 何と麗しいのだろうか、あなたの瞳に映った俺は!」
感極まったレーグネンの声が、スルーした耳を右から左へ抜けていった。
さすがにそろそろオチが読めるようにはなってきたが、このナルシストに毎朝真剣に付き合っていたら、とてもじゃないが身が持たない。
ため息をつくと同時に、意識して表情を引き締めた。
「どけ」
隊長モードを発動する。
幼子を抱えるように脇の下へ両手を差し入れて、レーグネンの身体を自分の上から脇へ避けた。
意識して身に着けた『隊長』という名の仮面には、脳内でぴたりとくる慣れた感触がある。
既に自分でも、どちらが本当の自分なのか、判然とせぬ程に。
「あんっ」
嬌声に近い悲鳴は――本人曰く、少女の純粋と傾城の妖艶が混在した格別の声らしい。私から見れば、童女が色気づいて何を言うか、となるのだが。
起き上がってから改めてベッドの上を見下ろせば、わざとらしい恨めしさで見上げてきた。
「あのなぁ。あなた、ちょっと俺に冷たすぎると思うぞ。俺がこんなにもさーびすしてやってるのに全く動じぬ。まさかと思うが、性的に不能なのではあるまいな?」
笑うべきか、怒るべきか対応に迷う。
確かにこの美少女然たる見た目が愛らしいかと言えば……まあ……そこだけは頷いてやっても良いかも知れないが――それはあくまで見た目の話だ。中身の事情を認識している私からすれば――いや、まともに考えるのも馬鹿らしい。
私は内心の混乱を表に出さないよう、注意深く全く別の理由を選んだ。
「……私は成熟した女性の方が良い」
答えを聞いた途端に、レーグネンは呆れた様子で息を吐く。
「この、熟女趣味の変態が」
貴様を対象にする方が余程変態だ――まで、答えた方が良かったかも知れないが、必要以上の言葉は使わないことにしているのだ。
代わりと言っては何だが、このモードの私にしては長めのセンテンスで、別のことを口にした。
「貴様に、私の内面を気にするだけの精神的余裕があるのは、何よりだな」
ぴしっ、とレーグネンの表情が固まり、冷たい視線でこちらを見上げてくる。
「……俺はいつだって余裕綽々だ。それに対して、あなたは何か言いたいことでも?」
「いや」
「ならば、黙って俺に仕えていろ。可愛い可愛い俺の愛玩動物よ」
2度重ねられた「可愛い」がどの名詞を形容しているのか、確認するのも馬鹿らしい。それに、どちらにかかっていようが、さして嬉しくない。
レーグネンをベッドに放置して、身支度を始める。
向こうもオレから視線を外して空中を見上げ、けだるい声で他の名を呼んだ。
「リナリア。リナリア、来い」
「――御前に」
呼ばれた瞬間、私の足元に緋い女が駆け寄った。
出現の唐突さはいつものことだが、縮められた距離のなさに少しばかり驚く。勿論、表情には出さぬように努めているが。
女は、緋い――としか言いようがない。整ってはいるが、印象の薄い顔。緋色の髪をなびかせて、薄衣を纏っている。
知らず、その衣の端を踏みつけそうになって、慌てて足を避けた。
この場合は後から来た向こうが悪いはずだが――その手の論理の通じる相手ではないことも事実だ。
「聞いておくれ、リナリア。ヴェレったらヒドイのだ」
きゅう……と口を尖らして変な音を出すレーグネンの様子を見ていると、苛立ちがこみ上げて首を絞めてやりたくなってきた。
ところが、リナリアと呼ばれた緋い女にとっては、どうやらそうではないらしい。
レーグネンに同調するように私を睨みつける。
「このむくつけきならず者は、主様のご厚意を何と心得ておるのでしょうね……」
視線が艶かしい。緋色の薄衣の向こうに、柔らかそうな身体の丸みが見える。特に胸部。
これぞさっき思った通りの豊満な肉体を持った成熟した女性に、婀娜な感じで恨めしげに見つめられてるワケだが――勘弁してくれと言いたい気持ちと、諸手を上げて歓迎したい気持ちが重なって、結局はどちらも口には出さないことにした。
あれだ。オレ無口で通ってるし。
そもそも女であれば何でも良い、というものでも――まあ――うん。とりあえず、何も言わないことにしよう。
あ、やばい。脳内を隊長モードに戻さねば……。
「なあ、リナリアは、俺の味方をしてくれるよなぁ……?」
「勿論でございます、主様! わたくしはいつでも主様の味方……主様への愛のみで生きておる存在です!」
「リナリア!」
「主様!」
ひし、と抱き合う2人の姿を、馬鹿馬鹿しい思いで見やる。
しかし、口には出さず、ふと頭をよぎった別のことを尋ねることにした。
「おい、今日は何か約束があったのではなかったか? 昨晩そのような話が……」
リナリアの背中を撫で回しながら、レーグネンはしばし首を傾ける。
羨ましい、とは決して口に出したくない。その滑らかな背中をオレも撫でたい――なんてことは。
その姿勢のまま、ちっちっちっ……と時計の歯車が動く音をたっぷり60回聞いてから、レーグネンは慌ててベッドを飛び出した。
「――いかん。仕事だ、ヴェレ! 何をぼんやりしておるか!」
「ああん、主様……」
腕から放り出されたリナリアが切ない声を上げる。
オレの方はと言えば、ぼんやりしてんのはあんただ、とは、かろうじて口にしないだけの余裕がまだあった。
言っても詮のないことではあるし、まあ……麗しい少女と肉感的な美女がじゃれ合う様は、見ていて楽しくなかったワケでもないし。
楽しくなかったワケじゃないが、しかし。
唯一気になることがあるとすれば――
「おい! ヴェレ、早くしろ、約束の時間に間に合わん!」
不満げに睨みつけてくる紅い瞳を見下ろして、オレはやはり頭の中だけで――隊長モードで文句を言う。
唯一気になることがあるとすれば、その愛くるしい外見に覆われた貴様の中身がどんなものであるか、知らないままでいられれば良かったのに、ということだろう。
もしもそうなら、小娘に顎で使われる今の状況すら、もしかするとある種の仄暗い歓びすらあったかも知れない。踏み躙られて放置されて、支配される。経験はないが、新たな道へ踏み出すのも意外に面白かったのだろうか――微妙にアブノーマルな道のような気はするが……。
だけど全ては、レーグネンの中身が見た目通りの少女でありさえすれば、って前提が必要だ。
そして、その前提が満たされてない限り、残念ながら、オレが心底お前に屈服することは有り得ない。
上手く御したと思ってるんだろう? 良いぜ、勝手に調子に乗ってやがれ。
オレはそんなお前を上手いこと利用して、自分の目的を遂げてやるさ!
――私の求める理想を、この手にするために。