11 有り様の痛み
オレが何を応えるより先に、がこん、と向こう側からフルートが壁を殴る音がした。
「どちくしょう! あいつら、またアイちゃんの傷を増やしやがって……ぅあの王国のどクソ野郎どもが……!」
怖い。
壁の穴から漏れてくる地を這うような低音の罵りは、我が妹ながら普通に怖い。
……が、それも正義感の強さと友情の篤さによるものだと知ってはいるから……平気な顔で見過ごす私などはよりよほど良い。
「ルーよ、それ以上力を込めると壁が割れるから止めておけ。そうなってしまうとさすがに誤魔化せない」
「壁なんて割ってしまいたいよ! こんな……一族のことさえなければ、アイちゃんを連れてどこまででも一緒に逃げるのに!」
力強いフルートの言葉を聞いても、アイゼンは表情を変えなかった。ただ、黙ってはたはたと揺れる尻尾が私の視界に確かに入っている。
ともに虜囚の娘達は、今までもこうして互いを慰めあっていたのだろうか。
逃れられぬ現実を耐え切るために。
「逃げる……か」
思わず口から滑り出た言葉に、アイゼンの金の瞳がこちらに向けられた。
「ルーの話では、君が一族の若長であるということだったはずだが……意外にも思い切りが悪いな。ルーの方がよほどはっきりしている」
「資格があるかどうかは別にして、フルートの言葉は間違いじゃない。オレが長の息子であることは事実だからな。だが、だからこそそう簡単に何でも思い切れやしないだろ」
「……ずいぶん頼りない言葉だ」
ああ、どれもこれもアイゼンの言う通りだ。
今だって、王弟ドラートについていて良いのか、なんて、今更迷ってる。
だから――他に有利な道があるなら、そちらに寄るさ。
いつだって。
この件について、オレにはプライドなんかない。
何よりも一族の平和と無事が優先だ。その為なら何でもする。
たとえ誰かを――誰よりも傍にありたいと思う誰かを――罠に陥れてでも。
そんなオレの前に、もしも……シャルム王子でも王弟ドラートでもない、我らが寄るべき大樹に相応しい第三の選択肢があるのだとしたら?
先走る自分の思考を、必死で抑える。
まあ、ちょっと落ち着け、オレ。
果たして魔王領で、北の民は本当に平等に扱われ得るのか?
魔王はシャルムともドラートとも違う、真に額づくべき人物であるのだろうか。
彼の人物について噂ですら聞き知らないと言うのに、大きく心が揺れたのは、きっと今までに出会った魔物達の有り様によるものだろう。
私に対し――北の民であり人間である私に対し、忌避の心も侮蔑も見せなかったリナリアの、シャッテンの、アイゼンの、そして……レーグネンの眼差し。
心底より打ち解けて、親愛を湛える、その。
ぐらぐらと迷う頭を、隙間から聞こえる妹の声が叩く。
「ぅお兄ちゃま、わたし達ずっと考えてたのよ……! このままドラートに従っていては、きっと一族はダメになるわ」
その豪腕で強烈に殴られたような気がした。
自分でも心のどこかで分かっていた事実を、目の前に突き付けられたことで。
例えば――ここにいるのがタオだとしたら、何を思っていたとしても、多分口には出さないだろう。
タオだけじゃない。きっと他の誰も、オレに意見することなどない。好むと好まざるとに関わらず、オレは『若長』だから。
一族達は皆、オレの判断に、時に危うさを覚えたとしてもついてきてくれる。……ついてきてしまって、いる。
フルートだけが、妹だけが、その軛から自由だ。
盲目的な信用をオレに置かない。ある意味で兄を誰よりも良く知り――その不足を理解しているからこそ。
汚く愚かで救いようもない人間の癖に、非情に徹しきれぬ、不足を。
妹の心持ちはありがたい。それは事実だ。
だが――
期待に輝く金の瞳と、壁の隙間から覗く黒い眼差しに、視線を向け――私はため息をついた。
「……ダメだ」
「何故?」
「どうしてっ!?」
間髪を入れず尋ね返されたが、私は動じず淡々と答える。
「まず、ドラートと手を切るには、一族全てを取り戻さねばならない。オレがお前と会うことすらままならないのに、どうやってドラートの鎖から皆を抜けさせるつもりなんだ?」
「もしも君達が我が国の保護下に入ると言うなら、私から魔王陛下へお願い申し上げよう。君達の一族の解放に手を貸してくださるように、と」
如何にも簡単げに答えるアイゼンに、冷ややかな視線を向ける。
「結局そこかよ。それが2つ目の理由だ。そんな一方的にこちらだけに都合の良い条件などあるものか。我らが魔王領の元に集うとして、魔王にとっては何がメリットになる?」
ぐ、とアイゼンが言葉に詰まった。壁の向こうのフルートが、額を石壁に押し当てるように乗り出す。
「ぅお兄ちゃま! 私達はお友達なのよ!? お友達の言うことが信じられないの?」
「アホか。友達なのはお前とアイゼンの個人的な付き合いだろうが。それで誰を説得出来るつもりだ」
「ぅお兄ちゃまったら!」
窘められたが、どう考えてもこの件についてはオレは間違ってない――はずだ。
……はずだぞ?
「3つ目の問題だ。個人的なことを言うなら……どんな条件を付けようと魔王は、多分オレを信用しない」
「……どういうことだ?」
問い返すアイゼンに向けて、皮肉に唇を歪めて見せた。
「レーグネンを罠にハメたのはオレだ。右腕とも言える四神将軍を騙した男を、まさか魔王は信じないだろう。もしも先の2つの条件が通ったとしても、オレが若長である限り、魔王に受け入れられることはない」
いや待て……逆に言えば、2条件が整いさえすれば、後はオレが一族を抜けるだけで済むのではないか。
例えば、我らの『穢れ』の力。主神ヴォーダンに生贄を捧げることで、莫大な熱量を生むアレを自国の武器と出来るのであれば、今まで敵対していたとは言え、魔王も心動かすこともあるやも知れん。
先の戦で全滅しかけた竜人などからすれば遺恨もあるだろう。しかし、それも知っているのは我らとレーグネンのみ。沈黙を守り、如何様にでも騙せば良い。そうだ、如何様にでも……。
かの力と祭祀を行う権限は、長の直系の男子にのみ引き継がれる。
今、力を振るえるのはオレと父親だけ。だが、我が父を解放することが出来るのならば、父が存命の内にはフルートが子を産み、次代の長を継いでくれるのではあるまいか。
オレがいなくとも、何の問題もない。
――むしろ、いることによる問題の方が大きいのだから。
「……ぅお兄ちゃま?」
不思議そうな野太い声が壁の向こうから投げかけられた。
一瞬躊躇してから、答え返す。
「ああ、ちょっと考え直した。魔王とやらがどんな人物なのかくらいは、見てみても良いかも知れん」
「ぅお兄ちゃま!」
「そうか、いや、良かった!」
フルートは別にして、アイゼンもまた安堵した様子だ。
歴戦の女将軍の浮かべる少女のような無邪気な微笑みに、正直驚いた。
「アイゼン、あんたはずいぶんとフルートとオレの一族に肩入れしてくれているようだが……何を企んでいる? 何故そう親身になる?」
尋ねてみても、逆にきょとんとした顔をされてしまう。
「友の幸福を祈ることに、理由などいるか?」
その金色の瞳に浮かぶ真実の友愛を見て、頭を抱えそうになった。
正直、オレからすれば魔物達はどうもやりづらい。アイゼンにしても……レーグネンにしても、この率直さ、人を信じて疑わぬ心は何なのか。まさかシャルム王子と同じく、理想のみに生きるふわっふわした国なんじゃないだろうな、魔王領……。
眉を寄せた私の表情をどう取ったのか、アイゼンはしれっとした顔で先を続ける。
「もしも私がここから出られぬようなら、たとえ誘ったところでどうにも出来ぬやも知れんと心配していたんだが……どうやら、生きたまま外へ出られそうな気配がしてきたからな」
「何を、気が早い。オレは魔王領に与することを検討してみると言っただけで……まだあんたの逃亡に協力するなどとは言っていないぞ」
言いながら、それは良い方法かも知れない、という気がしてきた。
魔王に対し、その恩を売り込むという手が取れそうな気が。レーグネンを捕えたのはオレだが、アイゼンを救ったのはフルートだということにして、オレを除いたフルートと一族のみならば、多少の見返りは期待出来るのでは……。
そんなオレの浅い考えは、しかし、アイゼンの放った言葉で断ち切られる。
「君達に協力を求める必要はない。レーグネンが来ているのだろう? ならば、ヤツが何とかするだろう」
飄々とそんなことを口にされて、正直、唖然とした。
先程から何度、レーグネンもこの館に共に囚われているのだと伝えたと思っているのだ。
まさか、言葉が理解出来ていないのか?
「そんな目で見るな。分かっているよ。しかし、レーグネンならただ大人しく囚われてなどおらんさ。借りを作るのは気が進まんから、魔王領に戻ったら美味い酒でも奢ってやろうかな」
その脳天気に明るい見通しに、頭がくらくらするような気がしてきた。
何か皮肉でも言おうと口を開いたが――言葉が出てくるより先に、廊下を駆ける慌てた足音が聞こえてくる。
この状態を見られてはまずい――と、視線を向けた時には、既にアイゼンは壁に嵌っていた石を拾い、元通り塞がるように押し込んでいた。




