10 一日晴の騎馬
別れを前に、タオやシェーレと話し込んでいると、ずぞ、と背後で巨大なものが息を吸った音がした。
「騎士に騎乗する騎士など、古今東西記録にもないぞ。青龍将軍の頼みであるからこそ許されることと、心して上がれよ?」
厳かに低い声が辺りに響く。
飛竜騎士の団長が呼びかける声を聞いて、オレとフルートはそちらに向き直った。
当初よりも随分近付いている飛竜を見上げて、少しばかり目を見開いて見せると、団長は分厚い果肉のような唇を歪めて鼻息を吹いた。笑ったのだろう。
「準備はよろしいかな、嬢や?」
「ええ! 空の旅なんて楽しみ! ね、ぅお兄ちゃま」
「空中であんまりはしゃぐなよ? うるさいと飛竜騎士に振り落とされるぞ」
「まあ! 騎士様は皆優しくてよ。ぅお兄ちゃまみたいなイジワルはしないわ」
フルートの言葉に、飛竜団長がゴロゴロと喉を鳴らす――笑ったらしい。
「小さき淑女の下になるとは、雄の誉れ。嬢を乗せるのは誰にするか、雄達の間では奪い合いにもなったのだぞ」
「あら、嬉しい! こんな立派な騎士様に奪い合われるなんて、お世辞でも胸が高鳴るわ。やっぱり騎士様はお口がお上手なのね」
「いえ、お世辞などではありません。相当の範囲で事実です。雌に飢えた野獣どもに近づくのは危険ですから、お嬢さんはリナリアと一緒に私の上にお乗りください」
団長の斜め後ろに控えていた小柄な飛竜が、鋭い声で、しかしフルートに対しては優しさを滲ませる目つきで口を挟んだ。位置取りから考えると副官だろうか。しなやかな身体付きからすると、雌のようにも見えるが。
「本当は儂が乗せたかったのだが、小うるさい副官に雌の身体をむくつけき雄などには任せられないと言われてな……」
「おや。私が乗るのではご不満だったか? 飛竜騎士の」
本当に残念そうな声の団長に、ちょうど向こうから歩いてきたアイゼンがからかうような声をかけた。長い尾が左右に振れているので、飛竜への騎乗はアイゼンにとっては楽しみなことらしい。
団長も、瞼を細めながら答える。
「おうおう。四神の一を背に乗せるに、何の不満があろうか。疾く上がり給え」
「お言葉に甘えて」
いそいそと鱗に足をかけるアイゼンを、飛竜の団長は愛しそうに見下ろしている。口調が古めかしいので一見そうとは見えないが、こういうのは八方美人と言うのじゃなかろうか。さもなくば、軟派野郎、と。
呆れて眺めていると、アイゼンの横を離れたレーグネンが、魔王の姿でこちらに向かってくる。
「何を変な顔をしておる。あなたはこっち――青龍を召喚するから俺の後ろに乗れ」
「青龍というものは、海を渡れる程長く召喚し続けていて平気なものか?」
「平気ではないから休み休みだ。召喚時間に限界が出たら飛竜の背に乗り換えるさ。しかし、飛竜と違い青龍ならば上空まで上がって遠くを見通せるから」
見張りにはもってこいなのだ、と肩を竦めるレーグネンに袖を引かれる。
その力に従って歩を進める前に、最後に振り向いた。
不安そうに見つめるシェーレと、そっぽを向いたままのタオに軽く手を振る。
2人から別れの言葉が返ってくる前に、黙って背を向け、レーグネンの後を追った。
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「……では、行くぞ」
月明かりの中、団長飛竜の声が空気を震わせる。
ばさり、と羽を広げ、大きく1つ羽ばたいた。
途端に、重力を失ったように浮き上がる身体を感じ、団長の背中でアイゼンが口笛を吹く。
その音に悲鳴が重なった。
「っぎゃー! ぎゃー! なんですかこれ!」
「……シャッテン、うるさいぞ」
「だだだだだって! 浮いてますよ!?」
よく見れば、アイゼンの後方の飛竜、グリューンの背中にしがみつくようにシャッテンが座っている。
「おい、シャッテン! お前さん、もうちょっと静かに乗ってられないのか?」
「だって、こんな風に浮くなんて聞いてませんよ! ちょわっグリューン! 離さないで、離さないで!」
「空飛ぶって言ってただろう……あ、おい! そこ掴むな!」
「あ……っぎゃああぁー!?」
「やめろ! そこ掴むなって!」
一際甲高い悲鳴が上がった途端、背中でうるさく喚かれている飛竜と、どこかを掴まれたらしい前方のグリューンが、同時に顔を顰めた。
可哀想だが、オレがあの位置でなくて良かった……などと思ってしまう。
アレも四神の一なのだが……まあ、光栄には思いがたいかも知れない。
そもそもあんたも飛べるだろうが、と突っ込みたくなったが、まあ自分で飛ぶのと人に飛ばされるのは違うのかも知れない。騎乗した時に、自分が手綱を持つのと人握られるので恐怖が違うように。
「喚くな、玄武将軍よ。飛ぶぞ――」
「ぎぃああぁあああ……!」
団長の言葉を聞いているのかいないのか、長く伸びるシャッテンの悲鳴を引き摺りながら、飛竜達が前方へと滑るように飛んでいく。
その姿をすべて見届けてから、オレとレーグネンの跨る青龍は長い身体をくねらせ、空へと駆け上った。圧力だか何だか分からないが、ぐっと胃が下に押し下げられる感覚。
風を破り雲を突き抜け、上空へ、上空へ――あっという間に、地上のタオ達の姿は小さくなり、やがて見えなくなる。
一度雲を越えた後、再び滑り降りるように滑空し、また雲の中を突っ切って降りていく。
あまりの急昇降と速度に、オレは前方のレーグネンの肩を掴んだまま、言葉も出せない。
あの程度の移動で素直に悲鳴を上げられるシャッテンが、少しだけ羨ましい。
ふと見れば、足元に広がる大海原を、海面すれすれで飛竜達が連隊飛行している。
あんな巨体も、この上空から見下ろせば、まるで豆粒のようにしか見えない。
ようやく上下方向の移動を止め、うねりながら海面と平行に走り出した青龍の背で、オレは安堵の息をついた。
その様子が伝わったらしく、前方のレーグネンが楽しそうに、くは、と笑い声を上げる。オレの胸板に背中を預け、仰向けるように見上げてきた紅い瞳。側頭部の角が、腕に絡むように擦り付けられた。
「どうだ、空の旅も悪くないだろ?」
「……この忙しない上下動がなければな」
「仕方あるまい。青龍とは駆け上るものだ。それに……」
その笑い方を見ただけで、続けて何を言うつもりか大体分かった。分かってしまった。
どうせ、こうしてあなたと2人きりになれたのだから良いだろ、みたいな可愛いこと言ってオレを狼狽えさせるつもりなんだろう。そうに違いない。
会談の後、いつの間にやらまた魔王の姿に戻っているからと言って、こういうときなんだから少しは自重しろよ。
頭の中だけでそんな愚痴をこぼしつつ、上向いて咲きこぼれた唇を、オレは黙って塞いでやった。
一度見開かれた瞳が少しだけ迷って閉じられる。
その様子を多大なる満足を感じながら見下ろし、オレもまた目を閉じた。
……全く。どいつもこいつも浮かれている。
顔を離すと、あまりにも幸せそうに笑っているから、思わず何か皮肉めいたことを言ってやりたくなる。
かろうじて言葉を殺してため息をついて見せたところで、吐いた息の音がまるで笑っているように聞こえたから驚いた。いつの間にか、自分の頬も緩んでいるらしい。
仕方あるまい。
戦いの前に誰かを求めたくなるのは、生きとし生けるものに共通する性質なのだから。




