5 無駄足の献身
白い壁を這い上る青龍を真下から見上げて、私は息を吐いた。
周囲には多くの兵が持ち場を離れて集まってきている。
ぽかんとしているその表情に、他人事ながら少しばかり苛立ちを覚えそうになる。よくもまあ、こんな手にうっかり騙されやがって。
……かく言うオレもここまで来てようやく気付いたんだがな。
――幻。幻影。映写。
どうやら、そのようなものらしい。
夜の中、遠目に見たところでは本物かと思った。青い鱗の一枚一枚が月明りを照らして輝く様が、美しくも力強い。
それでも、さすがにこれだけ近付けば、その光すらどこからか投影されているものであることが見てとれた。だって平べったい……としか言いようがないから。どういう仕組みか想像がつかないために、幻影の出所など全く分からないけれど。
オレの隣、間近で見ていたグリューンが、はっと気付いたように周囲に目を向ける。
「こりゃあ……」
一瞬言葉を失っていたが、すぐに辺りを見回しながら叫んだ。
「――おい、罠だ! 持ち場に戻れ!」
周囲の兵達を叩いて持ち場に戻らせているが、見事な青龍の幻の珍しさに、兵達の動きは鈍かった。
呆れもするが、無理ねぇなとも思う。魔王領の技術力はどうやらオレ達の常識を超えてるらしい。
「こら、いい加減にしろ! 帰れって言ってるだろうが!」
切れたグリューンの声に従って散り散りに去って行く男たちの背中を、オレ――私は、黙って見送った。
「……ったく、青龍が来るって分かってるんだから、しゃっきりして欲しいぜ」
「来ると分かっている?」
問い返した私の方に向けて、グリューンは肩を竦める。
「ああ、今この館には玄武がいるからな」
「玄武が……」
聞きだしたかった言葉を確かに得て、私は息を呑んだ。
街中の噂は事実らしい。いや――
「もしかしてその噂、青龍をおびき寄せる為に、あんたがまいたのか?」
「そうさ、ヤツは魔術使いだからな。敷地内に魔術封じの術をかけておびき寄せ、青竜が知らずに忍び込んだとこで、玄武と一緒くたに――ってはずだったんだがなぁ……」
ぼんやりと頭を掻くグリューンを見ながら、私はこっそりと安堵の息をついた。
魔術封じなど、今のレーグネンには何の意味もない。
そもそも呪いのかかっているレーグネンは、魔術を使えば元の姿に戻れる反面、すぐに反動がきてしばらく行動出来なくなってしまうのだから。オレもリナリアもいない今、あいつが魔術を使う訳がない。
それよりもむしろ物理的な兵の数の方が問題だ――ったが、ここまでの様子で、既にある程度安心していたりする。
どうやらグリューン達は、玄武を捕える為かレーグネンを罠にかけるためか、短期間にえらく人の数を増やしたようだ。
珍しいものを見たせいか、興奮した様子で元の持ち場に戻っていく兵の後ろ姿を見ながら、オレは唇を歪めた。
人が一気に増えた――それが、裏目に出ている。
練度の低い兵達は、ちょっと予想外のことが起こっただけで混乱する。経験が浅いから、どう動くべきか判別がつかないのだ。
そして、それを指導できる人間が少なすぎる。周囲を見回す限り、グリューンの他にも兵を取りまとめられる人間は、いなくはない……いなくはないが、少ない。
目的地に向かって真っ直ぐに突っ込んでいくだけの状況ならば良いだろうが、このような拠点防衛で、相手が名高い根性悪では心許ない。
先程殴られたショックが薄れてきた為か、夜風に当たって熱が引いたか、ようやく頭が少し回るようになってきた。
この状況を見ると、レーグネンがこの屋敷に忍び込んでいるのも、ただ気が逸っただけの無茶な特攻ではないのかも知れない。
先程からの相次ぐ陽動は、きっちりと兵を自分の思い通りに動かしている。兵達が、ただ数の多い烏合の衆であることを知って、陽動の精度を上げるよりも速度を重視しているのだ。
では、何故――何故、今なのか。
「グリューン、玄武の身柄は近々移す予定でもあるのか?」
「ん? ないな」
歩きながら唐突に問うた私に、グリューンはさして不思議を覚えはしなかったようだ。あっさりと答えて、それから思い出したように忌々しげに顔を歪めた。
「玄武――シャッテンには大勢やられた。あいつが来てるって分かって人を増やしたが、育成が全然追いつかなくてな。伯爵は構わんと言うが、俺はそういうのは好かん。あれじゃ使い捨てだ……」
靴底で地面を蹴ってから、私に視線を向ける。
「お前、知ってるか? シャッテンはな、死霊使いなんだ」
「ああ、聞いたことがある。国境防衛戦では幸いにも出くわさなかったが……」
王国内でも有名な話だった。
死霊使いの玄武。
彼の操る魔物はゾンビ、スケルトン、グールにデュラハン――どれも元になるのは王国の民の死骸だ。
「幸いに――そうだな、ぶつからなかったのは幸いだ。残念ながら、今回はあれにこっちからぶつかってったんだ。キツいぜ、マジで。こっちの兵士には出撃前からきっちりアンデッド避けのまじないを施してたから、死んだ傍から向こうの味方が増える、とはいかなかったが」
グリューンの視線が屋敷の一角を指す。
正確ではないが、その辺りにシャッテンがいるのだろうか。
何故、玄武は単身、国境からも距離のあるこの地を訪れたのだろう。
そして……何故、そのことをグリューンは――いや、グリューンの雇い主であるクヴァルム伯爵は知っていたのか。
「墓から出てきた腐りかけの死体やら骨やらがな、群れをなして近付いて来るんだ。それも兵士達にとっちゃ親族家族の死体でもあるからな。剣先も鈍るってもんだ」
忌々しげな声を聞き流しながら、私は周辺の地図を頭に浮かべた。
先日、ゴルトやトロール達と出くわしたのが、ここから北西に当たるヴァイス伯爵領だ。
さらに西へと真っ直ぐに進めば魔王領との国境はあるのだが、正直、ヴァイス伯爵領だって、直接国境と接しているわけではない。トロールなどという魔物が出ることさえ驚きだ。
そこより更に東に当たるこのクヴァルム伯爵領に、四神将軍が密かに忍び込む理由も、それを察して対策をとれる理由も分からない。
何より不穏なのは――王国の西方にあたるこのヘルブスト地方では、王弟派が優勢なことだ。
病身の国王の後を争っている2つの派閥。
シャルム王子を旗頭とする王子派は、以前より魔王領との協調路線を主張している。
しかし、対する王弟派の打ち出しているのは、対外強硬政策。
シャルム王子派ならまだしも、王弟派に属するヴァイス伯爵やクヴァルム伯爵は、魔王領との繋がりなどないはずだ。それが、私が中央にいた最後の頃に拾った情報だ。
あれから王弟派が宗旨変えしたという話も聞かない。
グリューンが再び歩き出したので、私もその後を追って足を動かした。
頭の中は、相変わらず別のことを考えながら。
「ゾンビやらスケルトンやらは、動きが鈍いのがまだマシか。だが、アンデッド避けのまじないも長くは効かんと言うし……兵や民達には悪いが、死骸はすべて燃やさねばならん」
困惑した声が、グリューンの背中越しに聞こえてくるが、私は答えを返さなかった。
いつものことだ。向こうも慣れている。
私の口数の少なさは、国境戦では当然のことだったのだから。
――そうだ、レーグネンの話していた魔王領側の状況も気になるところだ。
魔王自身は王国との協同路線を歩みたいとのことだが、魔王を支える四神将軍の内、朱雀将軍はそれに反対しているという。
そして、ヴァイス伯爵領に現れたトロールはその朱雀将軍の配下……。
つまり、こういうことなのだろうか。
王国と魔王領、両国ともに和平に反対する派閥がある。
素直に考えれば相互に協力することは考えられないが、どうやらその派閥同士が結んでいるらしい。
とすれば、目的は自国での勢力拡大か……。
大いなる目的の為には、裏で自論に反することをしても構わない、ということか。
今はまだはっきりしていないから良いが。
もしも、魔王領の朱雀将軍と、王弟派が結んでいるとはっきりしたならば――私は、決断せねばならない。
そっと胸に決意の種を抱えたところで、グリューンが屋敷の外壁の向こうに視線をあてながら、小さく呟くのが聞こえた。
「今は死霊使いも力を失っているが、隙を突いて死骸を操ろうとするかも知れんからな。先から死体の処理を進めているのだが、数が多くて困っていた……それでも、ここのところ連日天気が良いし、この調子なら明日明後日には終わりそうだな」
――なるほど。
私は顔色を変えぬように、こっそりと頷いた。
何故レーグネンが焦ったのか。
何故、今宵を選んで忍び込んだのか。
レーグネンはどうやら、自分の力を使わずにこの場を乗り切ろうと考えているらしい。
となれば、この次に起こるのは、多分――
「――ぎゃああああっ!」
鋭い悲鳴が夜空に響く。
それも今、まさにグリューンが視線をあてていた先から。
「――どうしたっ!?」
騎士団長の問いに答えるように、兵士が1人こちらに向けて駆け寄ってくる。
「団長! マズいです!」
「何があった?」
「死霊が――ゾンビです!」
混乱と恐怖の混じった声に、私は1人肩の力を落とした。
ほらな。推測通り。
レーグネンにはオレの力なんぞいらなかった。
1人で――いや、玄武将軍と2人でなら、こんな状況は何とでも出来るってことらしい。
骨折り損のくたびれ儲けとは、このことだぜ、全く。
徐々に騒がしくなる周囲の空気を感じながら、オレは1人ため息をついた。
さて、残る問題は。
余分に動いちまったせいで、オレがここにいることを知ってしまったこの――かつての戦友を、どうするか、ということだった。




