納豆嫌い
■質問■
あなたは納豆が好きだろうか?
わたしは嫌いである。大嫌いである。
万が一にも好きだと答えたあなたは、一度冷静になって考えてみてほしい。
納豆とは、腐ってねばねばと糸を引き、異臭すら放つまでになり果てた哀れな大豆であり、換言すれば悪質な生ゴミである。どこをどうしても、まともな人間の食べるものではない。
もしタイムマシンがあったとしたら、わたしは、この腐った豆を食べてみようと奇怪な事を思いついたあげく、それを実行に移し、あまつさえこれを食べ物として認めてしまった、人類史上屈指の大馬鹿野郎をぶん殴りに行っている事だろう。
聞いた話によると、関西方面では納豆があまり一般的ではないと言う。それはわたしにとって、極めて魅力的な話である。今はまだ地元(忌まわしい納豆の都・茨城県水戸市)の高校に通っているが、大学受験では関西の大学を狙うつもりだ。
なんだか散々に書いてしまったから、一応フォローはしておく。
「納豆が嫌い」というのはあくまでも、わたしの個人的な好みの問題である。「納豆が好き」という人間は身近にも少なくないし、それを理解こそできないものの、否定までする気はない。「蓼食う虫も好き好き」とは正にこの事だろう。「納豆食う人も好き好き」。ただ世の中には、納豆を食べ(られ)る人間と食べ(られ)ない人間がいる。それだけの話だ。
いや、それだけの話だったはずなのだ。
■異変■
朝、目を覚ましたわたしは、いつものとおり、寝間着にしているジャージ姿で顔を洗いに行った。洗面台の鏡の中を見ると、さして長くもない髪がバサバサに乱れていたので、顔を洗った後の濡れた手で適当に整える。
部屋に戻って制服のブレザーとスカートに着替え、わたしは食堂に向かった。
食卓を見ると、わたしの席の前に納豆の小鉢が置いてある。
どうせ食べないんだから、出すだけ無駄なのに。
わたしは小鉢を無視し、味噌汁と漬物で朝食を終え、立ち上がった。すると母が言ってきた。
「ツキ、納豆が残ってるわよ」
ツキというのはわたしの通称である。申し遅れたが、わたしの名前は近藤月子という。今までの口調で誤解を受けているかもしれないので、念のために書いておくと、性別は女だ。
「いらない」
わたしがそう言うと、母はまるで怪物でも見るような、恐怖と驚きの視線をわたしに向けて来た。わたしはたじろぎ、思わず聞いた。
「何? どうかしたの?」
しかし母は、わたしの声など聞こえていない様子だった。虚ろな目つきで宙を見つめながら、
「どうして、そんな……。昨日までは食べていたのに……」
何を寝ぼけているんだ? わたしは昨日も一昨日も、それより前からもずっと、納豆なんか食べていない。
わたしが黙ってテーブルから離れようとすると、母はあせったように、
「本当に食べないつもりなの?」
「さっきからそう言ってるでしょう」
ぶっきらぼうに言いながらも、わたしは内心、薄気味悪さを感じていた。
母の様子は、明らかに何かがおかしい。
その母から逃げるようにして、わたしはマフラーを首に巻き、鞄を手に玄関へと向かった。ちょうど父が靴を履いている最中だった。いらいらとしながら父が靴ベラを使い終わるのを待っていると、背後から母の声がした。
「お父さん! 月子が、納豆を食べようとしないの!」
父の動作が止まった。ゆっくりとわたしに向かって振り向いた父の顔からは、血の気が失せていた。父は震え声で言う。
「おまえ、納豆を食べていないのか?」
どうやら異変は父にも及んでいるらしい。そう気づいて、わたしは寒気を覚えた。真冬なのに、冷や汗が背中を伝っていくのが分かる。
「――それがどうかした?」
出来る限り平静を装って言う。
「父さんは、おまえを犯罪者にしたくない」
苦渋に満ちた父の言葉はしかし、わたしの耳にはまったく入ってこなかった。何を言われているのか、まるで理解できない。
父は履きかけていた靴を脱ぎ、わたしが出られないよう、玄関に立ちはだかった。ドアへの道を断たれたわたしの背後から、母の足音が近づいてくる。おそるおそる振り返ってみると、母の手には納豆の小鉢とわたしの箸があった。
「一口だけでいい。食べてくれ」
沈痛な面持ちで言う父と、泣き出しそうな顔でわたしを見ている母。
……差し当たり、現状が納豆一口で打開されるのなら、我慢しよう。
わたしは鞄を置いて箸と小鉢を受け取り、納豆をほんの一口だけ食べた。それでも、口の中に腐臭と粘りが広がり、吐き気を覚える。涙目になりながら、それを無理やりに飲み下し、
「じゃあ、行って来る」
父の横をすり抜けて、わたしは靴を履き、急いで家を出た。
学校へ向かって歩きながら、わたしは考えた。
何が起きているのか、さっぱり分からない。分かっているのは、納豆に関して我が家の中が異常な状態になっているらしい、という事だけだ。原因は見当もつかないし、ましてや解決方法なんて思いつくはずもない。
陰鬱な気分で学校に着くと、学校の塀に沿って、生徒たちが長い列を作っていた。列は校門から並んでいるらしいが、肝心の校門の中は良く見えない。抜き打ち検査でもやっているのかな、と思いながら、わたしは列の最後尾に並んだ。
あいにくとわたしは、頭髪も服装も持物も、目をつけられるような状態にはない。
と言っても、別に品行方正を目指しているわけではない。髪を短くしているのは、長いと邪魔だから。化粧も染髪もしていないのは、面倒だから。スカートの丈が基準範囲なのは、短くすると寒いし長くしすぎると動きにくいから。余計な物を持って来ないのは、鞄を少しでも軽くしたいから。どれも極めて合理的な理由からである。理由はどうあれ、そんなわたしにとって、冷たい風にさらされながら列に並んで検査を待つのは、単なる時間の空費に他ならない。
ぼんやりしているうちに列は少しずつ進んでいった。やっと校門の中が見えてくる。
そこには、数人の警官がいた。しかもその中には、一人だけ変わった制服を着ている警官がいる。薄茶色の地に白いラインが入っていて、何となく軍服を思わせるデザインだ。
警察!? 学校で何か、事件でもあったのか?
だが、それにしては生徒たちが静かすぎる。警察を見て驚いているのはわたし一人だけで、他はみんな、ごく平然とした様子で並んでいる。警官たちの方も、特に何もせず、ただ突っ立って生徒が横切るのを眺めているようだった。
このまま何もせずに終わるのかと思って見ていると、例の変わった制服の警官が動いた。顔も知らない男子生徒――ネクタイの色で、わたしと同じ二年生だという事だけは分かった――の肩を素早くつかむ。彼は別の警官に連れられ、護送車のような物々しい大型車に入って行った。
どうやら目当ての人間は見つかったようだ。これでもう、列に並んでいなくても済む。
そう思ってほっとしたのだが、警官たちは、校門から動こうとしない。
まだ続くのか?
どうやら彼らは、特定の個人を探しているのではなく、生徒全員をチェックするつもりでいるらしい。迷惑な話だ。
列はのろのろと進んでいく。次はやっとわたしの番だ。
少し緊張しながら警官たちの横を通り過ぎる。彼らは動かなかった。何だか知らないが、わたしはチェックに引っかからなかったようだ。良かった良かった。
朝一番で早くも脱力感に襲われながら教室に入ると、トレードマークのポニーテールを揺らしながら、クラスメートの長沢優実が話しかけてきた。
「ねえねえ、ツキ、C組の男子が逮捕されたって話、聞いた?」
「何それ?」
わたしが聞き返すと、優実はあきれたように、
「うわ、冷めてるな~。ツキ、本当にこういうの、興味ないよね」
先に校門で警察を見ていたので、「生徒が逮捕された」という話は、今一つインパクトを伴って受け止められなかった。加えて、わたしが他人の噂話に興味がないのは事実なので、特に反論はしない。すると優実は得意そうな表情を浮かべて言った。
「C組の男子がね、さっき納豆検査に引っかかったんだって」
「納豆検査?」
「うん。さっき護送車に乗せられたから、もう矯正所は決定みたいだよ」
優実の言っている「納豆検査」が、校門でやっていたあれの事だ、と気づくのに時間はかからなかった。だとすると逮捕された男子というのは、あの不幸な彼の事か。それにしても「納豆検査」というのは何だ? 生徒たちが納豆を食べているかどうか、いちいちチェックしているとでも? 馬鹿馬鹿しい、と思いかけたが、そうだとすると、父の言っていた犯罪者云々と話は符合する。そう気がついて、わたしは再び寒気を覚えた。
優実は、そんなわたしの様子を気に止める風もなく、話を続ける。
「コワいよねぇ、納豆食べてない人がいるなんて」
優実の奇妙な発言は、わたしにまた一つ、現状への違和感を覚えさせた。
やはり彼らは(どんな手段を使っているのかはともかく)生徒が納豆を食べているかどうか調べに来ていたらしい。話の流れからすると、そう考えるのが自然に思える。
わたしは朝、一口だけとは言え納豆を食べてきたから、無事に通過できたのか。その点だけは両親に感謝しておこう。
もう少し詳しく話を聞きたかったが、優実はクラスに別の人間が入って来るのを目に止め、そちらに行ってしまった。
朝の家族の様子と言い、今の優実の話と言い、やはり納豆に関する「何か」が起きているらしい。その「何か」に関わる事のないよう祈りながら、わたしは自分の席へ向かった。
一限の生物は「納豆菌の生態」。二限の公民は「現代社会における納豆の立場と役割」。三限の現代文は「近代文学に登場する納豆」。四限の日本史は「納豆伝来と普及の歴史」。
朝からずっと納豆づくしだ。授業を聞いている間に、漠然としていたわたしの中の不安は、確信に変わった。少なくともわたしの家から学校までの範囲は、納豆至上主義とでも言うべき異常な状態に支配されている。周りの一人一人から納豆の臭いが漂って来るような気さえした。
やっと昼休みになった。さすがに昼休みまでは、納豆は登場しないだろう。
しかし、担任の森が、太った体を揺すりながら大きな発泡スチロールの箱を持って来たのを見て、わたしは自分の読みが甘かった事に気づいた。
案の定、森は言った。
「納豆を配るから、一人ずつ取りに来い」
周りの連中は、それが当然という様子で森の前に並ぶ。わたしはせめてもの抵抗として、自分の席に座ったままでいた。
「近藤、早く来い」
森が呼んできたが、無視する。
「近藤」
わたしは席を動かず、代わりにきっぱりと言った。
「要りません」
その一言を口にした瞬間、ざわついていた教室中が静まりかえった。視線が一気にわたしへと集まり、息の詰まるような沈黙が流れる。
それを破ったのは森だった。
「納豆を、食べないのか?」
「はい」
内心では、この一言で何が起きるか不安だったが、わたしは表面上、あくまでも冷静さを保ち続ける。森は脂汗を浮かべ、しばらく黙ってから言った。
「生徒指導室に来い」
「どうしてですか? 指導を受けるような憶えはありませんけど」
森は無言で、わたしの席に近づいてきた。力ずくでも生徒指導室に連行する気らしい。わたしは素直に立ち上がり、教室の中を見回した。わたしを恐れるかのような視線が返ってきた。優実でさえ、茫然とした表情でわたしを眺めている。
教室を出ると、閉じたドアの向こうで、大きなざわめきが起こるのが聞こえた。
森の後について、気を張り詰めながら、わたしは廊下を歩いた。この状況下では何が起きるか分かったものではない。
わたしのブレザーのポケットで、携帯がメールの着信音を鳴らした。森は一瞬だけ足を止めて振り向いたが、すぐに視線を前へと戻し、再び歩き始めた。あのこわばった表情からすると、メールを注意する精神的余裕も無いのだろう。
携帯を取り出してみると、カズ――幼なじみの新島和人からのメールだった。そう言えば、カズはわたしと同じクラスだが、今日は教室でカズの姿を見なかった。どうりでクラスの中が静かだったはずだ。馬鹿は引かないはずの風邪でもひいて休んでいるのだろうか。まあ、カズは大豆アレルギーだから、この状況下では学校になんて来られないのかもしれないが。
メールにはただ一言「無事か?」と書いてある。どうして突然、カズはこんなメールを送って来たのだろう。
「カズまで。何なんだ?」
朝から今まで遭ってきた異常事態に、わたしはいらだち、思わずそう口にした。
森がものすごい勢いで振り向いた。目をむき、わたしに大声で聞いてくる。
「新島か!?」
教えてはいけない。
森の切迫した態度から、わたしはとっさにそう判断した。わたしの携帯を奪おうと手を伸ばして来る森から身をかわす。
「新島の居場所を教えろっ!」
なぜそんな態度でわたしに聞かなければならないんだ。生徒名簿でも見れば分かるだろう。いや、学校に来ていなかった事からすると、カズは何らかの理由(さっき考えたように大豆アレルギーが原因かもしれない)で行方不明にでもなっているのだろうか?
考えながら、わたしは廊下を逆方向に走った。足にあまり自信はないが、それでも、太った中年男よりは速い。森の足音が少しずつながらも遠ざかっていくのが聞こえる。だが、まだ油断はできない。走った末、わたしは階段に着いた。段飛ばしに降りようと身構えると、突然、校内放送が流れた。
[二年A組の近藤月子は、非国民・新島和人と連絡を取っていた疑いがあります。生徒は全員、近藤月子の身柄拘束に協力してください。彼女は現在、南校舎二階の廊下を西階段方面に向かって逃走中です。繰り返します。生徒は全員、近藤月子の身柄拘束に協力してください]
非国民? 今時どこからそんな言葉が出てきたんだ? その上どうやらわたしは、全校生徒を敵に回してしまったらしい。一階と二階をつなぐ階段の踊り場で急カーブをかけると、階段の上からも下からも、生徒たちがぱらぱらと集まって来ていた。
これを突っ切るのは不可能だ。わたしは一瞬だけ考えてから、踊り場の窓を開いて下を見た。高さは家のベランダくらいで、下にはクッションになってくれそうな植え込みがある。これなら飛び降りても死にはしないだろう。わたしはそれを確認し、窓から外へ飛び出した。
わたしの体は狙いどおり植え込みに落ちた。ほぼ無傷。日頃の行ないが良いらしい。
植え込みから身を起こし、わたしは学校の裏口を飛び出した。さすがにここまでは、まだ生徒たちが周って来ていない。だがこのままでは、捕まるのは時間の問題だ。いくら何でも、全校生徒を相手にした鬼ごっこで勝つ自信はない。
すると、南町方面から走って来たバイクが、わたしの目の前で急ブレーキをかけた。
「ツキ!」
バイクを運転して来たのは、カズだった。カズからは納豆の臭いはしなかった。それだけでも、安心と解放感を覚える。カズはわたしにヘルメットを渡して言った。
「これかぶったら、おれの後ろに乗れ」
それは、普段カズが見せている三枚目ぶりからは想像しにくい、手際の良さだった。
わたしを逃がしてくれるのか?
あまりのタイミングの良さを不思議に思いながらも、わたしは言われるままヘルメットをかぶり、少し迷ってから、カズの背中に抱きつく形でバイクの後部座席に座った。
……こんなの初めてだから、ちょっと照れるな。いや、そんな呑気な状況じゃないけど。
わたしを乗せ、カズのバイクは南町方面へと走り出した。
「カズ」
聞きたい事は山ほどあった。その中のどれから聞こうかと迷いながらわたしが呼びかけると、カズはそれを遮って言った。
「話は後で聞く」
「――うん」
革ジャン越しにカズの体温が伝わってくる。冷たい空気を切り裂いている中で、そのぬくもりは、たった一つの安らぎの場所に思えた。そしてカズの背中は、いつの間にか、わたしの記憶にあるよりもずっと大きくなっていた。
■逃亡■
カズのバイクは大きな一軒家の裏手に回り込み、その家の地下ガレージで止まった。カズの家ではない。わたしにとっては初めて来る場所だ。
先にバイクを降りたカズは、戸惑っているわたしを尻目に、ガレージの奥のドアへと歩いて行ってしまった。ガレージの入口には日が明るく差し込んでいるせいか、ガレージの奥は真っ暗に見えて不安を誘う。わたしがカズを追い、ためらいながらもドアの前に来るのを待って、カズは横の数字キーを押し、ドアを開いた。コンクリート敷の短い廊下が伸びている。廊下の先には再びドアがあり、カズがドアに向かってカードをかざすと、ロックの外れる音がした。
ドアが開くとそこは、年代物らしい洋風家具の並ぶ、落ち着いた調度の施された広い部屋だった。部屋の真ん中には大きなテーブルがあり、その周りを、年齢も性別もバラバラな人たちが囲んでいた。ありがたい事に、納豆の臭いはまったくしない。
その中から、リーダー格らしい、がっしりとした体格の壮年男性がカズに声をかけてきた。
「平気だったかい?」
「はい。月子を学校から連れて来ました。見た感じ、もう学校には戻れなさそうです」
「そうか……。分かった。ありがとう」
そう言ってから、彼はわたしに頭を下げて言った。
「今まで、ありがとうございました」
この人の顔に見憶えはない。ましてや感謝される理由など、まったく思い当たらない。
わたしはいちおう会釈を返してから、カズの袖を引っ張り、ささやき声で聞いた。
「ここ、どこ? どうしてこんなとこに来たの?」
カズはきょとんとした顔を浮かべた。そしてしばらくわたしの顔を見つめてから言う。
「ここは酒井さんの家で、俺たちはレジスタンスをしてるんじゃないか」
そんな名前の知り合いはいない! その上、レジスタンス!? 二十一世紀の日本に、なんでそんなものがあるんだ? それに、どうしてわたしは、そのレジスタンスに連れて来られて……。
朝から起きている異常事態の連続で、わたしはパニックになりかけていた。それを必死で抑えながら、今までの出来事をつなげてみる。するとわたしの頭の中で、一本の線が結ばれた。現状でレジスタンスの相手となる存在。今朝からわたしを悩ませ続けてきた存在。
「納豆、か」
カズは当たり前のような顔をして頷いた。それから心配そうに聞いてくる。
「ツキ、本当に大丈夫か?」
「大丈夫じゃないと思う」
わたしは正直に言った。
「今のわたしには、自分がどんな状況に置かれているのか、まったく分からない。
とりあえず、わたしが記憶喪失になっているとでも思って、現状を説明してくれる?」
わたしの注文に、カズは困惑した表情を示した。
「だって、おれの事は分かるんだろ?」
「分かるよ。でも、分かるのはカズだけ。さっきカズの言っていた『酒井さん』も、どの人なのか分からない」
わたしがそう言うと、カズはさっきの壮年男性と低い声で言葉を交わした。切れ切れに「記憶操作」「洗脳」「逆スパイ」といった単語が聞こえてくる。不躾な態度には違いないが、レジスタンスなんかやっている以上、過敏に警戒してしまうのも仕方ないのかもしれない。そう考え、わたしは努めて気にしないようにした。
やがて話を終えたカズは、わたしに向き直って言った。
「分かった。ツキは記憶喪失なんだな? それで、どのくらい前から記憶がないんだ?」
「昨日より前……かな。正確に言うと、昨日より前の記憶もあるにはあるんだけど、それは今わたしが置かれている状況とまるで違う。だから今のわたしは、『昨日より前の事を憶えていない』と言っていいと思う。昨日まで、わたしの周りは、こんな納豆漬けじゃなかった。納豆を食べないだけで犯罪者扱いされたりはしなかった」
口に出すと改めて、現状の異様さが浮き彫りになる。テーブルの周りの人たちがざわめいた。
その様子に目をやってから、カズはわたしに視線を戻して言った。
「どういう事だ? ツキは、昨日よりもずっと前から、おれたちと一緒に、納豆神教と戦ってきたはずだぞ」
「何それ? 知らないよ、そんなの。少なくとも今のわたしには、そんな記憶はない」
昨日までここに、別の「わたし」がいたのか? 気になる話ではあるが、今はそれよりも大きな問題がある。
「納豆神教ってのが、この納豆地獄の原因なわけ?」
わたしが言うと、カズはうなずいた。
「ああ。去年、納豆神教の教主がクーデターを起こして、納豆食義務令――すべての人間が納豆を食べなければならない法律を作った。それを専門に取り締まる納豆警察まで用意して」
「納豆警察?」
あの警官の事だろうか。今朝校門で見た制服のデザインを説明すると、カズはうなずいた。
「そう、そいつら。納豆を食べない人間を専門に取り締まってる、秘密警察だ。隊員は納豆神教の中でもエリートで覚醒が進んでいるから、神の力――超能力が使える」
ちょっと待て。何だ、その反則技は。
カルトらしいと言えばらしいけど、実用段階に達している例は、たぶんこれが初めてだろう。
「どんな超能力があるの?」
敵を知るため、と言うよりは半ば好奇心で、わたしは聞いた。
「おれが知っているのだと、納豆の糸で相手を縛りつける納豆粘糸、能力者同士で意識をやりとりできる納豆伝心、納豆を食べていない人間が一発で分かる納豆嗅覚、くらいかな」
つまり朝の納豆警察隊員は、納豆嗅覚とやらを使って生徒を検査していたのか。
「そんなのを敵に回してるんだ」
「ああ。納豆食義務令なんて作られたら、おれたち大豆アレルギーの人間は生きていかれないからな。納豆は大豆製品の中でも安全な方だけど、それでも重いアレルギーを持っている人間だと発作が出る。だからおれたち『大豆アレルギー友の会』は、レジスタンスになったんだ」
納豆食義務令、ねえ。どうしてそんな馬鹿みたいな法律が通ったんだか。考えつくだけならともかく、それが現実化するなんて、どうかしているとしか思えない。単なるカルトの暴走というだけでは説明のつかない事態だ。
まあ、これでとりあえずの背景は分かった。となると分からないのは、
「それで、どうしてわたしはレジスタンスに来てるんだ? わたしは大豆アレルギーじゃないし、そもそも『大豆アレルギー友の会』なんて、存在自体、今聞いたのが初めてだよ」
わたしがそう言うと、カズは言いにくそうに口を開いた。
「昨日まで、ツキには、……スパイをやってもらっていたんだ」
今ここにいるわたしではない、もう一人の「わたし」か。
「ツキはアレルギーじゃないけど、納豆は嫌いだっただろ? だからもしかして、と思って接触してみたら、やっぱり納豆神教には洗脳されていなかった。だからツキには、納豆なら発作を起こさない軽いアレルギーの人たちと同じように、表向き納豆を食べてもらいながら、外の様子を調べてもらってたんだ」
「それで、今日は一度も連絡がなかったから、あんなメールをよこして、学校に迎えにまで来てくれたわけ。
危ないと思わなかったのか? もし携帯がわたしの手元に無くて、納豆警察にでも没収されていたら、カズの事を向こうに教えるきっかけになっていただろ」
わたしがそう言うと、カズは少し黙ってから小声で答えた。
「そうだな。でもおれ、ツキに何かあったのか、心配でさ……」
「その気持ちには感謝しておくよ。ありがと」
何とも情けないカズの表情を見て気がとがめたわたしは、付け足すように言った。カズが助けに来てくれて嬉しかったのも、それに感謝しているのも、事実ではあったし。
わたしが短くそう言うと、カズの表情がほころんだ。わたしもどこか、ほっとする。
カズは「じゃあ」と言ってわたしから離れ、そばにいたレジスタンスのメンバーと話を始めた。それと入れ替わりに、
「近藤さん」
わたしと同い年くらいの女の子が声をかけてきた。長い髪と言いカチューシャの似合う可愛らしい服装と言い、わたしとは正反対の、いかにも女の子らしい、そしてそれが嫌味になっていない女の子。
彼女は言った。
「わたしの事も憶えてない――よね?」
「はい。憶えていません」
もちろん本当は、憶えていないのではなく、最初から知らない。
「わたしは酒井真奈。さっき和人くんと話をしていたのは、うちのお父さんね」
つまり、ここの所有者である酒井氏の娘というわけか。いかにも、良い家で育ったらしい気品を感じる。
「あ、呼び方は真奈でいいよ。昨日までそうだったから。あと、敬語もナシ」
「分かった。それで、何の用?」
「『今の』近藤さんは、昨日までの近藤さんじゃないんだよね?」
「うん」
わたしがうなずくと、真奈は口ごもりながら言った。
「あの、近藤さん、今すごく大変そうだし、だからこんな時に聞いちゃいけないかもしれないけど『今の』近藤さんは、和人くんと……、付き合ったりしてたの?」
唐突な質問に面食らって真奈の顔を見返すと、その色白の顔は、ほんのりと赤くなっていた。
なんだ、そういう事か。それなら、正直に答えよう。
「『今の』わたしは、カズに恋愛感情なんか持ってないよ。あれはただの幼なじみ。安心した?」
わたしがそう言ってやると、真奈は顔を真っ赤にしてうなずいた。
そうかそうか。あの木偶の坊にも、ついに春が来たか。精神的な姉代わりを務めてきた身としては、誠に喜ばしい。ここは一つ、大いに祝福してやろう。
わたしはにまりと笑って、視線を真奈から外し、カズを探した。カズは真奈の気持ちを知ってか知らずか(たぶん後者だろう)笑いながらレジスタンスのメンバーと話をしている。
見ていても特に面白くないので、わたしはテーブルの上へと視線を落とした。そこには光戸市の地図が大きく広げてあった。レジスタンス活動用なのだろう。ところどころマークがつけてあったり、色ペンで塗り分けられたりしている。
「みつと」? 最初は見間違いかと思ったが、そうではなかった。地図の中では、「水戸」と表記されるべきはずの場所がすべて、「光戸」と印刷されている。
それを見て、一つの単語が閃いた。
ここは「平行世界」だ!
ようやく朝からの異常事態の正体が見えてきた。
今わたしがいるのは、「水戸」の代わりに「光戸」があり、納豆神教やら大豆アレルギーのレジスタンスやらがいる、もう一つの世界。そしてわたしは、どういうわけか、昨日の夜の内に「水戸」から「光戸」へ来てしまったらしい。
そうと分かれば一刻も早く元の世界に戻りたいところだが、どうやってここに来たのかが分からない以上、帰り方も分かるはずがない。それが分かるまではとりあえず、このレジスタンスに厄介になっておこう。
そう考えて地図から目を上げ、もう一度カズを見た。
あれも、わたしの知っているカズではなく、この世界のカズなのか。
そう思うと、なんだかちょっとさみしい気もする。
[大変です!]
地下室に放送が鳴り響いた。切羽詰まった勢いの声だった。
[警察署方面から、納豆警察と思われるパトカーがこちらに向かって来ています! 発見されたのかもしれません!]
地下室がざわめいた。
「見られたか」
カズのつぶやき声が聞こえた。こうなる事を半ば覚悟していたような、肝の据わった声だった。
タイミングからして、その可能性は高いだろう。わたし(たち)がバイクで逃げ去ったという情報が、学校から納豆警察とやらに通報されたとしたら、連中がバイクを追って来たと考えるのも不自然ではない。あるいは「非国民」呼ばわりからして、カズ本人が元々マーク対象になっていたとか。
「和人君」
酒井氏がカズに声をかけた。柔らかな、しかしはっきりとした声で言う。
「レジスタンスは下水道を使って他所へ移動する。その間、済まないが囮になって、時間を稼いでくれないか?」
「お父さん!?」
真奈が甲高い声をあげる。それに対して、カズは言った。
「いや、いいんだ。おじさんの言うとおりにする。おれのミスは、おれが自分で取り返したい」
今にも泣き出しそうに目を潤ませている真奈に向かって、カズは力強くうなずいて見せた。
酒井氏は、ここを知らせた落とし前はカズ本人につけさせるつもりらしい。わたしも氏の意見に賛成だ。ただし、一ヵ所だけ違う部分がある。
「わたしも一緒に囮になります」
わたしは酒井氏とカズの間に割って入り、言った。
二人ともわたしの言葉は予想外だったらしく(当然か)言葉を失ってわたしを見ている。わたしは反論が来るより先に言葉を続けた。
「わたしにはもう、スパイ活動はできません。それに、わたしは向こうに顔を知られています。皆さんが逃げる最中に足を引っ張ってしまうかもしれません。だから囮になります。それに、囮の人数が多い方が、相手を攪乱させやすいでしょう?」
本当は、もう一つ理由がある。今回のカズの失態は、カズがわたしを助けに来てくれた結果だから。その責任の、半分の半分の……もう半分くらいは、わたしが負おう。
「こんなところで揉めているのは時間の無駄です。早く逃げてください」
わたしが言い切ると、酒井氏は少し黙ってから「ありがとうございます」と言って一礼し、地下室の奥側にレジスタンスの人たちを集めた。何をどう操作したのかは良く見えなかったが、奥の壁から隠し扉が現れ、開いた。室内の人たちが中へと流れ込む。酒井氏は、納豆警察と直接に渡り合うつもりなのか、上への階段を上って行った。
そして地下室には、わたしとカズ、そして真奈の三人が残った。
「和人くん」
真奈は涙声で呼びかけてから、カズの目を見つめ、言った。
「わたし、今までずっと、和人くんの事、好きでした」
「えっ!?」
やっぱり気づいていなかったか。鈍感男。
「また会える、って信じてるけど、その前に、どうしても言っておきたくて」
思いを押し殺そうとしているのか、不自然に硬い表情で言う真奈。本当は「信じてる」んじゃなくて「信じたい」んだろう。その悲壮な気持ちは、わたしにも痛いほど強く伝わってきた。
隠し扉へと向かう真奈に、カズは言った。
「約束する。絶対に帰って来る」
「――うん」
真奈はもう一度カズを見てうなずき、隠し扉に姿を消した。その姿が完全に見えなくなるまで、カズは真奈を見送っていた。
「さて、どうしようか」
気分を切り換えるように、冷静な口調でわたしは言った。地下ガレージへ向かって、さっき通ってきた通路を足早に引き返す。わたしの言葉にカズは即答した。
「バイクで逃げ出して見せれば良いんじゃないか? そうすれば、向こうはおれたちを追って来るだろ」
「安直すぎ。
いい? わたしたちの役割は、納豆警察の注意をここからそらす事。わたしたちがここから出て来るのを見られたら、確かに一部は、わたしたちを追って来るかもしれない。でも、主戦力を含めた大部分は、わたしたちが出て来た場所――酒井家に集中する。そうなったら、地下室や隠し扉が発見されるのも時間の問題だ」
わたしの言葉に、カズはしどろもどろになりながら反論してきた。
「それは、そうかもしれないけど、でもそれじゃ、他にどんな方法があるんだよ?」
「今それを考えている。おまえも少しは自分で考えろ」
とは言ったものの、じっくりと考えている余裕はない。機動力を考えてカズのバイクを使うところまでは決定事項としても、それだけでは敵全体を引きつけられない……。
待てよ? そうか。必ずしも敵をこっちに引きつける必要はないんだ。目的はあくまでも、敵の注意を逸らす事。ならば、その注意の向きを誤導さえさせられればいい。
「カズ」
ガレージへのドアを開いたカズに、わたしは声をかけた。
「納豆警察が来るのは、どっちからだと思う?」
わたしの言葉にカズは答えた。
「北町の警察署からじゃないかな」
極限状況下で鍛えられているのか、その反応は、わたしの知っている――「水戸」のカズよりも素早くて冷静だった。一方でわたしは、この町の地理が「水戸」と同じだと分かって、手応えを得ていた。
「ガレージの出入口は南向きだったな」
「そうだったっけ?」
「そうだよ。この時間に、まっすぐ日が差し込んでいたんだから」
「でも、それがどうかしたか?」
「南向きって事は、納豆警察が来る方向とは逆って事だ。つまり敵にとっては死角。目視で向こうがわたしたちを確認できるまでには、まだしばらく時間がある。
だからわたしたちは、その時間を使って、ここから離れられる」
バイクの前に来た。わたしはカズに、乗るよう促した。そしてわたし自身もその後ろに乗り、計画の説明を続けた。
「今はとりあえず、バイクで南に逃げよう。で、適当なところまで逃げたら、そばにある家に逃げ込む」
バイクが走り出す。
「家そのものは、何の関係もない民家で構わない。ただし、近くに公衆電話があるのが絶対条件だ。そうやって逃げ込んでから、納豆警察にわたしたちを見つけさせる」
「どうやって?」
「一一〇番でタレコミをすればいい。田角高校の制服の女を乗せたバイクが誰々さんの家に逃げ込みました、ってな。公衆電話からなら身元が割られる危険性は多少は低い。後は納豆警察が来るのを待って、カズがバイクでその家から逃げ出して見せる。そうすれば、逃げ込んだ先の家を、わたしたちが身を潜めていたレジスタンスのアジトに見せかけられる。悪いけど、その家にはスケープゴートになってもらう。わたしが残って引き止めれば、向こうはこっちに全力を注いでくれるだろう」
「なんでそんな事するんだよ!?」
わたしの言葉をおとなしく聞いていたカズが、いきなり大声を上げた。
「ツキもおれと一緒に逃げればいいだろ?」
「逃げ切っちゃいけないんだよ。何の手がかりもない状況から捜査させるよりも、偽の手がかりに引きつけておいた方が安全だ。それに、逃げるのはカズ一人だけでいい。敵の本隊はあくまでも、逃げ込んだ先の家に集中させなくちゃいけない。そのためには、そこに残って足止めをする人間が必要になる」
「だったら、おれが残る。それでツキがバイクで逃げれば」
「わたしはバイクを運転できない」
「なら二人で残って」
「敵の戦力を殺ぐには逃げる役もいてくれた方がいい。一部はそっちを追うだろうからな」
するとカズは、不機嫌そうな声で、ぼそりと言った。
「できるわけないだろ、ツキを置き去りにするなんて」
……うまい反論が出てこなかった。無言になった二人を乗せ、バイクは走り続ける。
「このへんでどうだ?」
カズがバイクの速度を落とした。角のコンビニの前に公衆電話が置いてある。周りの家はどれも民家だ。
「うん、OK」
わたしは表札を見回して、スケープゴートになってもらう家を決めた。
あそこの、壁をレンガにした大きな家なんて良いんじゃないだろうか。あれなら目立つし、裏に何かあってもおかしくない広さがある。名前は……八木か。生け贄の山羊にはうってつけだ。
カズが公衆電話の前でバイクを止める。わたしはバイクを降り、赤いボタンを押して一一〇番を呼び出した。昔から密かに、このボタンを押すのに憧れてはいたけど、まさかこんな形で実現するとはね。
「田角南町で様子のおかしい女を見かけた。田角高校の制服の女を後ろに乗せたバイクが八木家に逃げ込んだ」と簡潔な内容だけ言って電話を切る。この情報が納豆警察に飛べば、南町に来ていた連中は、八木家に殺到するだろう。
わたしがそのまま八木家に向かおうとすると、カズがわたしの腕をつかんできた。そしてわたしが振り向く前に、強い調子で言う。
「一緒に逃げてくれ。ツキを置いて逃げるなんて、やっぱり、おれにはできない」
カズの手に力がこもった。
「痛いよ。離せ」
振りほどこうとしたが、さすがに男の力にはかなわない。わたしはため息をついて言った。
「――分かった。一緒に行けばいいんだろ?」
「来てくれるのか!?」
目を輝かせたカズに、わたしは渋々うなずいた。ここで言い合いをしていても、画期的な打開策が出るとは思えない。納豆警察に時間を与えるだけだ。
わたしがここに残らなければ、八木家がレジスタンスの拠点だとごまかせる時間はあまり稼げなくなってしまう。だが見方を変えれば、何の罪もない――納豆神教の支配下で平和に暮らしている点を除けば、だが――八木家の人間にかかる塗れ衣が短時間で晴らされる事にもなる。それはそれで、選ぶ価値のある選択肢かもしれない。
わたしがバイクの後部座席に戻り、バイクは再び南に向かって走り出した。逃げ切れる可能性は低いだろうが、まったくないと決まったわけでもない。今は、その可能性を信じよう。
バイクが急カーブに差しかかった。カズはバイクを傾けたが、次の瞬間、曲がり切れずに横転した。
地面に投げ出されたわたしは、急いで膝をつき、軽くめまいのする頭を押さえながら立ち上がった。そして慄然とした。カズの右足が、バイクの下敷になっている。
「カズ!」
わたしが近寄ろうとすると、カズが言った。
「逃げろ! バイクをどけるのは無理だし、おれは足を怪我した。だから、ツキだけでも逃げてくれ」
カズの表情は、初めて見せる、覚悟を決めた男の顔だった。
説得はほぼ不可能。怪我の治療もできないわたしがここに残るメリットはない。そして何より、カズの気持ちを無駄にしたくない。
「真奈との約束、絶対に守れよ」
それだけ言い残し、何もしてやれない自分へのくやしさともどかしさに胸を締め付けられながら、わたしはカズの元を走り去った。視界が涙でぼやけるのも構わず、生垣に飛び込み、ブロック塀を越え、民家の庭を突っ切り、必死でカズから離れた。
夜の闇が町を覆いつくした。大異変の起きた今日という日は、もうしばらくで終わろうとしている。そしてわたしは、行く当てもなく、町の中をさまよい歩いていた。
寒い。
白い息を吐き、わたしは体を震わせた。手袋もマフラーも、全部学校に置いてきてしまっている。寒さを防ごうにも、首をすくめて襟に埋め、両手をスカートのポケットに突っ込むくらいしかできない。
足を踏み出すごとに、上履きの薄い靴底から、アスファルトの硬さと冷たさが足の裏へと響いてくる。走り続けていたせいで、足は、膝を曲げるのも痛いくらいに疲労がたまっている。それを無理やり、引きずるように動かして、わたしは歩いていた。
本能は、もう一歩も歩きたくないと悲鳴を上げている。それを抑えているのは、今の状態で足を止めたらもうそこから動けなくなる、という不安だった。じっと隠れているのと、ひたすら逃げ続けるのと、どちらがより安全なのかは分からない。ただ、今のわたしには、安全に隠れていられる場所が思いつかなかった。だからこうして歩き続け、逃げ続けている。
家が恋しくなる。早く家に帰ってベッドで寝たい。だが、学校での様子やカズの話からして、家は納豆警察にマークされている可能性が高い。うかつに戻るのは危険だ。かと言って、レジスタンスに合流しようにも、レジスタンスのメンバーの連絡先が入っているはずの携帯は電池切れになってしまっている。
腹の虫が情けない声で鳴いた。寒さと疲れに加え、空腹までもがわたしを襲ってくる。考えてみれば、今日は朝食を軽く口にして以来、何も食べていない。そんな状態で一日中ずっと動き回っていたのだから、当然と言えば当然だろう。
肉体的精神的疲労から来る、我ながら危なっかしい足取りで歩いていたわたしの視界の端に、コンビニが映った。
あそこに行けば、食事も防寒具も手に入る。
吸い寄せられるようにして店に向かったわたしは、自分の現状に気づき、再び暗澹たる思いにとらわれた。
わたしは今、財布を持っていない。手袋やマフラーと一緒に、学校に置き去りになっている。
そう気づいても、コンビニに向かう足は止まらなかった。あそこなら暖房が入っている。今はそれだけでも充分だ。
自動ドアが開くと、暖かい空気がわたしの全身を包み込んでくれる。おでんの匂いに食欲を刺激されるのは辛かったが、それは納豆の臭いで中和された。思わず臭いの元をにらみつけると、店内でも大きなスペースをとって、納豆コーナーが配置されている。種類や味は「水戸」に比べて圧倒的に豊富なようだ。もちろん、わたしにとっては何の意味もないが。
納豆コーナーの棚の陰から、コンビニの制服を着たポニーテールの店員が出て来た。彼女は「いらっしゃいませ」と言いながらわたしの方を向き……その笑顔を引きつらせた。細くなっていた目が、大きく見開かれる。
「ツキ!?」
かすかな声がわたしの耳に届く。その店員は、優実だった。二人とも棒立ちになったまま、お互いを見つめあう。ややあって、優実が先に動いた。わたしのいる入口までやって来ると、近くの棚の商品を並べ直すふりをしながら、「十時まで待ってて」とささやいた。
少し迷ってから、わたしは、優実を信じる事にした。
朝や昼休みに見せた態度が気にならないと言っては嘘になるが、この世界でも優実は優実のはず。誰にでも親しく接し、必要と思えば律儀に馬鹿をやってくれる、わたしの知っている長沢優実のはずだ。
時計に目をやると、まだ七時を過ぎたばかりだった。わたしは疲れた足に鞭打って、大判の雑誌で顔を隠すようにしながら立ち読みを始めた。
「お待たせ」
学校の制服に着替えた優実が、通学鞄とコンビニ袋を手に声をかけてきた。
もう十時になったのか。
そう思って時計を見ると、まだ九時にもなっていなかった。不思議に思って優実に目を戻すと、向こうもわたしの疑問に気がついたらしく、
「ちょっとムリ言って、早めに上がらせてもらったから」
「そう」
まあ、早くなる分には特に文句を言う必要もない。
ファッション誌やらパソコン誌やら、まったく興味のない雑誌の文字列を眺めていたわたしは、その疲れを吐き出すように息をつき、雑誌を棚に戻した。二人そろって店を出る。
「とりあえず、あたしのウチ、来る?」
優実の言葉に、わたしは黙ってうなずいた。もう、言葉を発する体力も気力もなかった。優実の後につき、最後の力を振り絞って歩く。
優実の家は「水戸」と同じく、一人暮らし用の小さなアパートだった。優実が鍵を開けてドアを開くと同時に、わたしはフローリングの室内に倒れ込み、上履きを脱ぎ捨てた。
足にじんわりと解放感が広まってゆく。
「はい、これ、夕ごはん。売れ残りだけど、食べても平気だよ」
わたしの目の前に、がさりと音を立ててコンビニ袋が着地した。袋の中身はこれだったのか。
わたしはゆっくりと身を起こし、袋を開いた。中には幕ノ内弁当とペットボトルの緑茶、そして納豆のカップが入っていた。
「納豆も、食べてくれるよね?」
優実が恐る恐るといった口調で声をかけてきた。
「うん」
わたしは頷いた。
気は進まないが、ここはおとなしく食べておいた方が良いだろう。拒絶しても何のメリットもないし、逆に余計なトラブルが起きそうな気さえする。
わたしは納豆のカップを開き、タレとカラシを入れて混ぜてから(粘りを出すのは嫌だが、タレとカラシを混ぜておかないと、納豆の味をごまかせない)それを幕ノ内弁当のご飯の上にかけた。納豆ご飯を緑茶と共にノドの奥へと流し込み、合間には別のおかずを食べて口の中に残った納豆の味を中和する。そうしてわたしは、なんとか納豆を食べ終えた。空腹は最上の調味料と言うが、幕ノ内弁当を味わっている余裕はなかった。
からになった弁当と納豆のパックをコンビニ袋に戻していると、優実がぽつりと言った。
「良かった。ツキが非国民じゃなくて」
それから堰を切ったように、優実はぼろぼろと涙を落とした。
「ツキが非国民だったらどうしようって、昼休みの時からずっと怖くて、不安で。
ホントに、ホントに心配したんだからね!」
泣き崩れる優実の言葉と涙に、悪気はなかったと思う。それどころか、わたしを心配さえしてくれていた。しかしわたしは、そこに違和感を覚えていた。
それは、優実が「非国民」の存在を当然視しているからだった。その上で、わたしが「非国民」でなかった事を喜んでいるのだ。
これは納豆神教に洗脳された結果なのだろうか。
そうであってほしい、とわたしは強く思った。わたしの知っている長沢優実は、他人を非国民呼ばわりして異物扱いするような女じゃない。
「もしわたしが納豆を食べなかったら、どうするつもりだった?」
わたしが聞くと、優実はぎこちなく笑って答えた。
「ちょっと、言わないでよ、そんなコワい事」
だが優実は、わたしの目が真剣なのを見てとったらしく、今度は声のトーンを落として言った。
「外に、連絡するつもりだった」
「外?」
「今日ね」
優実はわたしから視線を外し、ドアの方を見つめながら言った。
「バイトに行ったら、店にツキの指名手配書が来てて、この女を見たらすぐに知らせろ、って言われて。だからツキが来た時、どうしようって思った。店長はすぐに警察に連絡しようとしたんだけど、ツキが逮捕されるなんて絶対にヤだったから、『ツキを説得する時間をください』って言って、ツキをウチに連れて来て」
そこで優実は言葉を切り、そのまま黙ってしまった。わたしは切られた言葉の続きを引き取る。
「納豆を食べるかどうかの踏み絵で、わたしを試したのか。
それで? 無事に納豆を食べたわたしには、何か賞品でもあるのか?」
わたしが皮肉を言うと、優実の見つめていたドアが開き、例の制服を着た納豆警察隊員が姿を現した。彼は穏やかな口調で言った。
「納豆神教に御招待、ではいかがですか?」
わたしは茫然とその姿を見つめ、それから優実に向き直って言った。
「優実っ! おまえ……!」
交渉決裂に備えて、あらかじめ納豆警察を呼んでいたのか。
警戒はしていたつもりだった。でも、こうして実際に裏切られたショックは、予想よりもはるかに大きかった。言葉がうまく出てこない。優実はうつむいて言った。
「ごめんね。ツキが説得を聞かなかったらその場で逮捕する、っていう条件で、時間をもらったから」
優実は顔を上げ、納豆警察隊員に向き直って言った。
「ツキは――近藤月子は納豆を食べました。だから非国民なんかじゃありません!」
「非国民」の概念こそ気に障るが、優実は必死に、わたしをかばおうとしてくれた。それは間違いなく、わたしの知っている長沢優実だった。そんな優実に対して納豆警察隊員は、あくまでも礼儀正しく、
「いえ、逮捕するのではありません。先ほど新しい指令が入りました。近藤月子様を神教本部寺院に御案内せよとの事です」
わたしも優実も、相手の言っている意味が分からず、きょとんとした。隊員はうやうやしく手を差し伸べてくる。
「わたしを連れて行って、何をする気ですか?」
「内容までは聞いておりません。ですが、教主様の元へ丁重にお迎えせよとの事です」
「そうですか。分かりました、行きます」
わたしは立ち上がった。
「行くの?」
優実の声には、不安そうな色が濃かった。
「このまま逃げ回っていても、何の解決にもならない。だったら、教主に会って刺し違えでもした方がマシだ」
わたしが本当に教主に会えるかどうかは分からない。この納豆警察隊員が、わたしを騙そうとしている可能性も充分に考えられる。しかし。
この人は嘘を言ってはいない。わたしはなぜか、そう確信していた。
そして今、勝負に出るための、願ってもいない大チャンスが来た。
■対決■
納豆警察隊員は、アパートの前に止めてあったベージュの車にわたしを案内した。わたしが乗り込んだのを確認して、自分は運転席に座る。
「自分は納豆警察大尉の青野と申します。このたび、近藤様をお迎えする任を仰せつかりました。よろしくお願いいたします」
「本部寺院って遠いんですか?」
「いいえ、光戸市内です。一時間もかかりませんよ」
わたしの質問に答えながら、青野大尉は車を発進させた。見た感じ、話には乗ってくれそうな相手だ。そう考えたわたしは、まず一番の気がかりを聞いた。
「今日、納豆警察に逮捕された人間は、いますか?」
本当はもっと直接「カズは無事ですか?」と聞きたかった。だが、もし納豆警察がカズを逮捕していなかったら、かえってカズを危険にさらす羽目になる。だから、わざとあいまいな聞き方をした。
「田角高校で男子生徒が一人逮捕されました。それ以外は聞いておりません。地下で反納豆組織が動いているらしいとは聞いていますが、こちらはまだ、実体を捉えられていません。これだけの間、我々の手から逃げ続けているのですから、今後も長期戦になるでしょうね。ただ……」
青野大尉は意味ありげな間を取ってから言った。
「近藤様を田角高校まで迎えに来たバイクについては、同校での目撃証言から、ある程度の情報を手に入れています。バイクの持ち主は、去年まで田角高校の生徒だった、新島和人」
カズの名前を聞いた瞬間、わたしは、心臓が飛び上がるほどの恐怖と不安を感じた。青野大尉は、わたしの動揺に気づいたのかどうか、丁寧な口調で話を続ける。
「彼は納豆食義務令の発布と同時に姿を消しています。そして今まで隠れ続けていられた以上、彼が反納豆組織に身を寄せている可能性は高いでしょう。
ですから、彼のバイクが姿を現したと聞いた時は、これで反納豆組織の居場所を掴めると納豆警察全体が色めき立ちました。ところが、現場に向かった捜査班からの報告によると、反納豆組織側から偽の情報を流され、レジスタンス捜査は失敗に終わったとの事です」
それじゃあカズは、逃げ切れたんだ。
良かった。
そう分かると、今までの不安が一気にほどけ、目が熱くなる。わたしは顔をなでるふりをしながら、涙をぬぐった。青野大尉がバックミラー越しにわたしの目を見てきた――ような気がする。
わたしは視線を逸らし、車窓から外を眺めた。民家の窓の光やネオンサインと言った、ごく平凡な夜の町の風景が見える。この裏側で、秘密警察がレジスタンスを追い回しているなんて、想像もつかないくらい、平穏そのものの町の風景。この中では、わたしや大豆アレルギーの方が異物であるような気さえした(実際そうなんだろうが)。
車窓の景色は街中から郊外へと移り変わってゆく。ほとんど真っ暗になった窓の片隅に、白くライトアップされた建物が輝いて見えた。もちろん「水戸」には、あんな建物はない。わたしは思わず言った。
「あれが」
「はい。納豆神教の本部寺院です」
納豆神教本部寺院の建物は、外見も内装も、寺院と言うよりは病院のような雰囲気だった。明るくて清潔感がある。納豆の悪臭こそ漂っているものの、もっと怪しげな場所を想像していたわたしにとっては、少し意外だった。
青野大尉はきびきびとした足取りで廊下を歩いて行った。わたしはそれを追いかける。エレベーターに乗って階を移動し、複雑に入り組んだ廊下を進み、わたしと青野大尉は廊下のはずれのドアの前に着いた。ロックこそついているが、特に何の装飾もない普通のドアだ。これも、あまりカルトらしい雰囲気ではない。
「ここに、教主がいるんですか?」
半信半疑でわたしは聞く。
「はい」
うなずいた青野大尉の顔からは、さっきまで見せていた穏やかさが消え失せていた。教主を前にして、緊張しているらしい。
「近藤月子様をお連れいたしました」
ドアの向こうから「はい」とくぐもった声が返って来る。それを確認してから青野大尉は、恐ろしく複雑な手順でドアのロックを解除した。
わたしは開いたドアから部屋に踏み込む。室内は思ったより広かったが、その中には制服姿の納豆警察隊員がずらりと並んでいた。直にわたしを見ようとはしないものの、わたしに向けられている感情は、はっきりと読み取れる。恐怖、畏怖、敵意、不安、……。なぜかは分からない。だがわたしは、自分に向けられた感情群の種類を、はっきりと認識していた。
「御苦労様でした」
部屋の奥の事務机から、白衣姿の初老の男性が青野大尉に声をかけてきた。どうやらこの人が教主らしい。青野大尉は背筋を伸ばし、直立不動の姿勢をとっている。
「もう、戻っていただいて構いませんよ」
教主がそう言うと、青野大尉は敬礼をしてから部屋を出て行った。見ていると、どうやらこの部屋は、出る時にもロックの解除が必要らしい。
青野大尉の出て行ったドアが閉まり切った瞬間、部屋中の隊員が一斉に、わたしに襲いかかってきた。いつの間に取り出したのか、手には警棒やらスタンガンやらを構えている。
このままだと殺される。
わたしは妙に冷静に、自分の置かれた状況を分析していた。
襲ってくる相手全員の動きが、なぜか、手に取るように分かる。
攻撃の第一波を躱しながら身をひねり、わたしはドアに向かって走った。そして舌打ちした。
唯一の逃げ道であるドアには、ロックがついている。
ドアノブに飛びついて押し引きしてもドアは動かない。完全に施錠されている。
あせりながらロックをいじってみるが、そんな事で開くはずもない。
背後から殺気が押し寄せる。
来るな!
もはや万策の尽きたわたしは、必死でそう念じた。
その瞬間、部屋の中の時間が止まった。
――そうではないと気がつくまでには、多少の時間が必要だった。
時間が止まったのではない。わたしに襲いかかってきた隊員たちが、そのままの体勢で動きを止めているのだ。見回すと、皆、顔には驚きの表情を浮かべている。伝わってくる感情も「驚き」だった。
「これでお分かりいただけましたか?」
教主の声が聞こえてきた。その声は、こうなる事を知っていたかのように、落ち着き払っていた。
「近藤月子様は、納豆神様の御使いなのです」
何を言い出すんだ?
そのあまりにも突飛な言葉で、緊張が一気にゆるむ。すると、わたしの感情をなぞってでもいるかのように、動きを止めていた隊員たちがその場にへたり込んだ。それからぞろぞろと立ち上がり、一列になってドアから出て行く。
ただ一人だけ部屋に残った教主に、わたしは思い切って話しかけた。
「今の言葉、どういう意味ですか?」
「文字通りの意味です。近藤様は納豆神様の御使い、より正確に申し上げるなら、納豆神様の御力を魂に宿しておられる方なのです」
教主はあっさりと答えた。だがその言葉の意味は、わたしには全く理解できず、従って何の説明にもならなかった。
そんなわたしの不満を分かった上で――今も教主の心が読めた――教主はおもむろに口を開く。
「事が込み入っておりますので、順を追って説明をいたしましょう。
まず、私は大倉灯郎と申します。納豆神様の御力による救いを世に広めるべく、こうして納豆神教を作り、教主となりました」
「どうして納豆なんですか?」
疑問だらけの現状を打破するには、思いつく限りの質問をぶつけるしかない。そう考えてわたしは教主に、朝からずっと疑問に思っていた事を聞いた。
「納豆を食べなければ、日本人は死に絶えてしまうからです」
また妙な答えが返って来た。その言葉の意味を考えるよりも早く、教主は言ってきた。
「医の道に、二つの姿があるのは御存知ですか?」
「知りません」
いいかげん教主の言葉の唐突さに慣れてきたわたしは、簡潔に答えた。
教主は説明し慣れているのか、広報用らしいパンフレットを開いて見せた。薄緑色の紙に黒い筆文字で「医」「醫」「?」と三つの漢字が印刷され、それぞれが矢印で結んである。それを指さしながら、教主は話し出した。
「『医』という字は、本来、二つの文字で表されていました。一つは『醫』、すなわちかめに入った薬を用いて物理的な治療を行なうもの。そしてもう一つは『?』、すなわまじないよって霊的な治療を行なうもの。
現代医療では、薬を始めとした物理的治療しか行なわれていませんが、それでは、霊的治療が必要な傷病には対応できません。そして、その霊的治療を行なえるのが、我々納豆神教なのです」
「納豆を使って病気を治せる、っていう事ですか?」
わたしがそう言うと、教主は大きくうなずいた。
「その通りです。ただ、我々の目的はその前段階、すなわち納豆食によって病気を防ぐ事にあります。
日本は今、コダリモノという名の怨霊による病に侵されています。それを防ぐには、コダリモノを下せる納豆神様の奇跡の賜物である納豆を食べて、納豆神様の加護を受けるしかないのです」
カルトだから当たり前なのかもしれないけど、さっきから何を非科学的な事言っているんだ? この人は。
「納豆なんて、大豆が納豆菌で発酵しただけの物じゃないですか。奇跡でも何でもないと思いますけど」
「科学の立場から見ればそうなります。しかし霊的立場から見れば、納豆には、納豆神様による霊的変質の賜物、すなわち納豆神様の奇跡によって作り出された物という要素もあるのです」
そうですか。じゃあそういう事にしておきましょう。
このあたりにこだわっていると話が進みそうにないので、わたしはそれ以上の反論を放り出した。教主の話は続く。
「私は以前、ごく平凡な町医者をしておりました。ですが、コダリモノの病の存在と治療法を知った時、私は納豆神様に帰依し、同時に活動を団体化――すなわち納豆神様を崇める納豆神教を作る道を選びました。見た目がどんなに馬鹿げていようとも、医者である以上、病気を見過ごすわけにはいきませんから」
「なら、素直にそう言えば良かったじゃないですか。クーデターとか秘密警察とか使わなくても」
「私も最初は、そう思っていました」
教主の声のトーンが落ちる。
「ですが、どこに行っても、霊的傷病やそれに対する?術の概念は迷信だと一蹴されてしまいました。
しかし、だからと言って、このまま放っておいたのでは、日本人全員をむざむざと見殺しにする事になります。私は何としても、それを防ぎたかった。
そうして悩んだ末の結論が、クーデターによる納豆食義務令の発布だったのです。法律という表の姿を使えば、人々の理性=スーパーエゴに働きかける事ができますから。そして、この法律を人々のエゴの領域に浸透させるのと並行して、各々が摂取した納豆菌の感染を通じ、魂=イドの領域に納豆神教の教義を広めました。精神の三段階すべてに対して働きかける事で、皆さんに、より確実に納豆を食べていただきたかったのです」
それで、普通の――納豆を食べていた人たちは、素直に納豆食義務令に従っていたのか。優実の姿が頭の隅をよぎる。
「ただしこれでは、納豆を食べていない人には影響を及ぼせません。すなわち、そうした人々を救う事ができません。そこで私は納豆警察を作り、納豆を食べていない人々を捜させました。そして強制的にでも納豆を食べてもらい、コダリモノに抵抗できるようにしました。
その結果が、今の体制というわけです」
教主は、自己弁護でも何でもなく、本気ですべての日本人を救おうと、これまでの道を歩んで来た。その事実はほんの少しだけ、教主に対する拒否感を和らげた。
でも、どうして、こんな事まで分かるんだ?
さっきからわたしの心には、相手の意識が直接、伝わってくる。その生々しさをまぎらわせるように、わたしは荒い口調で聞いた。
「それで、その事とわたしと、何の関係があるんですか?」
教主はわたしに、強い視線を向けてきた。
「近藤様に、コダリモノを下していただきたいのです。私たちのような信者格では、とても納豆神様の御力を使いこなす事などできません。納豆食を広めて予防に努めるのが精一杯です。
しかし近藤様は違います。近藤様は納豆神様の」
「『納豆神様の力を魂に宿している』んですよね。さっき聞きました」
意味はまったく分からないけど。
「そうです。ですから近藤様ならば、病因であるコダリモノを直接、下す事ができるのです」
「どうしてわたしに、そんな力があるって分かるんですか?」
「先ほど、納豆神様の御力をお使いになったばかりではありませんか」
言葉と共に、教主の意識が伝わってくる。
さっきわたしは、納豆警察隊員たちに殺されかけた。でも、納豆伝心で相手の意識に拒絶を返し、それを防いだ。
……納豆伝心!? それって、カズの言っていた納豆警察の超能力じゃないか。
酒井家の地下室で、カズは言っていた。「納豆警察の隊員は、納豆神教の中でもエリートで覚醒が進んでいるから、神の力――超能力が使える」と。その超能力の中の一つが、能力者同士で意識をやりとりできる納豆伝心だったはずだ。青野大尉や教主の意識が読めたのも、そのおかげだとすれば話は合う。
それに、そうだ、納豆を食べていない人間が分かる納豆嗅覚。わたしは今日の昼頃からずっと、納豆の臭いがする人としない人を明確に区別できていた。つまり、納豆嗅覚を使っていた。
わたしは「光戸」に来てからほんの数時間で、納豆神教の力に目覚めていたのか。でもどうして、「水戸」の住人であるわたしに、異世界「光戸」の神様の力が使えるんだ?
そう思いながら、納豆伝心でわたしの疑問を伝えようと、教主を見る。教主は答えた。
「近藤様は本来、こちらの世界の御方です」
わたしが、「光戸」の人間? じゃあ、今まで「水戸」で過ごしてきたわたしの人生は、一体どうなるんだ。
「納豆神様について調べているうち、私は、納豆神様の御力が一部、欠けている事に気づきました。その一部はある少女の魂に宿り、異世界に渡ってしまっていました。
その少女こそ、近藤月子様です。納豆神様の御力に触れた近藤様の魂は、その御力のあまりの大きさに耐え切れず、授かった御力を踏み台にして、この世界から別の世界へと逃げてしまわれたのです。
そうと知った私は、近藤様さえ来てくだされば、確実にコダリモノを倒せると考えました。そこで、御身の欠けた一部を求める納豆神様の御力を誘導し、近藤様の魂に『光戸』へと戻っていただいたのです。
ただ、近藤様の魂がこの世界に戻って来てくださった事は分かったのですが、どこにいるのかまでは分かりませんでした。ましてや、まさかレジスタンスに接触するなど、思ってもおりませんでした。おかげで、納豆警察の皆さんを説得するのが大変でした」
レジスタンスにいたような女が本当に救世主(わたしには似合わない言葉だ)なのか不審に思った隊員たちが教主の部屋に集まり、実戦で私の正体を知ろうとしたのが、さっきの急襲だったようだ。教主の補足説明が意識から伝わってくる。
「コダリモノを倒したら、わたしを『水戸』に帰らせてもらえますか?」
たとえ生まれたのが「光戸」だったとしても、わたしが実際に育ってきたのは「水戸」。だから、わたしはあくまでも「水戸」の人間であり、納豆の神様の使いなんかじゃなくて普通の女子高生だ。
「引き受けていただけるのですか!?」
教主の目が輝いた。わたしはなげやりな口調で答えた。
「それしかないんなら、そうしますよ。それで、この条件は飲んでもらえますか?」
教主は言葉に詰まった。その理由は納豆伝心でわたしに伝わってくる。
これでコダリモノを完全に倒せるかどうかは分からない。今回は無事に倒せたとしても、後になってコダリモノが復活する危険性はゼロではない。それを考えるなら、近藤様――つまりわたしには、ずっと「光戸」にとどまってほしい。しかし本人が帰りたがっている以上、その意思を無視したら、コダリモノ退治を引き受けてもらえなくなるかもしれない……。
そんな教主の迷いに、わたしは一つの解決策を提案した。
「こういうのはどうですか?
わたしは、とりあえず今、コダリモノを倒して『水戸』に戻る。
後になってコダリモノが復活したら、わたしをまた『光戸』に呼び出す。
これなら、お互いの問題が解決すると思いますけど」
教主の心に再び迷いが浮かぶ。しかし今度は、割合にすんなりと答えが出た。
「――分かりました。有事の際に来てくださるのであれば、『水戸』に帰っていただいて構いません」
教主の言葉からして、ただの信者集団に過ぎない納豆神教がわたしを「光戸」に呼び出せたのだから、納豆神の力を魂に宿しているわたしなら、自力で「水戸」に帰れるのかもしれない。それに、納豆神教とわたしでは、わたしの方が圧倒的に神に近く、立場は上なのだから、教主の言葉に左右されなければならない理由もない。
でも、帰り方はどうあれ、その前に呼び出しの元凶・日本人を絶滅させる怨霊コダリモノは倒しておかないと。
わたしはそう決意した。
それに、コダリモノを倒せば納豆食義務令もなくなって、カズたちがレジスタンスをしながら追われる事もなくなるだろう。……これが一番、大きい理由かな。
「それで、コダリモノはどこにいるんですか?」
早く「水戸」に帰りたいわたしがせかすと、教主は落ち着いた声で言った。
「コダリモノは、無限とも呼べる分身を散らす事で人に憑き、病を起こします。しかし、分身はあくまでも本体の一部ですから、分身を通じて、本体にダメージを与える事ができます。従って近藤様には、コダリモノに憑かれた患者に納豆神様の御力を注いでいただき、そこを窓口にコダリモノ本体を退治していただこうと考えております」
コダリモノに憑かれている人と言うと、さっき話に出た「霊的な病気」にかかっている人か。そう言えばコダリモノの病気って、どんな病気なんだろう?
教主が立ち上がってドアに向かって行ったので、わたしもついていく。教主は例のロックを解除してドアを開き、狭いエレベーターに乗った。
「今から地下室にお連れいたします。コダリモノの患者は、寺院の地下に保護しておりますので」
エレベーターが開く。そこは相変わらず、病院のように清潔で明るい廊下だった。壁にずらりと並んだドアも、病室を思わせる。
教主はその中の一つのドアの前で足を止めた。そのドアには「新島和人」というプレートがかかっていた。
「カズ!?」
そんな、そんなはずはない。カズは逃げ切れたはずだ。青野大尉はそう言っていた。もし青野大尉が嘘をついていたとしても、それなら納豆伝心で見破れたはず。なのに、どうして。
同姓同名の別人であってほしい、という藁にもすがるようなわたしの思いは、しかし、教主がドアを開いた瞬間に打ち砕かれた。
ベッドに横たわっていたのは、まぎれもなくカズだった。その体は、わたしと別れた時と同じ姿勢で固まっている。その様子は、まるで人形のようだった。
教主が言った。
「本日午後二時、路上でバイクに片足を挟まれ倒れているところをレジスタンス捜査班が発見し、こちらに連れて参りました。発見した時点で、すでにコダリモノの症状――全身硬直を示していたとの事です」
青野大尉は嘘を言ってはいなかった。ただ、わたしが早合点をしていただけだ。
青野大尉は「田角高校で男子生徒が一人逮捕された。それ以外は聞いていない」と言っていた。そう、彼は「逮捕された者は一人しかいない」と言っていたのだ。コダリモノで倒れたカズは、逮捕はされず、代わりにコダリモノ患者として寺院地下室に保護された。だから青野大尉の話には出てこなかったんだ。たぶん、捜査班から青野大尉に話が伝わる途中で、カズの事が抜け落ちてしまったのだろう。
そこまでは、わたしは冷静でいられた。ところが教主の次の言葉で、わたしの理性は感情に飲み込まれた。
「バイクで事故を起こしたのも、コダリモノによる全身硬直の発作が起きたためではないかと思われます」
「コダリモノのせい!? だってあの時、カズはわたしと一緒にいたんですよ!? どうして納豆神の力が効かなかったんですか!?」
わたしは自分に対して、強い怒りを感じた。
わたしは何のために納豆神の力を持っているんだ。必要な時に働かない力なんて、何の意味もない。
「コダリモノはかなり根深く、彼に憑いておりました。彼は田角高校に近藤様を迎えに行ったそうですね。それ以降、近藤様と行動を共にいたとしても、発症を遅らせる事はできたかもしれませんが、祓うまでには至らなかったものと考えられます」
「それじゃあ、わたしにコダリモノを倒す事はできないんですか?」
冗談じゃない。わたしは悔しさと無力感で押し潰されそうになった。すると教主が、力強く言ってきた。
「いいえ、できます。納豆神様の御力を意識的に注ぎ込めば、コダリモノは確実にダメージを受けます。それを重ねてゆけば、最終的にはコダリモノを倒せます」
昼にカズを助けられなかった事もあって、正直なところ、自分が持っているという納豆神の力については、まだ半信半疑だった。でも、本当にそれでカズを助けられると言うのなら、試してみるしかない。カズを助けたい。だからわたしは、教主の言葉に従う事にした。
「力を注ぎ込むって、どうやれば良いんですか?」
「対象に触れ、御力が流れるように念じてください。そうなるように念じれば、近藤様の魂に宿った納豆神様の御力は、自然と念じた通りに働きます」
わたしはカズの手を握った。その手はまるで氷のように冷たく、一度は驚いて手を引っ込めてしまった。そろそろと手を握り直し、言われた通りに、自分の中にある力が手を伝ってカズに注ぎ込まれるようイメージする。もっと具体的には、わたしの体温がカズに伝わるように。
手に全神経を集中していると、握っていたカズの手が小さく震えた。
やったか?
カズの体が、硬直状態から少しずつ弛緩してゆくのが分かる。わたしはより一層、強く念じた。
カズの唇が動き、かすれた声が絞り出された。
「ま……な……」
酒井真奈か。
わたしは握った手に力を込め、強く言った。
「そうだ。真奈だ。おまえは真奈との約束を守れ。絶対に帰って来るんだろ?」
わたしはただの幼なじみ。一方で真奈は、大豆アレルギーという同じ苦しみを共有してきた仲間であり、告白をしてくれた恋愛対象でもある。
どちらがカズにとってより大切な相手かは、考えてみるまでもない。
カズの持つ真奈への思いを突破口にして、わたしは更に力を注ぎ込んだ。頭の奥が鋭く痛む。息が苦しい。視界が揺らぎ、平行感覚が崩れて倒れそうになる。それでもわたしは、一心不乱に念じ続けた。
――どれほどの間、そうしていたのだろう。
朦朧としていた意識に光がさし、はっと我に返った時、カズの体は完全に硬直から解放され、ゆったりと横たわっていた。表情も安らいでいる。
「これで、良いんですか?」
荒く息をつきながら振り向いて聞くと、教主はうなずいた。
「ありがとうございます。これで世界は救われました」
そこまで大げさな事したつもりじゃないんだけどな。
わたしはただ、カズを助けたかっただけなんだから。
「じゃあ、わたし、『水戸』に帰って良いんですね?」
「帰り方は御存知ですか?」
「今までと同じじゃないんですか? 念じればその通りになる、っていう」
わたしが言うと、教主は苦笑してうなずいた。
「はい。それで構いません」
わたしは納豆神教の本部寺院を出た。教主は「彼が意識を取り戻すのを待たなくて良いのですか?」と聞いてきたけど、わたしは、その前に「水戸」に帰りたかった。カズが助かったのは真奈のおかげだと考えると、ちょっと居心地が悪いから。
冷たい夜気に包まれながら、わたしは空を見上げた。そして「水戸」を強く念じる。すると急に眠気が襲ってきた。わたしは逆らわず、そのまま眠りに落ちる……。
■翌日■
目が覚めた時、わたしはジャージ姿で自分の部屋のベッドの中にいた。
急いで起き上がり、鞄から学生証を取り出して見ると、「水戸市立田角高校」と印刷されていた。どうやら無事に帰って来られたらしい。
ほっと一息ついてから、顔を洗って制服に着替え、食堂に向かう。朝食のテーブルには納豆が……三鉢!?
どういう事だ? ここは「水戸」のはずだ。さっき確認したんだから間違いない。でも現に、こうして納豆は置かれている。
「わたし、納豆は要らないから」
昨日の朝が繰り返される不安を感じながら、わたしは言った。すると母は、あきらめ顔で、
「たまには食べたら? 昨日テレビで言ってたけど、納豆は血液をサラサラにする効果があってね」
なんだ、健康番組の受け売りか。
やっぱりここは、「水戸」だ。わたしは昨日と同じように、味噌汁と漬物で朝食を終えた。
校門をくぐったところで、わたしはカズの後ろ姿を見つけた。
昨日の昼、あんなに大きく見えたカズの背中は、「水戸」に戻っても、あの時の頼もしさを残しているように見えた。
わたしはその肩を軽く叩いて言った。
「酒井真奈とはうまくいってる?」
「なっ、なんで知ってるんだ!?」
カズのあわてた声を背中で聞きながら、わたしはくすりと笑ってカズの先を歩き出した。
こっちの世界にも酒井真奈はいるようだ。それどころか「水戸」の二人は、「光戸」の二人よりも、少し進んだ関係にあるらしい。
……わたしにとっては、どちらも関係のない話だ。自分にそう言い聞かせる。
どうぞ二組とも、末永くお幸せに。
そして結局、わたしは今でも、納豆が嫌いである。