14 一年麦の約束
「アイゼン!」
レーグネンが叫んだ途端、飛竜騎士の団長が身体をぐらりと揺らした。
抉り出すように肉を引き裂かれた首元から、青い血液が噴き上がる。
痛みのためか空中で捩られそうになった身体が、それでも背中の上のオレ達の存在を思い出して限界で動きを止めた。その引き攣るような筋肉の緊張が足元から伝わってくる。
だが、たとえ今振り落とされなくとも、落下は時間の問題だろう。空を打つ翼の動き自体が止まりつつあった。
最後の力を振り絞って、何とか少しずつ高度を下げようとしている騎士団長に向けて、アイゼンの爪は容赦なく二撃目を放とうとする。
「させるか!」
踏み込んだオレは、振り上げた剣で下からその爪を弾く。
金属質な音が響いて、反動でアイゼンの脇が空く。体勢を崩したアイゼンに向けて、更に距離を詰めた。
同時に剣を振り下ろして、隙の出来た肩口を狙う。
「やめろ、ヴェレ! やめろ! アイゼン!」
追い縋ってきたレーグネンが、オレの背中を掴んだ。
舌打ちとともにレーグネンを押しのけようと手を止めた途端、背を丸めたアイゼンが胸元に飛び込んでくる。
爪を振るわれるまでもなく勢い良く押されて、後ろのレーグネンごと、そのまま飛竜の背から投げ出された。
一気に重さを失ったように、おかしな浮遊感とともに真っ逆さまに落ちていく。
「――ネーベル! アイゼン!」
背中から叫ぶ声が聞こえてきた。
今まさに自分自身が海面へと落下していく中、咄嗟に呼ぶのが遠ざかっていく友の名とはコレらしい。
呆れ混じりの笑いが浮かんできそうになる。
だが、それでも。
その愚かさとひたむきさを――愛しいと思った。
仕方ない。
青龍将軍も魔王も知らない。
この中途半端な存在が、オレの知るレーグネンだ。
垂直に落ちていく風切り音を耳に、何とかこいつだけは守れないかと、必死で身体を捻る。
背中側からたぐって腕の中にその身体を抱き寄せたところで、しがみついてきた手が震えた。
「――『青龍よ、疾走れ』ぇ!」
胸元で叫ぶ声の直後に、背中にひどい衝撃が走った。
「ぐはっ!?」
海面にはまだ早い。
真下から逆向きに駆け上る青龍の背に、オレの身体がぶつかったのだ。
衝突でバウンドする勢いを殺そうと、左手でレーグネンを抱えたまま、右手で青龍にしがみつき、身体を支える。
落下の勢いで鱗を滑りながら落ちそうになったが、何とか指先を立ててぎりぎりで掴まった。指先に引きちぎれるような痛みが走り、何本か爪が折れたのかも知れないがそれで手を離すワケにもいかない。
摩擦熱だか痛みの余韻だかで背中が熱いが、うまいこと青龍の背から落ちずに止まった。慌てて身を起こしたレーグネンが真上から見下ろしてくる。
「ヴェレ、大丈夫か!?」
「……何とかな。あんたこそ、立て続けに青龍を召喚して大丈夫なのか」
見上げれば、額に浮かんだ汗の玉が日の光を反射して輝いている。
「……大丈夫じゃなさそうだな」
「馬鹿な、大丈夫に決まってるだろう。俺に不可能などない」
その言葉が意地でしかないことも分かってはいるが、オレは素直に頷き返した。オレが分かっているということも、きっとレーグネンには分かっているだろう。だから、分かっていても言わない方が良いことだってある。
痛む背を何とか引き起こし、今の落下でどこかにいってしまった自分の剣を探す。
――ない。海に落ちてしまったのだろうか。
さっきはレーグネンを抱えるだけで精一杯だったから、正直、いつの間に吹っ飛んだのかすら全く覚えていない。
周囲を見回している内に、青龍の頭の向こうを、先程まで背中を貸してくれていた飛竜の団長が落ちていくのが見えた。
「――ネーベル!」
手が届くワケもないのに、レーグネンは名を呼びながら駆け出している。
ふと、真上から落ちてきた影が見えて、オレは真横を駆け抜けようとする背中に慌てて手を伸ばし、引っ張って後ろに庇った。
直後、つい一瞬前までレーグネンのいた場所に、アイゼンが落下してくる。
音もなく青龍の背にしゃがみ込み、長い尻尾が身体に遅れて鱗に触れた瞬間に、顔を上げた。
「……どうやら君以上に、愛玩動物の方が強敵じゃないか。計算外だ」
「アイゼン! どういうことだ、これは! 何故あなたがネーベルを……本当にあなたがこのルートをグルートに教えたのか!?」
庇うオレの腕を押し退けようと、背中からレーグネンが顔を覗かせる。
オレは軽い体重移動でその動きを止め、前に出させないように封じた。
元より青龍将軍も魔王も肉弾戦は得意ではないはずだ。ましてや、混じり者のこいつが前に出れば、アイゼンの爪の格好の餌食になることなど、容易に予想がつく。
とは言え、まともな武器がないままでは、オレだってそう変わらない。
鎧の裏にある小刀に手を伸ばしながら、どこから武器を手に入れるか必死で考える。
そんなこちらの考えを知ってか知らずか、余裕のある様子でアイゼンはゆっくりと落下の姿勢から身を起こす。その金色は、オレを透かして後ろのレーグネンを――いや、レーグネンすらも透かしたどこか遠くを見ていた。
「そうだよ、レーグネン。いや、魔王陛下? ――いや、やはり君はそのどちらでもないんだ。その名で呼ぶのは相応しくない。……私の愛した者は死んでしまったんだ。君は全く別の存在であり、私の知る2人ではない。君自身もそう言っていただろう?」
はっきりと言い切られて、背後で息を呑む音が聞こえた。
何も言い返せず、言葉を飲み込んだ音が。
アイゼンの視線が、ふと斜め上に向いた。その視線を追えば、誰も騎乗していない3頭の飛竜騎士が朱雀や人面鳥兵と絡み合うように戦っている。
が、さして気にした風もなくこちらにそのまま視線を戻した。思わず、皮肉が口から溢れる。
「我らを裏切ってまで向こうについたというのに、勝敗は気にならないのか、白虎将軍」
アイゼンは苦笑して肩を竦めて見せる。
「グルートに味方するつもりはない。なかった……いや、やはり今でもない、と言っても良いだろうか」
その軽い言い分に、背後のレーグネンが声を上げた。
「――ならば、何故!」
「君に味方する義理もまた、ないからだ。私の友は青龍将軍だけで、私の主は魔王陛下だけ」
金色の瞳がオレから外され、背中のレーグネンへと戻る。
「君は、そのどちらでもない」
「……俺のせいか。俺があなたの味方たり得なかったからか!? では、もしも。もし俺が元の青龍将軍ならば、魔王のままならば、あなたはこんなことをしなかったと?」
アイゼンはその問いに否定も肯定もせず、ふらりとただ尾を揺らした。
「問いたいと思った」
「問う?」
「かつて、私がレーグネンと交わした約束……君は、あの記憶をそのまま引き継いでいるか?」
「約束?」
今のレーグネンは魔王と青龍将軍の両方の記憶を持っているらしいが、混ざって1人になったせいで、ところどころ記憶のない部分があるらしい。
今の声色からすれば、思いあたりがないのだろう。
その、約束というものについては。
応えるアイゼンは、失望とも納得とも取れない微かな笑みを浮かべる。
「まあ、覚えていたところで今の君では無駄なのだろうな……」
「そんなの分からないじゃないか! 言ってみろ、俺が引き継げることなら――」
「――あの夜、レーグネンは、あの宇宙船の絶望に呑まれそうな私を必死で説得したのだ」
「……あの夜?」
魔物達と思い出を共有していないオレには、いつのことだか分からない。
レーグネンにも思い出せないらしい。
だが、多分。
それは、宇宙船の上の決定的な決断をした、その夜のことなのだろうと察しがついた。
「渋る私を納得させるため、ただ最期までの時間が延びるだけだと、それまでに何かの策を見付ければ我々は解放される、と。そして、最期まで決して私を1人にはしない、とそう約した」
「……だが、あなたは」
「なのにどうだ? 遺されたのは誰だ!? 約した本人が一番最初にいなくなった!」
アイゼンの声が怒りを――いや、哀しみを――帯びて一際強く震える。
もうその声が誰を責めているのか、オレには分からなかった。
かつての青龍将軍に向けられたものか。共に失敗した魔王を糾弾したいのか。
……それとも、目の前のレーグネンを弾劾しているのか。
「君は――いや、レーグネンは約を違えたのだ……」
「待て、あなたは1人なんかじゃない! 今のあなたにはフルート嬢だっているじゃないか!」
レーグネンの言葉に、ふとアイゼンの口元が緩んだ。
「ルーは愛らしい娘だ。強かで賢く、しなやかだ。彼女には未来があり、黒曜石のように輝く瞳はいつも希望を見つめている……」
「なのに何故、彼女を置いて朱雀に力を貸すようなマネをする!」
「……君には多分、分からない。1千年の孤独を、本当の意味で理解していない君には」
その言葉で全てを言い切ったとでも言うように、アイゼンが腰を落とした。
風が巻くようにその身体が突っ込んでくる。霞んで見えるようなスピードだが、何とか反応して、突き出された爪を小刀で弾いた。
あまりの素早さに弾くのが精一杯で、反撃など考えるべくもない。
弾かれた勢いを使って、跳ねたアイゼンの足先が蹴りまで繰り出してきたが、わずかに身を捻って鎧の胸当てで受けるのが限界だった。音を立てて凹んだ胸当ての金属板に押されて、数歩、たたらを踏む。
獣の王は、体勢を崩したオレに、更に追い縋ってくる。
小柄な身体が数倍にも思えるような威圧を受けて、絶望とともにそれでももう一度小刀を握り締めた。
目前に立つアイゼンに向けて、恐怖と怒りを吐きだすように叫ぶ。
「――バカ! レーグネンはもういないと言うなら、コレにその責を負わせる意味があるのか!」
ふと、鼻先まで迫っていたアイゼンが、オレの言葉を聞いて、微笑んだような気がした。
が、それを確認する間もなく、鋭い爪が下から掬い上げるように抉ってくる。
身体を反らせて何とか避けたが、その前から後ろにかけていた重心がぐらりと傾いだ。この体勢から次の攻撃は逃れられない。
選択を間違えたことに後から気付いたが、もうどうしようもなかった。
しかし、後退してもぶつかるものがなかったことで――ふと、いつの間にか真後ろにレーグネンの身体がないことに気付いた。
「――アイゼン、やめろ! ヴェレに」
その声は、真横から聞こえてきた。
魔王の姿をしたレーグネンは、紅の瞳を濡らしながら、オレの剣を胸元に構えていた。
「――レーグ……!」
名前を呼んだのは、オレとアイゼンのどちらだっただろう。自分でも判然としないが、多分、オレの方かと思う。
「――ヴェレに、さわるな!」
その瞬間は、ゆっくりと――時間が止まっているかのようにゆっくりと動いているように見えた。本当は、瞬きをする程の短い時間だったのかも知れない。
レーグネンはしっかりと掴んだ剣を握り、真っ直ぐに駆け込んできた。
微笑んだままのアイゼンの胸元を、吸い込まれるようにその剣先が――貫いた。




