お祖父様と猫
お祖父様は本当は私のお祖父様ではないのだけれど、皆がお祖父様とお呼びするので私もそれにならいお祖父様とお呼びしています。
お祖父様と呼ばれていますが、お年寄りではなく若々しい見た目をしておいでで、もしかしたら私の父上様よりもお若いのではないかと思います。
しかしお歳を尋ねると三百歳を過ぎてからは数えていないとご冗談をおっしゃるので、私は困ってしまいました。
いつも宮中の奥深く、私の住まう梨壷のずっと奥で寝起きされていて、毎日何をするとも決まっておられず、ただ様々な事をご存じで、知らぬ所で何かをされているようです。
そんなお祖父様がふらりとどこかへでかけられ、三日の後に子猫を抱いてお帰りになりました。全部で三匹いたその子猫は茶色の斑と、白猫、そしてひときわ小さく弱そうな黒猫でした。
お祖父様はその一番小さな黒猫にキアと名付け屋敷の中で飼われる事になりました。
キアはお祖父様が世話をし残りの二匹は女官がお世話をします。キアと一緒に居る時のお祖父様は見たことの無い程嬉しそうな顔でお笑いになるので、私は時々寂しい気持ちになります。
キアがくるまでそのお膝は私だけのものだったのに、今は半分取られてしまったからです。
それでも、毎日お祖父様の所へ遊びに行き様々なお話を聞かせてもらいます。
お祖父様が皇だった時の話しをすると、時折キアがお祖父様の指を噛んだりします。でも、その後で優しく舐めているのを見ると、やはりキアもお祖父様が好きなのだろうと思います。
「お祖父様は三百年以上前に天から降りて来られたのでしょう? お家に帰りたくはないですか?」
「天から降りて、皇后に会った時から私の家はここになったので、帰る場所はここなのだよ。それに、皇后を探さねばならぬから、できるだけ地上に留まっていたいのだ」
お祖父様が笑ってキアの頭を撫でた。
「皇后様は三百年以上前にお亡くなりなのでしょう?」
「そうだ、私がここに留まる理由になり、そして今生を終える時には迎えに来ると約束してくれた。それを待つ間はそなたのように私達の子供達が慰めてくれた。だが、それももう長いことでは無い」
私にはお祖父様の言葉の意味はわかりません。まだ五つだからでしょうか。
もっと大きくなったらわかるのかもしれません。
子猫はどんどん大きくなり、宮中のあちこちを見て歩くようになった。その傍らにはいつもお祖父様がいて。お祖父様の傍らには必ずキアがいた。
キアはあまり人に懐かず私はほとんど触らせて貰えなかった。首尾良く捕まえたとしても、すぐにお祖父様に取り上げられてしまう。
「この子はだめだ」
そう言って黒い毛皮を撫でる。貧相だった子猫は艶やかな被毛を持った美しい猫に成長した。
「キア、人では無いそなたも愛らしいが。やはり、私はそなたに抱きしめて欲しいのだ。……もう三百年も待てぬゆえ、来世はもう少し早く人として産まれてきてくれぬか?」
キアは『なー』と甘えた声を出し、お祖父様の手を舐めた。
「そうか、そなたも同じ気持ちか。しかし、約束を守って迎えに来てくれたのだろう?」
最近お祖父様のお部屋に入る前に、少しだけ中の様子を伺う癖がついてしまった。
それはお祖父様がキアと会話をしているのを聞いてしまったからだ。
猫が死ぬ時、お祖父様は一緒に天に還ると言っていた。
自分には話してくれぬ事を猫と話している。それはきっとお祖父様の秘密だ。
私は七つになったけれども、やはりまだお祖父様の言葉の意味がわからない。神童だなどと持ち上げられても、いくら勉強をしてもわからぬ事があるのだと思った。
それから数年の歳月が経ち、私はこの北の国、玄国の東宮に立つことが決まった。
嫡子であるためあらかじめわかっていた事だが、十五歳になったのを機に父上がそうお決めになった。
皇である父上が主上と呼ばれ宮中で政を行う、それを臣下である大臣を筆頭とした貴族が支えるのである。
私はその皇統を継ぐ東宮として、様々な事柄を行わなくてはならない。
そして、この国の決まりである神事を行うために、玄国の北の端にある聖地、玄武村を訪れる事になった。これはこの国の初代皇となった玄武皇がお決めになった事である。
お祖父様に出立のご挨拶をすると、少し寂しそうな顔をして笑った。
『道中何事もなく、宮中へ戻れるよう祈っている。そなたの御代は未来永劫続くだろう』
その言葉は幾重にも重なって聞こえた。
「お祖父様、行ってまいります」
私は深々と頭を下げ、退出した。
今までは懐いた事もないキアが私の足に纏わりついて体をすり寄せて来た。そして出立の準備の整った牛車に乗るまでずっとついてきた。
牛車の御簾が閉まる前に、にゃおと鳴いて見送ってくれた。
私は不思議に思い、見えなくなるまで牛車の小窓を開けてキアを見た。
その姿が見えなくなっても、キアの鳴き声が聞こえた気がした。
遠く離れた玄武村に辿りつくには何日もかかる、宿を取り、進んで、また宿をとるといった風だ。
社で神事を行っている間に不思議な夢を見た。
それはお祖父様の姿、初代皇后の姿。そして、まだ迎えていない女御の姿、産まれていない息子の姿。
それから猫を抱き、眠るように息を引き取ったお祖父様の姿だった。
涙が溢れ、それを止めることはできなかった。
これは今現在起きていることなのか、それとももう既に過去の事なのか。
神事はまだあと二日ある、七日の間社に籠もらねばならないと定められているからだ。
一刻でも時間が惜しい、神事が終わればすぐに出立できるように、部下に馬を用意させた。牛車でのんびり戻る事などできない。一日も早く戻らねば。
別れの言葉を思い出す。お祖父様は全てご存じだったのだ。あれが最後になる事を。
幾日も馬で走り、着いた町で馬を乗り換え、ただひたすらに都を目指した。
やっと辿り着いた時には髭も伸び衣装も汚れていたが、そんな事には構っておられなかった。
お祖父様の住まう殿舎に辿り着くと既に、息を引き取っており、胸の上で同じく息を引き取った猫を、お祖父様から引き離そうと、胸から降ろそうとしている場面だった。
「離してはならぬ!」
「東宮様!? いつお戻りに?」
急な帰洛に驚く皆を押しとどめて、キアをお祖父様と一緒に葬る事を決めた。国葬は厳かに行われ、墓所へと移された。
こうして初代玄国の皇、玄武皇は初代皇后、騎亜の隣に葬られた。お祖父様は一つだけ開けられていた位置、一番最初の棺に、猫のキアと共に納まった。左手首にいつも輝いていた黒曜石の玉の腕輪も一緒に棺に納められた。そうせねばならぬと私が思ったからだ。
葬儀を終え皆が戻っても、私は一人墓所で立ち尽くしていた。自分の記憶と、不思議な夢、それらが様々に交差した。
お祖父様は、玄武皇は神としてこの国に降り立ち皇となり、最愛の人を失ってもなお、三百年以上国のために、民のために生きていてくれた。
ようやく迎えが来て、再び二人は出会えたのだ。
そうして、またいつの日か生まれ変わり、寄り添うのだと思う。
私が目にしたお祖父様と猫のキアのように。
神ですら伴侶の姿を人に変える事はできないのだ、人と人との出会いというのがどれほど重いものであるか、それを思い知らされたように思う。
この世界は四つの国からなっており、その国を総じて四 象と呼ぶ。
東の青国、西の白国、南の朱国、北の玄国。
一つの大陸を四つに割り、各地に一人ずつ神が降り立ち、国を興し皇となったとされている。
玄国は四神玄武を建国神に祭る北国。
国の中央に湖をたたえる水の恵み豊かな国である。
ふいにぽつりぽつりと雨粒が落ちてきて、私の頬を濡らした。葬儀に出席にした者達がちょうど宮中に戻ったのを見計らったような頃合いである。
空は晴れているのに、雨が降る。
思えば玄武村に向けて出立してから今日まで一度も雨に行き会わなかった。一日でも雨が降っていれば、間に合わなかったかもしれない。
そうなればお祖父様とキアは一緒に棺に入ることができなかっただろう。
「お祖父様のお力ですか?」
私がそう呟くと、すっと空に七色の虹が架かった。