序
昏い空から、雨が降り注いでくる。
黒髪が濡れて、頬に張り付く。
地に倒れ天を仰ぐ私の身体を覆うものはなく、雨の冷たさは直接滲み込む。
濡れて寒いのか、風が冷たいのか、血が流れ熱が足りないのか。
芯から凍えるような寒さの中、1人震える。
あれほど力強く敵を切り裂いた腕も、既に自由には動かない。
視線の先に、人影は、ない。
襲撃者達は既に崖の上から去った。
ただ一人、仰向けに転がった私だけが残されている。
生死の確認も碌にせずに――と、動くならば舌打ちでもしてやりたい。
こんな迂闊者どもが、つい先程まで己の部下であったと思えば。
あるいは、私に近づかず立ち去ったのは、恐ろしかったからなのだろうか。
確かに胸板を貫き立ち上がれぬことを確認したとは言え、戦場にその名を響かせた『轟雷のヴェレ』に近寄り難かったとでも言うのか。
敵方から付けられた二つ名を思い出したところで、いつも味方にからかわれているもう1つの不名誉なあだ名を思い出した。
つまらない感傷で少しだけ頬を動かそうとして……失敗する。
凍える身体。霞む視界。
思考も取り留めないものになっていく。
何故、私が、と。
問うても仕様のない問いが再び脳内をめぐる。
後は死を待つばかりだと、理解していながら。
肚の奥深くから、叫ぶように、己の声が聞こえた。
――死にたくない、と。
私は――オレは、まだ死にたくない!
やらなければならないことが、あるんだ――!
今なら何か――神とか運命とか何か――に縋っても良い。
心の底から祈ってやる。
それで、この命を贖えると言うなら。
力の入らない腕を強く叱咤して、無理に力を込めた。地面から身体が浮き上がった瞬間に、貫かれた胸板が強く痛み腕が滑る。
それでも諦められなくて、何とか身体を起こそうともがいていた。
表面ばかり取り繕って生きてきた。
誰にも中身を見せないまま――求められるままに冷酷無比な隊長として。
意思疎通などいらない、相互理解は幻だ、と思っていた。
それなのに、今。
誰でも良い、助けてくれと大声出して叫びたい。
本気でそうしたいと思った時には声を出すこともままならないっというのが、運命の皮肉というものなのだろうか。
嫌だ。ああ、くそ……死にたくない。
目尻を熱い雫が伝った気がしたが、雨だれと混じって、すぐに分からなくなった。
――だから、オレがその人影に気付いた時、そいつは決してオレの言葉に応えて現れたワケではないはずだった。
額を打ち続ける雫がふと遮られて、ようやくその存在に気付いた。
真珠のような水滴を纏う長い銀髪。
その隙間から輝くのは、一対の紅の瞳。
「おや、こんなところに哀れな捨て猫が……」
闇の中で純白に輝くローブは裾が長く、下から見上げていても、細い脚の付け根ををかろうじて隠していた。
仕立ての良い布を纏った品よく愛らしい少女の姿は、森の最奥にそぐわない。
ましてや、こんな雨の夜半などには。
あからさまに怪しい。
怪しく見えないことが、何よりも怪しい存在だ。
それなのに――残念なことにその時のオレは、違和感に気付く余裕もなかった。
ただ、死にたくないとだけ、頭の中で繰り返していた。
天恵か!?
頼む、死にたくない、助けてくれ――。
心にあるのは救いを求める言葉だけ。
声を出すことも出来ないから、閉じそうな瞼を必死で見開いた。
霞む視線の先、少女の背後で、すぃ……と、緋い薄布が翻る。
少女のものではない、大人の女の鼻にかかった笑い声が響いたような。
そちらに気を取られた途端に、見下ろす対の紅がくす、と笑った。
「では、俺と一緒に来るか? 主人に忠実な愛玩動物でいられるなら可愛がってやろう」
優しげな声の奥に毒を潜ませて、にんまりと笑った唇は、オレの身体から流れ出る血よりも赤く濡れている。
愛らしい面に似合わぬ粗野な言葉遣いにも、警戒すらできなかった。
銀の髪が、夜を取り巻く霧雨の中で羽のように広がる。
その輝きの中央からまっすぐ差し伸べられた白い手に。
オレは迷いなく、震える指先を乗せた――