一夜の夢
深い深い森の中。
一年を通して葉を散らさない、常緑樹が密集するその森は常に暗く、黒い森と呼ばれている。
バゼットの姿はその森の中にあった。
バゼットは各地を旅する冒険家で、精悍な顔つきに幼さの残る、十七、八の青年だ。
うっそうと茂る木々に覆われてあたりは暗く、昼間だと言うのに足元はおぼろげで頼りない。
それでも、木の葉の間から差し込む光がゆらゆら揺れて、妖精の舞でも見ているかのように幻想的な美しさがあった。
「そこのあなた、靴紐がほどけていますよ」
「――え?」
あまりの森の美しさに見とれていたバゼットは、不意に声をかけられて我に返った。
「あ、本当だ」
とっさのことで、思わず言われるがままに足元を見ると、確かにブーツの紐が片方解けていた。
これはいけないと慌ててしゃがみこんだバゼットは、しっかりと靴紐を結び直して立ち上がる。
「ありがとうございま――」
声のしたほうへ振り向きざまお礼を述べる。と、声を掛けられるまで全く気づかなかったのが不思議なくらい、すぐ傍には、白いひげを蓄えた柔和な初老の男性が立っていた。
背が低くて小太りで、大きなぎょろ目と口ひげが特徴的な老紳士。
だが、何より印象的なのは、この深い森の奥にあって、彼がまるで夜会にでも出かけるかのような、仕立てのいいコートを着ていたことだ。
思わずお礼を言いかけた口が、言葉尻を絞め忘れてあんぐりと開いた。
「いやいや。私はただ、ふっと気づいただけだからね」
彼はバゼットの無礼をとがめもしないでにこやかに笑った。
この度量の大きさ。
そして、
「とにかく大事に至らなくてよかったよ。
ほどけた靴紐を踏みつけて、木の根っこにキス。なんてことになったら笑いものどころじゃすまないからねぇ」
と、ユーモアを含ませて、おどけた口調でウィンクする彼は、少し高めの特徴的な声で、地方訛りのある言葉さえ味のある、なんてお茶目な紳士だろう。
「大丈夫ですよ。俺はそこまで間抜けじゃありませんから」
つい先ほど、間の抜けた顔をさらしたばかりだということも忘れて、意地の悪いユーモアに笑顔で切り返した。
「ところで、あなたはこのあたりに住んでいるんですか?」
背の高い針葉樹が立ち並ぶ森の中、仕立てのいい洒落たコートは似合わない。もしかしたらこの近くに村でもあるのかもしれないと思い訊いてみる。
「ああ。いえ、私は・・・・・・」
しかしこの老紳士、頷きも否定もせず、ただ言葉を濁す。それからしばらくして彼は何を思ったのか、今度ははっきりとうなずいて肯定した。
「そうですね。村ではないですが、私はこの近くに住んでいます」
そう言って、ふっと遠くを見つめる彼の顔は、まるでかりそめのように淡い笑顔をしていた。
わけのわからないご老人である。
「そういう貴方は旅をしているのですか?」
バゼットの服装を見てこちらに興味を持ったのか、はたまた話題を変えるためか、今度は老紳士のほうから質問をしてきた。
「そうです。俺はここまでずっと旅をしてきました。
今までいろんな森を見てきたけど、この森はとても恐ろしく、美しいところですね。思わず見とれてしまいました」
背の高い針葉樹が立ち並び、枝を広げて空を覆うせいで、光の差し込まない森の中は薄暗く寒い。
一度足を踏み入れれば、深く昏い森の奥へ、どこまでも引き込まれていくような恐ろしさを感じずにはいられない。けれどそれと同時に、静かな緑をたたえたこの場所は、人の立ち入らない、眠り続ける森の、夢のような美しさがあった。
「ええ、本当に。この森は美しい」
老紳士はどこか遠くを見つめ、穏やかに笑って同意した。
彼の震える声が、現世ではない別の場所にいるかのように遠く聞こえた。
先ほどまでのおどけた様子はどこにもない。儚い微笑をする人だと思った。
しかしそのまなざしは暖かく、彼がこの森に注ぐ愛情の深さがひしひしと伝わってくる。
「そうだ! ここであったのも何かの縁。ここから村まではまだしばらくかかりますし、よろしければ今宵、私の家に泊まってはいただけませんか?」
老紳士は突然手をポンと叩いて思い付きを口にした。
「えっ? 一体どういう・・・・・・」
あまりの唐突さに、バゼットは声を上げて驚いた。
「ああ、すみません。出会ったばかりなのにいきなりこんな変なことを申し上げてしまって。
人に会うのは本当に久しぶりで、心が少し騒いでいるのです」
「はあ・・・・・・」
慌てて言い訳を口にする老紳士の勢いに押されてバゼットは面食らう。
表面上は落ち着いて見える老紳士だったが、確かに彼自身が言うように、とても嬉しそうで、バゼットには彼が少しはしゃいでいるように見えた。
こんな森の奥に住んでいたら、人に遭うことさえ稀だろう。人との出会いに喜びを覚えるのも無理はない。
「あなた」
戸惑うバゼットに、老紳士は親しげな友人を相手にするかのように呼びかけてきた。
「突然のことで驚かれたと思いますが、この寂しい老人の話に一晩、付き合っていただけませんか? 貴方に遇って少し昔話がしたくなったのです」
仰々しいほどの丁寧な言葉とは対照的に、彼の特徴的な声と、独特の訛りがかった言い回しのちぐはぐさがひどく滑稽で、思わず笑みがこぼれた。
「俺でよろしければ、貴方の昔話にお付き合い致します」
老紳士に倣ってバゼットもまた、芝居がかった動作でそれに応える。
「でもいいんですか? こんな突然お邪魔しちゃって」
「もちろんですよ、私がお誘いしたんですから」
老紳士の申し出に承諾したものの、あまりに突然のことで、迷惑じゃないかと心配になったバゼットが尋ねると、彼はは笑顔で答えた。
「では、遠慮なくお世話になります。ええと・・・・・・」
そこでバゼットはまだ彼の名前を聞いていないことに気づいた。彼もまたそれに気づいたのだろう。
「ああ、すみません。私はレイクです。
・・・・・・そういえばお互い、まだ名乗り合ってもいなかったんですね」
と顔をほころばぜる。
「ですね」
バゼットも頷いて笑った。
「俺はバゼットっていいます。お世話になります、レイクさん」
「こちらこそよろしく。バゼット君」
それから十五分くらい、老紳士に連れられて森の中を歩いただろうか。
「ここが私の家です」
そう言われてバゼットが連れてこられたのは、赤茶けたレンガ造りの屋根と手作り感溢れる木造の、まるで今にも小人が飛び出てきそうな雰囲気のかわいらしいおうちだった。
「わぁ・・・・・・」
粗野なきこり小屋を想像していたバゼットは、森の中にひっそりと佇む小屋の様子に感嘆を漏らした。
この紳士らしい、といえば彼らしい。落ち着いた雰囲気と包み込むような温かみ、そして使古された味のある小さな居城。
それは一見すると見逃してしまいそうなほどひっそりと、みごとに森に溶け込んでいた。
「どうぞ。何もないところですが、ゆっくりと寛いでください。今、お茶を入れますから」
扉を開けて家の中に入ると、部屋に二つきりある椅子のひとつにバゼットを座らせて、レイクは奥へと引っ込んだ。
奥とはいっても一間きりの部屋のこと、竈元もこの部屋にあるため、お茶の用意をしてくれているレイクの姿がこちらにははっきりと見える。
そして二階へと続く階段は寝室に繋がっているのだろう。
レイクがお茶を用意する間、暇を持て余したバゼットは部屋の中をじっくり観察していた。
木で作られたテーブルに椅子。棚に食器に、きれいに整頓された家具のほとんどが、手作りらしい独特の温かみに包まれていた。
唯一気になることがあるとすれば、この家では何もかもが二組ずつそろっていることだった。
椅子が二脚。
コップが二個。
お皿が二枚。
フォークやスプーンも二セット。
そろいのものは全て二つずつ。
それなのに、彼の他に人の気配はない。
もしや上の部屋にいるのかもと思ったけれど、この小さな家の中にあって、物音ひとつないというのもおかしな話。そも、人を招待するに当たって同居人の話が出てこないとはどういうことか。
つまるところ、レイク以外の住人がいないのだろう。それなのになぜ、同じ家具が二つも用意されているというのか。
「おや、どうかされましたか?」
「あ、いえ・・・・・・」
バゼットが悶々と考え事をしていると、お茶を淹れ終わったダイクは、銀のトレイを持ってバゼットの元に戻ってきた。トレイの上にはお湯を入れたばかりのティーポットと、暖められた二つのティーカップがのせられている。
バゼットは首を振ったが、レイクはバゼットの疑問に気づいたようだった。
「ああ、気になりますか?
どうして私一人しか住んでいないはずなのに、椅子やコップが二つずづあるんだろう?
どうだい、当たってるかな?」
ダイクはまじめくさった顔でバゼットの内にある疑問を代弁した後、急に破顔して問いかけてきた。
人が悪いとはこのことだ。
面と向かって言われたのでは、質問された人間はどう答えればいいというのだろう。
「あ、いや。そんなことは・・・・・・」
図星をつかれて顔を真っ赤にするバゼットを、ダイクは笑い飛ばした。
「ははははははは。わざわざごまかさなくてもいいだろうに。ここに来た人間は君が初めてだが、大抵の人は同じことを疑問に思うだろうからね」
そう言って彼は更に笑った。
馬鹿にしているというよりは、その問答自体を楽しんでいるような余裕が感じられる。
「さて、そろそろかな」
ダイクはポットのふたを取って中を覗き見、再びふたをするとお茶をティーカップの中に注いだ。
カモミールの柔らかく優しい香りがほのかに香る。疲れた心と体に染み入るような暖かさだ。
「さあ、どうぞ」
「いただきます」
差し出されたカップを受け取ると、バゼットは早速甘い香りの漂うハーブティを口に運ぶ。
「ああ、淹れたてなので少し冷ましてから・・・・・・」
というダイクの注意をよそにバゼットは、
「熱っ!!」
と、既にお茶を吐き出していた。
「ってもう遅かったみたいですねぇ」
若者の粗相に老人は、呑気にからからと笑った。
「す、すみません・・・・・・」
度重なる失態に、先ほどよりいっそうを顔を赤くして黙り込む。
その様子を面白そうにニコニコと眺めるレイクの視線に耐えられなくなったバゼットは、思い切って尋ねてみる。
「あの。この二つある家具って奥さんのものなんですか?」
すると今まで笑っていたレイクの顔が不意に翳りを帯び、遠い場所を見るような目になった。
「私に妻はいません。今も昔も」
やさしげな面差し。しかしどこか寂しげで、見ているこっちが切なくなるほど静謐だった。
この老紳士は出会った時からたまにこんな表情を見せることがあった。こういう顔をするときの彼は決まって声をかけるのがはばかられた。
大切な思い出を愛でるかのような、どこか遠い遠い瞳。
その切ない思いが無関係であるはずのバゼットの心すら締め付ける。
この老紳士は、何を想いそんな表情をするのだろう。想いを馳せる妻などいないと、彼自身がそう口にしているのに。
「これらの家具は、私が愛した人のために用意したものです。私の愛しい・・・・・・あの方のために」
「あの方・・・・・・?」
「一目見ただけで私を虜にした女性です。
彼女は別に私の妻でもないし、恋人ですらありません。ですが私の一番大切な女性。彼女の為に、私は一生結婚しないと誓ったのです。」
レイクは心からその女性を愛しているのだろう。見ているこっちが恥ずかしくなるくらい、彼のまなざしは熱かった。
「けれどこれは私の一方的な片思いにすぎません。私という人間は、自分の心を奪っていった女性の後を追うだけの、バカな男なんです」
レイクは立ち上がって二つあるコップのひとつを手に取ってしみじみと眺めた。
「これはただの私の片思いエゴなんです」
レイクは、自分の思いが一方的なものだと断言した。だけどただの片思いなだけで、ここまで一途に一人のひとを思い続けられるものなんだろうか。
いや、きっとそんなことはないはずだ。
愛は見返りを求めないとはよく言ったものだが、それは決して正しくはない。
自分が相手に想いを寄せた分、返ってくるものがなければその愛情はいつしか歪み、純粋な気持ちは憎悪に狂う。
それが人というものだからだ。
「実は、私も昔は貴方と同じ旅人でした」
レイクは静かに語りだした。
「美しいものを求め新しい出会いに蜂起し、旅することの辛さに幾度となく心は挫いた。だけどその辛さを差し置いても、旅をして得られる喜びのほうが何倍もすばらしかった。そしてなにより、それは私の糧だった」
レイクの話はバゼットにもよく覚えのあることだ。
新しい土地、知らない場所、見たこともない景色。初めて話す人たちとの出会い。未知へのものへの探求と好奇心を満たすことはとても楽しいけれど、楽しいばかりが旅じゃない。
たった一人での旅路は過酷で不安ばかりが付きまとう。
いつ何者かに襲われるかもしれない緊張と行き倒れる自分の姿に怯え、明日の食料のことを思い、寝床の確保に苦心する。
それでも、たくさんの暖かい出会いと溢れ出る好奇心が消えない限り、バゼットは旅を止めない。
「そう。今の君のように、旅をやめてひとつの場所に腰を落ち着けるときが来るなんて、そのころの私には考えもつかなかった。ずっと旅を続けるのだと思っていたし、旅をやめてこんな落ち着いた生活をする私の姿なんて思い描くことができなかった。それくらい私にとって旅というのもは、かけがえのない生きる目的。切っても切れない縁でつながっていたのです」
「そういうの、わかります。今の俺と、たぶん同じ気持ちだから」
同じ旅人だからこそ、バゼットにはレイクの言うことが身にしみて分かった。
「若い頃は大抵みんなそう思っているものなのですよ」
昔を懐かしむダイクの顔に、ふっと笑みがよぎる。
「だけど。いつかはきっと君も、私と同じように腰を落ち着けることを望むでしょう。それがどんな場所で、どんな状況においてかはわからないけれど・・・・・・
そしてその場所が、私にとってはここだった」
レイクは茶を口に運び、ふうっと一息ついた。
「初めてこの森を訪れた時のことを、今でも昨日のことのように良く覚えています。
この場所は、本当に美しかった。私はそれまでいろいろと旅をしてきましたが、本当に・・・・・・どこよりもこの森は美しかった」
彼の独特な語り口調は熱を帯び、夢見心地でレイクは語る。
「この森で、あの運命的な一夜を過ごした後も、私は旅を続けた。けれど、その後の私は散々なものでした」
「散々?」
「どこへ行っても、どんな美しいものを見ても。ここで感じた以上の感動を味うことができなくなっていたのですよ。
どこへいってもあの女性の姿が頭から離れなかった。
そして長い旅の末、老いさらばえた私の足は自然とこの森に向かった」
まただ。
レイクが時折見せる不思議な表情。今の彼には、ここではない、どこか別の場所行き来しているような危うさがあった。
「この森には、いったい何があるんですか?」
自分と同じ、世界を旅する冒険家だったこの老人の足を止めるほどの何が、この森にはあるのだろうか。
素朴な疑問だった。
しかしエレイクはその問いに優しく微笑んだだけで、何も言わなかった。
そしてしばらくした後、
「少し散歩に行きませんか?」
と、唐突にバゼットを散歩に誘った。
「散歩ですか!?」
彼の意外な提案に、バゼットは聞き返しながら窓の外を見た。
いつの間にか陽はすっかり落ちて、森を包む闇はまるで大きな影の塊のように昏く、とても不気味だった。
それにもともと昼間ですらあまり光の通らない森である。闇夜の暗さは昼間のそれとは比べ物にならないくらいに濃い。
夜の森の危うさはそれだけじゃない。昼間は活動しない夜の獰猛な獣たちが、獲物を求めて動き出す時間でもある。
バゼットの驚きと困惑は当然の反応であるのだが、そんなバゼットとは対照的に、
「ええ、夜の散歩ですよ」
と、レイクは静かにうなずいた。
口元はにこやかに笑っているのに、眼だけは別人のように光を帯びて、有無を言わせない迫力があった。
その様子にバゼットは何も言えず、開きかけた口を閉じた。
「夜の森は格別に美しいですよ」
レイクが向ける視線の先には、存在のはかり知れない闇があった。
形だけの、柔和な笑みを貼り付けただけの笑顔に恐怖を感じながら、自分の意思とは関係なくバゼットは頷いていた。
レイクはそれを確認すると、満足した様子で立ち上がり、そのまま家の扉を開けて外に出て行った。
彼の姿が視界から一時だけ消えたのを、ほっとしている自分がいることに気が付いた。
濁った、あのどこを見ているのか分からない彼の瞳が恐ろしかった。
自分を待つレイクの視線を受けて、バゼットは家の外に出る。
「さあ、私についてきてください」
レイクは手に持ったランプを掲げる。
「いいですか、ちゃんとついてくるんですよ。夜の森は道を見失うと戻ってこられなくなりますからね」
ひょうきんな声で、しゃれにもならないことを言う彼の後について、先の見えない森の中へ足を踏み入れた。
レイクは見ている夢を追いかけるような足取りで、ずんずん森の奥へ進んで行く。
おそらくレイクは夜毎、こうして散歩としゃれ込んでいるのだろう。
頼りないランプの明かりだけでは足元さえままならないというのに、得体の知れない力に引き寄せられるかのように、先を行く彼の歩みに迷いはない。
森は異様な静けさに沈んでいた。闇夜に目覚めた獣の声も、風との対話に話を弾ませる木々の声すら聞こえない。別世界のように静かで、自分たちの足音と荒い息使いだけが耳の奥に響いていた。
一体彼はどこに連れて行く気なのだろうか。
一度も振り返ることのない無言の背中を追いながら、バゼットは不安を感じずにはいられなかった。
足元すら不確かな暗闇の中を、レイクの持つか細いランプの光だけを頼りについて行く。それがどんなに頼りなく恐ろしいことか。
足元に転がる小石や、ごつごつと地面から盛り上がる木の根っこに何度も躓いては、そのたびにレイクの背中を見失いそうになる。
こんなところで迷子にでもなったら、レイクの小屋まで戻れる自信がない。と追いすがるほうは必死だ。
だから十分気をつけていたはずなのに、慣れない森の夜道にバゼットは躓いてしまう。
「痛っ!」
思わず漏らしてしまった声が思いのほか鋭く静寂の森にこだました。一瞬周囲の森にざわめきが起こり、バゼットはぎくりとしてあたりを見回す。
先の見えない闇が、ひそひそささやきながらバゼットに忍び寄り、レイクが持つかすかな光源から伸びる影が、遠く、奇妙にゆがんで揺らめいた。
「レ、レイクさん。待ってくださいよっ!」
暗闇に取り残されたバゼットは、たまらなくなって声を張り上げた。しかし背を向けるレイクの耳には届かず、彼は憑かれたようにただひたすら何かを目指して歩き続ける。
その様子は、まるで旅人を冥府に導く幽鬼のようだ。
ここにいるようで、どこにもいない。少なくとも、彼の心はもう現実にない。
「もう、自分がついて来いって行ったくせに・・・・・・」
ぼやきながらバゼットは急ぎ足でレイクに追いすがる。
暗い木々の向こうにぼんやり揺らめく光とレイクの背中が見えてくる。
「レイクさん!」
ようやく追いついたとバゼットが手を伸ばしかけたき、レイクが急に立ち止まり、バゼットはそのまま彼の背中に顔面から激突した。
「うぷっ・・・・・・」
「何をしているんですか?」
森に入ってから初めてこちらに振り向いたレイクは、痛みに顔を抑えるバゼットに怪訝そうな視線を投げかけた。
文句のひとつでも言ってやろうかと口を開けるが、既にレイクは前に向き直り、前方をじっと見つめていつぶやいた。
「ここですよ」
「え?」
バゼットはそっと彼の隣に立ち、その視線の先をなぞる。
そこにはにはぽっかりと穿たれた闇があった。
何もない。ただ闇に塗りつぶされた、底の知れない黒。
その暗闇の中で、波紋のような波が揺らめいているのがわかった。
暗くてその規模まではよくわからないけれど、おそらくここには湖があるのだろう。
そうバゼットが気づいたとき、あたりがふっと闇に落ちた。レイクが手に持つランプの明かりを消したせいだ。
視界が一瞬にして奪われ、何も見えない。
「レイクさん?」
問いかける彼の顔さえも闇の向こう。
一体この場所には何があるんだろう。そう問いただそうとしたとき、
「見てごらん。美しいでしょう」
レイクは手を広げて湖を見るよう促した。
「そんなこといわれても・・・・・・」
こう暗くては何も見えない。見えるはずがないのだが・・・・・・
「あれ?」
暗闇に慣れた瞳に、目の前の湖が光って見えた。
しかしそれは実際に湖が光を放っているわけではない。月の光が水面に反射して、まるで湖が光を放っているかのように輝いて見えるのだ。
「うわぁ」
光に吸い寄せられた虫たちが、湖の周囲で舞踏会を催していた。淡い光に包まれた水面で、虫たちの発する光が交互に明滅するさまは、幻想的でとても美しい。
ここに来るまでの森が異様に静かだったのは、きっとみんな、この美しさに引き寄せられて集まっているからなのかもしれない。
「どうですか?」
「すごいです。こんな、こんな綺麗な場所があったなんて・・・・・・」
バゼットは感極まって喉を詰まらせた。
「ほら、あそこにいるのが私の愛しい思い人です」
「え?」
レイクは湖の中央あたりをさした。しかしそこには、集まった光が波のようにたゆたっているだけで、人の姿はどこにもない。
「レイクさん? そんな人、どこにも・・・・・・」
レイクは一体何を言っているんだろうか。戸惑うバゼットに気づきもしないで彼はなおも続ける。
「美しい私の天使・・・・・・
光の衣をまとって、湖の上で静かに微笑む、私の愛しい女性」
誰もいない空間に向かって微笑むレイクの姿を見て、バゼットは気づいた。
彼には見えているのだと。
他の誰にも見えなくても、レイクには長年思い続けた愛しい人の姿が鮮やかに、その瞳に焼き付けられていることだろう。
「ええ、本当に美しい」
この二つの目に見えなくても、彼の瞳を通して、水上で優雅に踊る美しい女性の姿がバゼットにもわかった。
「彼女はこの湖から離れることができないのです。それに、太陽の強い光の下では存在することさえできない、夢のようなひと。
淡い月の光だけが、彼女を現世にとどめておくことができるのです」
レイクはそう言って火の消えたランプを下に置いて、靴を脱ぎ捨てる。
「淡くて儚いここだけの存在。まるで一時の夢のようだけど、これは決して夢じゃない」
熱に浮かされるままにつぶやいて、素足を地に着けた彼は歩き出す。
一歩。また一歩。
これ以上進んだら湖に落ちてしまう。というところまで進み、そのままためらいもなく彼は入水した。
水音がして、レイクの足が湖に沈む。衣服が濡れることなんか気にせず、彼は静かに湖の中央まで歩いていく。
「私はこの湖で出会った、この美しい女性との一夜の夢が忘れられなくて、ここで翼を休めることにしたのです」
彼の胸まで迫るほどの水の深さも冷たさも、彼の想いを阻むことはできない。
「ああ、ディエーマ・・・・・・」
レイクが湖の中央で両手をそっと抱きしめた。
バゼットには見えない。湖に注ぐ月光と、虫が放つ淡い光以外は何も見えていない。
それなのになぜだろう・・・・・・光に包まれた湖の中央で、年老いた老紳士の姿に若く美しい青年の姿が重なって、その青年に寄り添うようにしなだれる、若く美しい女性の姿が見えたのは。
湖の精と旅人の淡く儚い恋。
月の美しい夜だけが見せる幻想の夢。
彼らは永遠に、この湖で逢瀬を繰り返すのだろう。
ここまで読んでいただきまして、ありがとうございます。
以下は雑文なので、読み飛ばしていただいても大丈夫です。
三つのキーワードから物語を考える三題話ですが、昔すぎてキーワードは忘れました。
過去の作品を加筆修正したものですが、今回はストーリーの大筋はそのままに、だいぶ加筆修正を加えたのでほぼ別物。
バゼットくんシリーズは第三弾です。
と言ってもそれぞれの話につながりはなく、一話完結なのでどこから読んでもらっても楽しんでもらえると思います。
今回の舞台は国というよりは、森。今でこそドイツ南西部に存在するのみとなっていますが、かつてはヨーロッパの大部分を覆っていたという暗い森が舞台。ケルトやゲルマンなどの民族が生き、グリム童話なんかでもおなじみの森です。