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1 非現実の少女

 ぼんやりと目を開けた。

 ところどころ腐りかけた天井板が、思っているよりも近くにあった。何度目を覚ましても慣れないが、文句を言える筋合いではないのは承知している。

 山中で仕事をする男達が、一夜の露をしのぐためだけに作った小屋なのだろう。ほとんど掘っ立て小屋みたいなものだが、雨風に当たらないだけでも助かるというものだ。


 熱にうなされていて自分では全く覚えていないが、オレは3日程、生死の境を行き来していたらしい。胸を貫いた傷は完全に肺まで達していたそうだから、後少しでも何か――時間や体力や幸運や、それらの内の何か1つでも――足りなければ危なかっただろう、というのが、オレを助けてくれた人物の見立てだった。

 何とか一命を取り留め、初めて目を覚ましたのが一昨日の昼間、それから丸2日間、こうして獣臭い毛布にくるまってじっとし続けていることになる。


 まあ、何だかんだでこうして生き残れたのだから、多少の不便は我慢するべきところなのだろう。

 そう、たとえ少々意に沿わぬことがあるにしても――。


「――起きておるか、ヴェレ?」


 透き通るような高い少女の声が、オレの名を呼んだ。

 視線を向ければ、長い銀髪を肩から垂らし、少女が扉から顔を覗かせている。

 整った顔立ちはどこか高貴な風を漂わせているが、いたずらっぽく輝く紅の瞳が上品さよりも好奇心旺盛なさがを目立たせていて、全体としてそちらの印象が強い。

 説明が難しいが、つまり――悪戯好きな妖精ニンフのような少女だった。


 オレが目をしっかり開いて彼女の視線を受けたことに気づくと、途端に破顔した。


「おう、もう起きていられるのか。幾ら魔術が効いたとは言え、こう回復が早いのはやはりあなたの持ち前の体力が人並外れていたからであろうな。よく鍛えておった。立派なものよ」


 愛らしい声に、どこか時代がかった物言いで褒められて、言葉を返しあぐねた。

 その隙に――というワケでもないのだろうが、駆け寄ってきた少女は、何やら抱えていたものを脇に置くと、オレの枕元に両手を突いて上からこちらを見下ろしてきた。

 近付いた身体から、何やら華やかな、咲き誇る花のような芳しい香りが辺りに広がる。ローブの襟首から、白い胸元の奥がのぞいている。


 漂う艶めかしさに一瞬くらりとするが――ぎりぎりで踏みとどまった。

 どう見てもオレの胸元くらいまでしか背がない――つまり、正確な年齢は知らないが、明らかに射程範囲外だということだ。

 射程範囲外だと言うのに……何故か、身体の奥の方で疼くものがあるような気がしてしまうのは、この匂いのせいだろうか。非常に危うい。いや。もしかすると、そんなことを考えられると言うのは、それこそ体力が戻って来た証拠だということなのかも知れないが。


「どうした? 変な顔をして。めしを持ってきたのだ。起きておったなら丁度良かったな」


 こちらの密かな悩みなどは露知らずあっけらかんと笑う少女の背後に、湯気が立ち上る器があるのが確かに見えている。粥のようなものだろうか。

 少女は一度オレに顔を近付けて、小首を傾げて問うてきた。


「1人で起き上がれそうか? 半身を起こすだけで良いのだが」

「……ああ」


 視線の近さに気後れして、反射で「肯定(ヤー)」と答えたものの、身体に力を入れれば、それだけで胸の傷に鋭い痛みが走る。思わず眉をひそめたオレの表情を見て、少女は大人びた苦笑を浮かべた。


「痩せ我慢などせずとも良いのに。どれ、少し手を貸してやろう」


 言うが早いか、こちらの答えも待たず、背の下に潜り込むようにして身体を添えてくる。


「ちょ……おい!」

「行くぞ、自分でもしっかりと力を入れろよ! せーの……!」


 見た目からは想像もできぬ危なげのない支え方のおかげで、唸りながらも何とか身を起こすことが出来た。

 それでも、1人でこの姿勢を維持するのは難しそうだ。察した少女は、身体を離さぬまま指を伸ばして器を取り、後ろから抱きしめるようにして、オレの前へと持ってきた。


「……おい、待て。この体勢は」

「怪我人なのだから、多少の不便は我慢せよ」


 そのことは先程、自分自身でも考えたばかりだ。

 だがしかし。


「いや、そうじゃなく、この体勢は何と言うか……」


 柔らかい身体がぴったりとオレの背にあてられている。幼い故にまだ薄い膨らみでも、これだけ密着すれば起伏のありかは明瞭に感じられた。

 この状態を何と説明するべきか。

 悩ましくも頭を巡らせている内に、手のひらに匙を持たされる。


「まあ、とりあえず食ってみよ。食わねば身体は戻らぬぞ。何より、これはリナリアの特製だからな。とても美味いのだ」


 首元で囁かれた吐息が、鎖骨を這うように流れた。

 温い感触にぞくりとする。


 何も言えず、素直に少女の手の上にある器へと、匙を突っ込んだ。

 口に含めば乳臭い風味とともに、とろりとした甘さが広がり、口内を温める。広がるように滋味の伝わるこの料理を、幼い頃に母の作ったそれを口にした記憶がともに蘇ってきた。


「……これは、乳粥か?」

「美味いものだろう? 俺のリナリアはこういうのも得手えてなのだ」


 『俺のリナリア』という者に、オレはまだ顔を合わせたことがない。細々とこの部屋に顔を出し、諸々の世話をしていくのはこの外見よりも大人びた少女だけだ。

 会ったこともない相手だが、少女が随分とその人物を誇りに思っていることだけは伝わってきた。

 時折、疲労と痛みで匙を落としながらも、辛抱強く食べさせようとする少女への敬意と、どこか懐かしい味に励まされ、何とか器の全てを胃に納めた。


「よし、食べたな」


 満足そうに頷いて離れていく身体を、少しだけ寂しく思う。

 部屋から出ていく小さな背中を見ていると、先程まで温められていた背後の空間が、どこか冷たいような気さえしてきた。さすがに口に出すのははばかられて黙っていたが、知らぬ内に顔に出ていたらしい。

 器と匙を置いた少女が戻ってきて、寝台の横で小首を傾げて下から覗き込んできた。


「どこか痛むのか?」

「……いや」

「では、人肌恋しいのか?」


 意外に近いところを突かれたような気がして、つい黙り込んだ。

 こんな少女に言えるワケがない。こんなものは、怪我の後の感傷に相違ない。

 逸らした視線を追いかけるように、少女はますます瞳を近付けてくる。


「どうしたどうした、言ってみよ。俺で叶え得ることなら何でも実現してやろう。……ヴェレよ、麗しき俺の愛玩動物よ」


 腹を立てても良いところなのかも知れない。

 だが、そう言えば、確かに頷き返した気がするのだ。

 この紅のもとに、主人に忠実な愛玩動物でいることを求められて。


 歌うように囁く少女の紅い瞳に視線をとられながら――それでもぎりぎりで留まったオレを、自分で褒めてやりたいようにも思う。

 ふと、聞かねばならぬことを幾つか聞き漏らしていたことに気が付いたのだ。


「……では、問いたいのだが」

「うむ」

「あんた、何でオレの名前を知ってるんだ」


 目が覚めてから自己紹介などした覚えもないのだが、いつの間にやらナチュラルに呼び捨てされているじゃないか。

 少しばかり物騒な空気も醸し出し、答えねばただではすまないと脅しをかけたつもりだが、少女は唖然とした顔でオレを見つめるばかりだ。


「……覚えてないのか?」

「覚えているも何も」

「うーん……」


 しばし唸りながら天井を見上げた後、少女は何やら心を決めた様子で、こちらに向き直った。


「……つまり、あなたが自分で名乗ったんだ」

何時いつ、オレが」

「傷からきた高熱に浮かされながら、必死に名乗っていた」


 何のことだかワケが分からない。

 自分が死にかけてる時に名前を名乗るヤツなんているワケない――と半信半疑で頭の中をひっくり返している内に、何やら脳裏に引っかかるものがあった。

 確かに目の前の紅の瞳に向かって、何度も同じ懇願を繰り返したような。


 ――助けてくれ。死にたくない。

 死を前にして、その細い肩に縋り付きながら。


 ――もしオレがこのまま死んだら、せめて伝えてくれ。

 大丈夫だ、助けてやると告げる言葉も信じられず。


 ――オレは北の民の長の息子、王国守護軍西方隊長のヴェレ。

 妹のフルートに、そしてシャルムに……どうか。すまないと。そして――


 一気に顔に血が上ったような気がした。

 何を伝言しようとしていたんだ、オレは。

 その先の言葉も手を伸ばせば届くところにあるような気がするが、あえて伸ばさずにそのまま振り払って忘れることにした。

 どこか面白そうに至近距離から見つめてくる瞳がまた恥ずかしくて、思わず勢い良くそっぽを向く。

 そんなオレの姿に、しばし考えるように口を閉じた少女は、わざとらしくポンと手を打って身体を離した。


「おお、そうだ。そう言えばこうしてはおれぬのだ。リナリアに晩餐の準備を手伝えと言われていた。待たせてはいかんなぁ……」


 ぶつぶつと呟きながら、部屋から出ていくその背中を、今度こそ引き止めるつもりはなかった。

 もしも声をかけたりすれば、彼女の分かりやすい気遣いが無駄になってしまう。

 昼飯を食べたばっかりなのにもう晩餐の準備をするのかという空気読まない問いは、しない方が良いのだろう。


 そんなことより本当は、早い内に聞いておくべきなのだが。

 ここはどこで、オレはあとどのくらいで動けるようになるのかとか。

 何度も名前だけ聞くリナリアというのは一体誰だ、とか。

 大体、オレの姿を――この髪と目の色を見てそれでも助けてくれるなんて、何も事情を聞かないなんて、どういうことだ、とか。


 ――いや、そもそも。

 こうしてオレの面倒を見てくれてるあんたは一体誰なんだ、とか。

 そんなような、種々の問題を。


 ……が、少女の背中にかかった銀髪の光に紛らせて、今は忘れることにした。

 毛布を頭まで引っ被って目を閉じる。

 ふと思い出した誰かへ託したい遺言なんて、二度と口にしなくて良いように祈りながら。

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