2 有価物の天秤
「おお……今までになく人が多いな! ……あっ、すまない。――また水路だぞ、これは向こうのと繋がって……あ、失礼した」
きょろきょろと辺りを見回すレーグネンは、人にぶつかっては謝り、人の足を踏んづけては謝りで、落ち着きがない。オレの腕を一応は掴んでいるが、今にも飛び出していきそうだ。
到着した王都シュトラントの賑わいは、レーグネンをしてよほど興味深さを感じさせるらしい。確かに、西方からの道のりにはない大きさの都ではあるが、魔王領にはこのような街はないのだろうか。
両脇に並ぶ市のテントはどこも、観光客向けの土産物や特産品が山と積まれている。大通りを真っ直ぐに進めば、例のクヴァルム河に行き当たり、大河の上には水上市の小舟がところ狭しとひしめき合う。川は南で海に突き当たり、それぞれから交差するように水路が伸びる。
要処に作られた水路からは、淀んだ水の匂いが立ち上っていた。
人がごった返すこの表通りも、道に慣れたオレの感想と言えば、歩きにくい、くらいしかない。
お上りさんというのは、中々に幸せな存在だと言える。
呆れ半分でちょこまかと動く背中を見ていたら、ちろりと振り返った紅の瞳と目が合った。
「……おや、つまらなそうな顔をしておるな。そんなことでは俺の夫は失格だ。ほら、言ってみろ。愛妻がこうしてはしゃいでおるとき、夫としてはどうするのだ? ん?」
別に合格したい訳でもないが、失格と言われると腹が立つ。
その上でそのような勝ち誇った顔をされると、否が応でも甘い言葉は言いたくなくなるというものだ。
「……まともな夫なら叱るだろうな。きょろきょろすんな、前見て歩け、このクソガキが」
「今のがどこまで仮定の話なのかは分からぬが、もそっと愛があるやつはないのか。夫と言えば、妻を甘やかしてなんぼだろ。『きみの為なら、この道の両脇に並んだ市の端から端まで全部買ってあげるよ』くらい言ってみろ」
「妻とやらが貴様でなければな」
「……ちょっとは練習しとかんと、本物はできんぞ?」
微妙に哀れんだ感じで見るの止めろ。
話を変える意図も含め、リナリアの方に話を振ることにした。
「それにしても、ずいぶんと女の方に甘い。魔王領ではそういう夫婦関係が常識なのか?」
「主様だけの常識です。拡大解釈は命取りになりますよ」
リナリアが冷たい瞳で忠告する。
その声を聞いて、レーグネンはにやにや笑いながら振り向いた。
「ダメだなぁ、それじゃ全然ダメだ」
「何のことでしょうか?」
「呼び方だよ。『主様』はマズい。我らは姉妹なのだからして……リナリアは俺を呼び捨てにすべきだ」
好きな娘をちょっとからかってみたいお年頃らしい。
まあ、こういうクールなタイプが恥じらうところが見たいという嗜好は、確かに分からなくも……いや、何でもないが。
嫌な感じに楽しそうなレーグネンを正面から見据えて、リナリアは眉一つ動かさず答えた。
「ならばレーグ、あなたはわたしを『お姉ちゃん』と呼んでください」
呼び捨てどころか、涼しい顔で愛称呼びをし、更に爆弾をぶっこんでくる。
レーグネンの笑顔が固まった。
「な、何と……」
「『お姉ちゃん』です」
「……待て、リナリア」
「違います、『お姉ちゃん』です」
「リナ――いや、お、おお……」
「さあ、レーグ、呼んでください。『お姉ちゃん』と」
「おおお……おおおおおっ!」
身悶えして叫んでも、結局は『お姉ちゃん』と口に出せないレーグネンを、リナリアの冷笑が追い打ちかけて叩き斬った。
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クヴァルム河を逸れて、森の中を遠回りしたのが良かったようだ。
道中無事に進み、一月も経たず王都に辿り着いた。
追手に見付からなかったのは、手配されているのが、あくまで魔王軍将軍としてのレーグネンであったからだ。クヴァルム伯爵から回った情報は、「魔王軍北方将軍シャッテンと東方将軍レーグネンが王国内に潜んでいる」とのもので、ただの娘を探すものではない。冒険者夫婦とその姉などロクでもない役柄だと思っていたが、行き過ぎるだけの人々は、何某か説明がつけば案外見過ごしてくれるものらしかった。
……もちろん、オレは未だに王国守護軍では死亡扱いだ。グリューンをあそこに置いておかなくて本当に良かった。
この辺りの事情は、レーグネンが(厚顔無恥にも堂々と)聞き込みしたことで、判明したものだ。
それも、王都の前で大勢の人を見渡しながら『レーグネン』を探す兵達に、自ら問いに行くのだから、肝が座っているのか単なるバカなのか分からない。何なら後者であると言いたい。
聞き込みから戻ってきたレーグネン曰く、シャッテンが空を飛ぶという人目を引きつける方法で我らと逆の方へ向かったのが良かったのではないかということだが。飛んで逃げろと言ったのはレーグネンだったはずなので、あれは最初から囮になれということだったのかと、今更ながらシャッテンの扱いの酷さに少しばかり同情する。ついでに言うと、グリューンも一緒のはずなのだが……大丈夫だろうか。
「ま、あいついないと静かだからな、そういう意味でも一緒に行かなくて良かったというものだ」
「……貴様らの仲は、本当にそれで良いのか?」
「あなたに言われたくないぞ? 俺とシャッテンは少なくとも殺し合ったりはせん」
皮肉に笑いながら、レーグネンは今度こそオレから視線を外し、ベッドの上に広げた買ったばかりの地図に視線を落とした。
「……さて、これが王都の全容」
王国民が王都シュトラント、と呼ぶ時、それは王国の南の沿岸とその対岸に広がる島々を差す。
沿岸の中央を垂直に割って流れ込むのがクヴァルム伯爵領を貫いて流れるクヴァルム河。この大河川と海を利用した大小幾つもの水路が網の目のように交差する街、それが王都シュトラントの北部に当たる。
対岸にある南部の島々まで渡るためには船を繰る必要があり、水路の上は行き交うゴンドラと水上市で騒がしい。
「そして、王宮はここ、ということか」
レーグネンの指先を見て、私は無言で頷いた。
南部の島々の内、最も細長く海を区切るように東西に伸びた島の中央に、王宮はある。病床の王が住まう宮、王国で最も壮麗と言われる白亜の建物だ。
対立する王子と王弟も、同じ島の上、この王宮の傍に居を構えている。王弟の館が島の東、対する王子の館が島の西にあるのだ。
「アイゼンもここに捕らわれておるのだろうか……」
「それは調べて見ぬことには」
「あなた、何か伝手はあるか?」
問われて――どうしようかと一応迷った。
迷ったが、ここまで来れば、もう私は私の正体を隠す必要もさほどない。
もう間もなく、私の望みに手が届こうとしているのだ。
「……伝手は、なくはない。連絡をとって見よう」
「ふむ、頼むぞ。俺の方でも動いてみるから」
にこりと笑ったレーグネンは、そのままベッドに向けてダイブする。
「おい、埃をたてるな」
「いや、我が邸には劣るが、それにしてもなかなかの寝心地。さすが、一国の王都ともなると人心にも余裕が出来るということか」
ごろごろと転がる度に、ローブの裾が捲れていく。
白い脚が徐々にあらわになっていくさまは、まだ年頃には足りぬとは言えなかなかに扇情的――いや、別に私はそちらを見てはいないのだが。
そんな私の背後から、ぬっと緋色の袖が伸び、ローブの裾をとってぴしりと伸ばした。
「……おお、リナリア。戻ったか」
レーグネンの視線を追って振り向けば、食事を買いに出ていたリナリアが、冷たい目でオレを見下ろしている。
その視線に、そこはかとない非難の意図を感じるような気がするのだが。
「……オレは何もやってないぞ」
「わたしも何も言っておりませんが」
無表情のままそう言われてしまえば、反論のしようもない。
オレ達のやり取りなど気にしないレーグネンは、今リナリアが買ってきたばかりの食事へと駆け寄っていく。
「……ふむ、これは何だろう。何やら不思議な形」
「知りません。比較的安かったので」
「それは東の方で採れる果物だ。そう言えば、ちょうど旬だな」
「なるほどなるほど。おお、こちらは刺激的な香りのする焼肉串だぞ」
「比較的安かったので」
「王都では手軽に食べられる屋台の定番だ。焼いた鳥の肉に香辛料をかけて……待て、リナリア。あんた、さっきから安かったばっかり言ってないか」
どうやらレーグネンにとっては食べることより物珍しさの方が先にきているらしい。1つ1つ、ためつすがめつひっくり返して見ている。
そして、その様子を上から見下ろすリナリアの視線は相変わらず冷たい。安かったから買ってきたって……そんな何も考えぬチョイスで良いのだろうか。以前のリナリアなら大騒ぎして「少しでも主様のお口に合うものを!」と山ほどの食料を抱えてきていただろうに。
オレの口出しする範囲じゃないのかも知れないが、どうもこのリナリアの態度には慣れない。
ある程度検分して気が済んだのか、レーグネンは恐る恐る串を手に取り、香ばしく焦がされた肉に口をつけた。したたる鳥の油で唇をてかてかと光らせながら、咥えた肉を横に滑らせて串から外し、しばし味わうように目を閉じる。
「……うむ、辛い」
「どうぞ、お水を」
こういうタイミングというか、用意の良さは相変わらずだ。
勢い良く水を飲み干したレーグネンは、目尻に涙を浮かべている。
「水か……これもやはり高いのだろうな」
そこでようやく、リナリアの「比較的」に含まれた意味を理解した……ように思う。
リナリアの言葉通り、辺境に比べて王都のものはどれも値が張る。
ここに宿を決めるまでにレーグネンとリナリアが店を覗いた上での結論として、この街の物価は高い、という共通認識があるのだろう。ということは、魔王領では……少なくともレーグネンの支配する東方領では、もっと物価は低いということだろうか。
「水はさほどでもありませんでした。比較的安いので、買い求めてきたのです」
「ふむ、さすがリナリア、麗しき我が一の下僕」
レーグネンは手放しで褒めているが、聞いてるオレからすれば、ツッコミたいことが2つ。
1つ、あんたの「麗しき」はどうせ「我」にかかってんだろってこと。
もう1つ、何だかんだで結局リナリアは「比較的安い」ものしか買ってねぇってことじゃねぇかってこと。
……まあ、言ったところで、まともに聞くやつはこの部屋にはいない。
大人しく口を噤み、オレもテーブルの上の鳥串に手を伸ばした。
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夜闇に紛れて、裏通りを歩く。
昼間は出店が並んでいた表通りも、この時間ともなれば、既に人気はない。
この辺りはどこも夜が早い。
真夜中も開いているのは対岸の奥にある歓楽街のみだ。
歩く道の先、蹲る男の影を見付ける。
物乞いの姿をした男の横に、一瞬立ち止まった。
視線は合わせぬまま、下から差し伸ばされる手に、黙って書き付けを渡す。
男は受け取った書き付けを、何気ない仕草で、ぼろぼろの服の懐へとしまいこんだ。
目の端でそれを捉えながら、私はまた前へと向き直り歩みを進めた。
ここは王都シュトラント。
長くもない人生だが、その大半はここで過ごしたことになる。
なればこそ……伝手もまた、なくはない。
なくはないが――
――問題は、私がこの街に戻ってきた今、レーグネンとともにいるメリットが皆無に等しい、という事実だった。




