2 非日常の始まり
「そろそろ寝台を出てみたいとな?」
答えようと口を開けた途端、匙の先を突っ込まれた。
仕方なく咥えると、相変わらず甘い乳粥が舌の上に落ちてきた。
甘いものが、そう好きなワケではない。
正直言えば、良い加減この料理には飽きてきた。
……だが、食って寝ているだけの人間に、そんなことを言い出す権利もないだろう。
代わりと言うのもおかしいが、多少は身体を動かしたい、と思った。
少しずつでも動かねば身体が衰えるだけだ。
それに、体力さえ戻れば、こんなひたすらに食わせて貰うだけの状況からも抜け出せる。
返すものがある訳でも、自由のある訳でもない身だが、何かしら役に立つこともあるだろう。
そんな思いで、飲み下した乳粥の後に言葉を足した。
「……こうしていつまでも、面倒をかける訳にもいくまい」
「気にせずとも良いよ。ほら、あーん」
「いや、あー……」
あーん、とかそういうの気恥ずかしいだろ、もう一人で起きられるんだから止めてくれ……とは、言っても分かって貰えぬどころか、説明すら匙を突っ込まれて防がれた。
仕方なく、差し出される匙を黙って受け入れ続けることにする。飽きがきても美味いものは美味い。
「さて、食事も終わったから……」
「……おい」
「身体でも拭いてやるか!」
「おい!」
喜々として水桶と手拭いを用意する少女の姿を見て、さすがに声を上げる。
「何だ?」
「何だじゃない、もう良いと言っただろう」
「何を今更。下の世話までさせておいて」
あっけらかんと言われれば、「させたくてさせたワケじゃない」と言い返すのも難しい。
当然のことながら、して欲しいワケではなくとも、意識も戻らぬ時間があって怪我の為に寝返りも打てないような時期があったのならば、そういうことが必要になることもある。
どうしようもない時に好意で手伝って貰っていたのは事実なので、何とも言い難い思いで口を閉じた。
少女もまた無言でしばし天井を見上げた後、ふと思い出したようにこちらを見下ろす。
「……あ、気にしてるんだな。うん、そこはほら……大丈夫だぞ? 俺は別に見たものについて言いふらそうとか考えている訳ではなし、男の価値は大きさだとかそんな風にも思っておらんし。そのことについては、リナリアと少し話し合ったのだが、やはり男はその内面の器で計るべきだという結論になったのだ」
「待て……どっからツッコませるつもりだ!」
「ツッコむつもりか!? どこから……それを選ぶのは俺なのか?」
「おい、やめろ! あんたその言い方、何か微妙に不穏当に聞こえるぞ」
「先に言い出したのはあなただが」
「あんたに耳年増な発言が多すぎるんだよ!」
幼い姿には似合わぬ発言の数々で、一気に脱力して毛布に顔を埋めた。
とりあえず言っておきたいことは……そんな風に慰められる程小さくはない。やる気出したときならどっちかと言えば……とか言いかけて、やっぱり止めた。
馬鹿馬鹿しい。何故、そんな対象ですらない幼い娘にそんな言い訳をせにゃならんのだ。
どう考えても、年端もいかぬ少女が自発的に知るような内容ではない――多分、時折名前の出てくる『リナリア』とやらが教えたのではないだろうか。
コレの後ろについている『リナリア』という人物については、今朝方ようやくその姿を見ることができた。
直接対面したのではなく、扉の向こうを通り過ぎた姿を見かけただけなのだが、少女が時折胸を張っていた通り『リナリア』は肉感的で美しい女だった。高く結った長い髪や瞳と同色の薄い緋色の衣を宙に舞わせ、どこか宙に揺れているような儚い風情を漂わせる、妙齢の女。
少女の発言が割りとギリギリ目なのは、そのリナリアの教育方針がズレているせいなのかも知れない。
踊り子か、それに類する旅芸人だろうか。もしかするともっと直接的に、どこかの偉いさんの囲い女か、夜の女かもしれない。いずれにしろ、素人には見えない。
そこまで考えて、ふと、まだ2人の素性を聞いていないことを思い出した。
女が2人でこんな森の中をうろついているなど、尋常ではない事情がありそうだ。それくらいは簡単に察しがつく。女ばかりのパーティがこうして人気のない場所にとどまっていれば、とっ捕まえて売っぱらってくれと言っているようなものだ。
どこからか逃げてきたとかそういう理由があるに違いない。早めにそれを知っておきたい。
だが――問えば、こちらも事情を話さねばならなくなる。それは避けたい。
それに、オレが――私が、生きていることを知られてはならない。
部下であったはずの者に、突如裏切られ殺されかけた。
上官に対する反抗は重罪だ。軍の規律を維持するために、その原則は如何なる理由があっても守られる。
……と、なれば。少々私のことが気に食わなかろうが、意に添わぬ部分があろうが、ただ叱責が鬱陶しいだけで私を排除する理由にはなり得ない、ということなのだ。
もっと積極的な理由が――メリットがあるはずだ。
私を殺すことで、もたらされる報酬が。
「誰が」私の暗殺を企んだのかは知らないが、「何が」欲しかったのかについては、薄々想像がついている。
だからこそ、私が生きていることは、知られてはならない。
そして――私に何が出来るのかを、この少女達に話してはいけない。
今は好意で助けてくれているが、私の持つモノの重さを知れば、あっさりと売り飛ばしたくなってもおかしくはないのだ。
理想は、こちらの事情を話さぬまま向こうの事情を探ることだ。
もしも、彼女らの追手が、大したことのないモノども――例えば、地方のちょっと金を持った地主程度の者であれば、私は十分に彼女らの役に立つことが出来る。
私としても、この後の道中この2人と一緒に動けるならば、追手の目を眩ませられるかもしれない。
死体が消えたのだから、今頃探しているかもしれない。
だが、向こうが探しているのは1人でうろついている戦士風の男であって、女達の護衛をする『北方人』ではないはずだ。
そこらのゴロツキなど束になって追いかけてこようが、私なら追い払うことも出来る。
つい先日までは、王国守護軍西方隊で『轟雷のヴェレ』とも仇名されただけの実力はあるのだ。
その辺りをさり気なく主張さえ出来れば、うまくこの少女達を隠れ蓑に出来るのではないだろうか……!
あまり善とは言い難いことを考えながら、さて何と切り出そうかと悩んでいる内に、気が付けば膝の上によじ登った少女の手によって、シャツのボタンが外されていた。
「――おい!」
「おっ、突然動くなよ。何だ、別に良いではないか。妙齢の男女という訳でも何やら妖しいことをしようという訳でもなし。何をそんなに過敏になっておる」
「良くない! オレはもう動けるし、男に対してまだ幼いとは言え女児がこんなことをしてはいかんだろう。勘違いされるぞ」
「何を言っているのだ……女児とは――勘違いとは――」
言いかけて、少女は動きを止めた。
しばらく首を傾げたまま固まる。
「……おい?」
その唐突さに肩を揺すると、はっとしたように顔を上げた少女が、オレを見上げてきた。
「――そうだ、女児だ!」
「あ?」
「俺は女だ、愛らしくも優艶なる少女だ! そうだな!?」
「愛らしいかどうかは知らんが……まあ」
少女以外の何なのだ。本当は少年だとでも言うのか?
いや、目を覚ました後、何度も必要にかられて身体を密着させたために、その身体のまろやかさは疑う余地がない。
少女の言いたいことを掴み損ねて、目を瞬かせる。
その間に膝から降りた少女は、苦笑しながらこちらを頭を掻いた。
「……あー、悪かったな。つい、あまり考えぬまま行為に及ぼうとしてしまった。そういうものは、我々の中から喪われて久しいから……」
いかにも申し訳なさそうに謝られたが、何を言っているのか良く分からない。
大体が「行為に及ぶ」とは言い回しが不適当ではあるまいか。
指摘しようかと思ったが、口に出せばますます不穏になるような気がして止めた。
「とにかく、そろそろ自分で動きたいと思っている」
「言いたいことは分かるが。あなたは――」
話を戻そうと声をかけると、少女が反駁しようと口を開いた。
その言葉が続かなかったのは、扉を開けて駆け込んできた緋色の影があったからだ。
「――主様!」
「リナリア?」
今朝見かけたままの薄衣の女は、寝台の上のオレには目もくれず、少女の傍へと駆け寄った。鈴を鳴らすような流麗な声で囁く。
「主様、表に魔族が来ております」
「魔族だと? 魔王領から国境を越えて王国側まで踏み込んでくるとは……追手か?」
「はっきりとは分かりません。小屋の中の気配には気付いているようですが」
リナリアと少女の会話に違和感を覚えた。
魔族と聞いて、すぐに追手かと尋ねるとは、どういうことだろう。
「……なるほど。では、少し突いてみるかな」
にんまりと笑った少女の唇が、赤く濡れて光る。
その不敵な笑みをどこかで見たことがあるような気がして――オレは、思わず周囲を手で探った。
無意識の内に剣を――己の恃むものを求めたらしい。
指先にひやりとした鉄の感触が当たらぬことを改めて認識してから――初めて気付いた。
少女の笑みがもたらす悪寒の正体が、恐怖というシロモノであるということに。