5 一生分の誓い
こちらが立ち上がると、レーグネンは黙って視線を逸らした。
が、そのタイミングから言って、見てはいるのだろう。
近寄って声をかけようとした瞬間、先手を取るようにレーグネンが口を開いた。
「……せめて俺がずっと娘の姿をしておった方が、まだしもあなたにとっては良かったのだろうか。飼い主としてそれくらいはしてやりたかったのだが、どうも自分でも制御が出来ぬようなのだ。だがもしも、もしも俺が普通の娘であったなら……」
そこで、言葉が途切れた。
多分、それ以上はレーグネンの矜持が許さないのだと……それくらいは、オレにでも分かる。
こんなときまで高慢を貫く寂しがり屋で意地っ張りな魔物に、最後まで言わせぬよう、オレが後を取った。
「あんた、これからどうするんだ?」
「……どうする、とは?」
「魔王領のこともそうだが、あんた自身も……」
くくっ、とくぐもった笑い声が響く。
視線をこちらに向けぬまま、囁くように答えが返ってきた。
「今回の実験の前に、『俺』達は決めておったのだ。これがうまくいかなければ、後は人族と手を結ぶしかない、と。今ならば……まだ、対等な条件で戦を終えられる」
「なるほど。だからあんた、はるばる王国まできたのか。シャルムと話をするために」
「……まあ、今の俺が魔王領にあのままおるわけにもいかん、という事情も勿論あるよ。先のアイゼンの様子を見ただろ。信じてくれたからまだ良かったが、偽物扱いされれば生命も危うい。一か八かでこのまま魔王の振りでも出来ぬかと試してみたが、アホのシャッテンにすらバレるのだから……そもそも騙し果せる訳がなかったのだよな」
「とか言いながら、途中まで本気で騙そうとしてた癖に」
突っ込んでやれば、自嘲じみた苦笑。
「実際にやってみてようやく諦められた、というところか。何せ、俺はアイゼンのこともシャッテンのことも、完全にではないとしても覚えておるのだからして……顔を見れば『本物』と同じく愛しさが込み上げてくるのだから仕方ない」
友として主として接した関係を維持できないかと、最後に足掻いてみたということか。
もしかしたら、このままどちらかのフリを続けられはしないかと。
「……が、やはり無理だった。こんな中途半端な状態では俺の行き場などどこにもない。魔族領については、準備の良い『俺』が幸いにして事前に作ってあった『遺言』でも見せて、アイゼン達に後のことは任せよう、と思っておるが……さて、俺自身はどうすべきかな」
しばらく沈黙が続く。
そのまま黙ってしまうかと思ったが、少しだけ間をあけてからゆっくりとこちらを振り向いた唇は、いつものようににんまりと歪んでいた。
「あなたからすると少しばかり期待はずれかね? 一族を魔王の庇護のもとに入れたかったのだろ?」
「……気付いていたのか?」
「気付かいでか」
鼻で笑う顔が、必要以上に憎たらしく見える――いや、わざとそう見えるようにしているに違いない。
この魔物は、そういう生き物だ。
己の腹を最後まで見せぬ。
……まるで、ついこの前までのオレ自身のように。
オレ自身が裏切った癖に、助けに行って恩を売る。
己の汚さに気付いてはいたけれど、朱雀が出てきた混乱で指摘されないのを良いことにそのままにしておいた。オレの目論見に気付いていないとは思っていなかったが、出来れば……自分でも直視したくなかった。そんな汚い誤魔化しだ。
多分同じようなことを考えているんだろう、オレ達は。
「言った通り、俺にはあなた方を魔王領に受け入れる義務もなければ……権限すらない。一族のことを考えるなら、アイゼンにでも頼め」
「……ああ」
「……まあ、こういうのを後出しで言う辺り、俺も大概どうしようもないな。アイゼンの言う通り中途半端なのだろ」
ふう、とため息が落とされた。
「そんな訳だから、俺とともにいても何のメリットもないぞ。さっさとアイゼンを追うが良い」
犬を追い払うように手を振られて、オレもまたため息をついた。
「……あんた、本当に素直じゃないのな」
「んなっ!?」
勢いで振り向いた頭が、即座に後ろに下がった。
多分、予想よりもオレが近くにいたからだろう。
「――ちょっ!? 近い!」
「寂しかったんだろ」
「……な、なぁっ!?」
更に距離を開けようと背を逸らしたレーグネンを、右手で引き寄せ立たせる。
見開かれた紅の瞳が、慌てたように何度も瞬きを繰り返した。
「待て……これ近……っ」
「愛玩動物だメリットだと、そんな理由でもないとオレは傍にいたがらないと思ってるんだろう?」
ほら、その理論。ついこないだまでのオレと同じじゃないか。
求められる理由を、求めねばならない理由を探して。
――だけど、本当はそんなのいらなかったんだ。
オレはダメで色々足りなくて、頼りがいのない男だったけど、それでも皆ついてきてくれてた。
多分、あんたもそうさ。
信じてないだけなんだろ。周りのこと以上に、自分のことを。
似たもの同士なんだ、オレ達。
自分以上に目の前の魔物のことが理解出来るような気がして、それが何だかおかしくて。
笑おうとした途端、腕の中に抱き締めた身体がぶるりと震えた。
「ぅあ……っ!?」
小さな悲鳴が途中から甲高く変わり、目線が下へ下がっていってしまう。
「何で……今!?」
困惑したような表情は甘さを増し、オレの右腕にすがりつく手が細く軽くなった。胸元に緩やかな膨らみがあらわれ、腰がくびれて弧を描く。
前触れもなく『魔王』の姿に戻ったレーグネンは、狭い腕の中で腰を捻りながら、自分の身体をきょろきょろ見下ろしている。突然現れた変化にはオレも呆気にとられたが、何よりも変わってしまった本人自身が一番不思議に思っているらしい。
「どういうことだ、これは。青龍を喚んだ訳でもないというのに……!」
「あんたの身体だろう。あんたに分からんことが、オレに分かるワケない」
「いや、あなたに聞いているのではなく――あ、待てって言ってるだろ――ぅぷっ」
胸元に押し付けるように抱き寄せた。
何が何だか分からないが、今が好機だということだけは分かる。
今言えなければ、きっと一生、一族を勝手に重荷に感じて、うじうじと地を這うだけの男に成り下がるだろうってことも。
「――妹がいる」
「……へっ?」
変な声とともに顔を上げようとしたから、左手で頭を押さえて上がらないようにしてやった。
「アイゼンに頼むのはフルートがやってくれる。ドラートから一族の半数が解き放たれた今、シャルムの元にいる残る半数の解放もすぐさ。そうすれば後はオレの父親が――北の民の本来の長が何とでもするさ。フルートと父親に任せちまえば、オレの出る幕はない」
「……っ待て待て待て! 言動が乖離しておるぞ! フルート嬢やあなたの親父殿の存在と、今のあなたのこの――」
「オレは一族ぜんぶ背負ってるんだと思ってた。だけど、違った。北の民はフルートやタオやシェーレや……皆が北の民なんだ。オレだって北の民だが、それが全部じゃないんだ」
息を呑む音が、手のひらの下から聞こえたような気がした。
もしかしたらオレの気のせいかも知れないが。
「あの雨の夜、生命と引き換えにオレは忠誠を誓った。誓った相手は魔王でも青龍将軍でもない、今のあんた――レーグネンだ。そうだろう?」
「そうだ……」
「オレの生命は1つしかないのだから、その誓いも唯一だろうな。変わることはない、この生命果てるまで」
手の下から、くっ、と笑いを漏らす声が聞こえる。
さすがに腹が立って左手を除けた。人が真剣に話をしているのに、何だこいつは。
顔を見てやろうと、今までとは逆に首筋に手をかけて押し上げると、やはりと言うべきか、おかしな風に唇を歪めていた。
「あんたな……って――」
叱りつけようとした途端、目尻を透明な雫が伝っていったので、慌ててもう一度胸元に引き寄せた。
まさかそんなものを見てしまうとは思わなかったので――いや、もしかしたら気のせいかもしれない。何だかシャツが生温かくて湿ってきたような気がしているのも、気のせいだろう、きっと。
ぐもごもと変な呻きが聞こえた後に、震える声が続く。
「……くそっ。愛玩動物の分際が格好つけて、面白いことを言うではないか……笑い過ぎて涙が出てきてしまうぞ」
「いや、別に面白いこと言おうとしたワケじゃ……」
「良いか、『魔王』と『レーグネン』が混ざって生まれた俺には、本来名前などない。だが……」
俺の手を軽く払い、ゆっくりと上がってきた紅の瞳が、真下から高慢にオレを貫いた。
「――だが、俺はレーグネンだ。俺のことをそう呼ぶ、我が愛しきヴェレがここにいる限り」
その瞳にはもう涙の跡などなくて――立ち直りの早さに呆れると同時に、どこかほっとしたことも否めない。
いつも通りの表情に安堵した後から、ようやく今の状況が冷静に見れるようになった。
腕の中、(多分涙の余韻で)頬を赤らめた女が1人。
あれ? と思った途端、レーグネンの声が何やら思わせぶりに甘くなった。
「……さて、北の民では長の息子に『例の力』が継がれるのだったな。俺には子を孕む力はなし、次代の長は子を作らねばならぬとしたら、これはアレだな。妾腹の子も我が子として慈しむ懐の深さが求められておるということだろうな」
「……ん?」
妾どころか、妻もその手前の存在も何もないのだが、突然何を言い出すのだろう。
「くふふ……安心せよ。俺はな、上に立つ者の責務というものも十分に理解しておる。何せ己の通った道であるから……それにまずは俺が諸々手ほどきをしてやらねば、あなた、少しこの手の経験が足りぬのと違うか?」
すすっと鎖骨から首を上がってきた指先が、オレの耳たぶを軽く弾く。
痺れるような快感で、反射的に肩が浮いた。
「っ……!? ま、まままま、待て!」
「先ほど、俺があんなに待てと言うたに、待たなんだのはどこの誰だ。自ら求めるところは人にもせよと幼き頃に言われなかったか?」
「いや待てって。オレは……」
耳から頬へ、そして唇へと指が這う。
人差し指に唇を塞がれて――そんなつもりじゃなかった、なんて野暮な言葉は言い損ねた。
そんなつもりじゃないんだ。
オレはただ、人間としての要不要を言っただけで……つまり、恩を返すとか共に立つとかそういう……だから、決してあんたをそういう対象と認めたワケではなく、そんな身体を添わせて体重をかけられたところで何だコレ柔らかいとか、うわー、こんな直に触ったの初めてじゃないか、いや待て、何であんたそんな背伸びしてまで近付いてくるんだそんな近くにきたら目を閉じなきゃいけないような――
「――んぐっ……!?」
怯えと驚きで中途半端に閉じた瞼の向こうで、ぱっちり開いたままの紅の瞳がにんまりと細められた。
おいコレ、あんた――わざとかよ!?
文句を言おうと唇の端から吸った息は、すぐに柔らかく押さえつけ翻弄されて、快楽とともに吸い出される。
足の力が抜けてたたらを踏んだ途端に、体重をかけて押されれば、後はごっちゃになって床に倒れこむだけだ。
頭を打たないようにかろうじて受け身はとったが、唇が塞がれたままであることは変わりない。
貪るように攻め立てられて、湿った音の向こう、魔物が1匹笑みを浮かべていた。
教訓。ちょっと弱ったように見えてるぐらいで、レーグネンに気を許してはいけない。
旅の間に覚えたはずの教訓を頭の中で繰り返しながら、オレは上に乗った柔らかいものを引き寄せて、自分の身体と上下入れ替えた。
絨毯の上から楽しそうに見上げてくる紅を、見下ろしながら吐いた息には、多分諦めとか呆れとか戸惑いとかが混じっていたと思うのだが……それ以上に胸に留めておけない欲望があったとは認めたくない。
認めるためには、こういうなし崩し的なアレじゃない、覚悟がいるのだ。
そんなこんなで、主人の興を見ていつの間にやら姿を消したリナリアは、よく出来た僕なのだろう、多分。




