2 無計画の後追い
「熱血過ぎるだろ」
呆れたような言葉とともに、濡らした布が頬にあてられた。
一瞬だけ痛みに顔を歪めたが、腫れて火照った顔には冷たさが心地良い。
絞り切れてない水がだらだら首元に流れてきているが、説明が面倒だったので、放置した。
ついでに言えば――「熱血過ぎる」なんて言葉を、そのままレーグネンに返してやりたいところだったのだが、冷水に濡れた小さな手が赤くなっているのも見えたから……頬を冷やしている心地良さで帳消しにしても良いか、という気になった。
口元が動かしづらいが、諦める訳にはいかない言葉だけ、慎重に選ぶ。
「……とにかく、ああいう場じゃ、あれしかやりようねぇんだよ。酒が入ってるし」
オレの言葉を聞いて宙を見上げたところで、少し考えたようだ。紅の瞳を伏せて囁きが返ってくる。
「……勝手に動いて、悪かった」
「分かったなら、次からは無駄に喧嘩売って歩くんじゃねぇぞ……。今回は喧嘩で済んだが、向こうが抜きゃこっちも抜かざるを得ん」
酒場での喧嘩に抜刀はご法度。相手が熱くなり過ぎてその辺の見極めが出来なくならねぇ内に、何とか全員を締めることが出来たから良かったが。
結局、ぶん殴ってから確認したところで、掴めたのは曖昧な噂だけだった。
魔王の配下である北方玄武将軍が、王国内に侵入していたところを捕えたと言う。
それも、捕らえたのは王国守備軍ではなく、この周辺を治める領主の私設軍であるとの話だ。よって、捕えられたシャッテンは、この街の端にある領主の館に収容されている、と。
昼間レーグネンには伝えなかったが、私がまだ中央にいた頃から変わりがないとしたら……この辺りを治めているのは、王弟派――対外強硬派の貴族クヴァルム伯爵であったはずだ。
西方にある魔王領との国境からは程遠いこの辺りで、何故シャッテンを捕えることが出来たのか。
もしかすると、その噂自体が何かの罠なのではないか、という気さえする。
まあ、何にせよ、酒場のどたばたでは、レーグネンに怪我がないことは何よりだった。幾ら魔物で、幾ら中身は男だと言っても、頼りない少女の姿をしている限りは、傷など負われては見ているこちらが痛い。
その見返りにオレの顔が少々腫れたり、腹に打ち身が出来たりするくらいは、まあ大したことでもねぇ。レーグネンを守りながらにしては、我ながら良くやったと思う。
だるい身体を宿の硬いベッドに横たえた。
濡れた布の向こうに、幾ばくか悄然とした様子のレーグネンの姿が見える。
元気づける訳でもないが、何か声をかけてやりたくなった。
「……で。北方将軍シャッテンは、あんたの味方なのか」
「味方――か。説明が難しいな。互いの好き嫌いは別にして、魔王陛下の僕としては信が置ける者だ。奴が来ているというなら、狙いは俺と同じだろう。王都に囚われた白虎将軍アイゼンだ」
「助け出そうとして見付かって捕まったってことか」
「多分」
答えながら、小さな手がオレの手の中からぬるまった布を取り上げる。再び冷水に浸けて、ばっしゃばっしゃと動かした。飛び散る飛沫――いや、飛沫どころじゃなく豪快に周囲の床が濡れていく。
これは……後で床を拭かにゃならんような気がするんだが。オレ、怪我人なのになぁ……。
びちゃり、と再び絞りのゆるい布をオレの顔の上に乗せてから、レーグネンはため息をついた。
「まずいな……」
何がだ、と問おうとしてから気付く。
四神将軍の内、白虎は王都で人間の虜になってたはずだ。
青龍はこんな状況、表に立てる姿ではない。
もしも玄武の状況が噂通りなのだとすれば、魔王領に残っているのは――
「朱雀は魔王陛下に反旗を翻すタイミングを図っている。シャッテンが魔王領におらぬとしたら、陛下をお守りする者がいなくなってしまう……」
耳元を、布から垂れた水がくすぐっていく。
何とも言えない気色悪さを感じて、片手で拭った。
「……魔王領に、戻るつもりか」
喉から漏れたのはどこか唸るような響きで、己の声のはずが、どうにもそのように思えない。
息苦しい沈黙に、答えるレーグネンの声はなかった。
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嫌だ、と叫んだ。
叫んだはずだった。
目の前に立つ幾つかの人影は、ぼんやりとして顔の区別もつかない。
声を出したはずなのに、この場にいる誰も動きゃしねぇ。
結局、オレの声なんざ、誰にも届かねぇんだろうか。
喉が血を吹きそうな絶叫であっても――所詮、北方人の声なぞ。
沸騰しそうに熱い頭を抱え、砂まみれの床に膝を突いて、身を捩る。
燃え盛る程熱いのに、身体の芯は凍えるように寒い。
いつかと同じで死にかけてるみたいな感覚だ、と思った瞬間に、脳裏を長い銀髪がチラついて――それで、ようやく気が付いた。
どうやらオレは夢を見ているらしい。
まだ少年だった頃、王国民にも良いヤツはいる、なんて期待を持ってた頃のちょっとした出来事を。
死にかけのオレをレーグネンが拾った2ヶ月前よりももっと――ずっとずっと前の。
流れ込んでくる熱さに、燃え尽きそうな身体を自分で抱き締めた。
頬を伝っていく雫は、汗か。涙か。
歪んだ視界の向こうから、近づいてくる人影がある。
他に動きのない部屋の中、ただ1人動いているそいつに向けて、助けてくれ、と縋り付く。
如何にも位階の高そうな、白く輝く美しい鎧を纏ったそいつは――オレの悲鳴なぞ無視して、感情のない声で告げた。
北方人よ、穢れの民よ。
その穢れをもって、王国に資せよ、と。
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眼を開けた瞬間、自分がどこにいるのか一瞬惑った。
真っ暗な部屋の中を見回してようやく、レーグネンと共に泊まっている宿の一室である、ということを思い出し――直後に、その肝心のレーグネンの姿がないことに気付いた。
眠りに落ちる前まで、あいつはオレの隣のベッドで、くぷくぷと寝息を立てていたはずだったのだ。
真夜中の静まり返った部屋には、既に、オレ以外の誰の姿も見えなかった。
「……おい、レーグネン……」
呼びかけに応える声はない。
慌てて身体を起こした途端にくらりと視界が揺れたのは、どうやら頬の腫れが原因で微熱があるらしい。動けないと言う程ではないが、手足がだるい。顔を顰めながら見回したところで、机上の紙切れを見付けた。
『噂の真偽を確かめてくる』
後にも先にもこの一文しかない走り書きを見るに――衝動的なものなのだと思う。
「……あんの、アホが」
まさか、たった1人で突っ込むとは思ってなかった。
肉体的な目眩に加えて、精神的にもくらくらしてきた。
オレが戦場で見聞きしていたレーグネンの姿は、もっと頭の切れるヤツだったはずなのだが。
何度も単独で王国守備軍を押し返した、あの奇策妙策はどうした。
まさか、そこまでリナリアに面倒見てもらってたとかじゃねぇだろうな!?
大慌てで出立の用意をしながら、ふと思い返した。
クヴァルム伯爵は、先の魔王領との戦の際、私設軍を寄せて参戦してたはずだ。
多分大丈夫だとは思うが……中には、オレの顔を覚えている兵士もいるかも知れない。
腰のベルトに外していた剣を提げながら、オレは――私は、息をついて覚悟を決めた。
もしも向こうが私の正体に気付いたとしたら、その時は――死んでもらう他はない。
例えそれが、一時は共に戦った者であったとしても。




