暗殺組織と、聖域
「おい、ノア! お前のせいでまた班の連帯責任で減点されたじゃないか!」
「魔力ゼロの出来損ないが、同じ教室の空気を吸うなよ。本当に目障りだ」
王立魔法学園、午後の実技演習。
的当ての標的を前に、私の手からは当然のように一滴の魔力も出ず、同級生たちの容赦ない嘲笑と罵声が飛んできた。
誰かがわざと私の肩を強く突き飛ばし、私は泥だらけのグラウンドに無様に転がった。
「あははっ! 泥がお似合いだね、落ちこぼれさん!」
泥まみれになった制服を見下ろされ、クスクスという笑い声が広がる。
私はうつむきながら、「ご、ごめんなさい……」と弱々しく震える声を出した。
……だが、私の心の中は、凪いだ水面のように底知れず冷え切っていた。
こんなもの、痛くも痒くもない。
喉を掻き切られ、内臓を溶かされ、自分の血の海で窒息するあの絶望の痛みに比べれば、同級生の悪意など春のそよ風にも劣る。
私はただ、この学園の風景に溶け込むための『無害で哀れな凡人』という着ぐるみを、完璧に被り続けているだけだ。
放課後。
私は一人、旧校舎の裏手にある枯れ葉の吹き溜まりに座り込んでいた。
1周目の世界で、ルミナと初めて言葉を交わした場所。彼女が、同級生に奪われて捨てられた私の本を拾って、声をかけてくれる運命の場所だ。
来る。絶対に、来る。
心臓が、ひどくうるさく鳴っていた。
「――あ、見つけた!」
鈴を転がすような、澄んだ声。
顔を上げると、そこには春の陽射しを背に受けた、透き通るような銀髪の少女が立っていた。
純白の神官服。深く優しい青い瞳。
「あなた、ノアさんよね? ずっと探していたの。これ、落としていたわよ」
ルミナが差し出したのは、泥で汚れた魔法陣の基礎理論の本。
ああ、ルミナだ。生きているルミナだ。
血に染まっていない、冷たくない、私に向けて微笑んでくれている彼女が、そこにいる。
泣きそうになるのを必死に堪え、私は戸惑ったような『落ちこぼれのノア』の顔を作った。
「ありがとう……でも、私には無駄な努力だよ。魔力が一滴もないんだから」
「そんなことないわ。この本、すごく綺麗に読んでいるもの。……あっ、ノアさん、その手!」
ルミナの視線が、私の手の甲にある擦り傷を捉えた。
グラウンドで突き飛ばされた時についた、ちっぽけな傷。
彼女は迷うことなく私の手を取り、その白く細い手から淡い緑色の光――治癒魔法の光を溢れさせた。
「――ッ!!」
その瞬間。
私の脳髄を、強烈なフラッシュバックが殴りつけた。
路地裏で死に損ない、善意の治癒術師に無理やり肉を縫い合わされたあの究極の拷問。
本能が「逃げろ」と絶叫し、全身の毛穴が粟立ち、幻肢痛で喉の奥から血の味がした。今すぐ手を振り払って、悲鳴を上げて逃げ出したかった。
だが、私は奥歯が砕けそうになるほど強く噛み締め、震えを気力だけでねじ伏せた。
ここで私が拒絶すれば、ルミナを傷つけてしまう。あの時のように、彼女に「自分が未熟なせいだ」という呪いをかけてしまう。
「……どう? 痛くない?」
「う、うん……痛くないよ。すごく、温かいね。……ありがとう、ルミナ」
私は脂汗をかきながら、無理やり口角を引き上げて笑った。
私の笑顔を見たルミナは、花が咲いたように嬉しそうに微笑み返してくれた。
ああ、痛い。死ぬほど怖い。でも、この無防備で純粋な笑顔を守れるなら、トラウマの幻痛なんていくらでも耐えてみせる。
「私、あなたのこと、もっと知りたいな。もしよかったら……これからお友達になってくれない?」
「……うん。私なんかでよければ」
私は、彼女の小さくて温かい手を握り返した。
表の盤面は、これでいい。
ルミナの親友という、最も彼女のそばにいられる特等席は確保した。
あとは――裏の盤面を、血で染め上げるだけだ。
* * *
深夜。王都の歓楽街の裏路地、さらにその地下へと続く隠し通路。
昼間の怯えた顔はとうに捨て去り、私は黒いフードで顔を隠し、音もなく冷たい石の階段を下っていた。
ルミナを殺した暗殺組織。その末端である王都の非合法ギルド『黒の牙』のアジト。
数年分、約二万六千時間を遡るための自害。だが、途中で敵に殺されたり、自害のタイミングを誤ってやり直しを強いられたりした結果、私が死を繰り返した回数は優に数十万回を超えていた。
「あぁ? 誰だお前、ここは関係者以外――」
見張りの大男が声を上げた、そのコンマ数秒前。
彼が欠伸をして右にわずかな死角ができるその一瞬を、私は数十万回のループの中で『知って』いた。
私は影のように足元へ滑り込み、男が反応する前に、刃こぼれした小刀で足の腱を正確に切断する。体勢を崩した男の背中に回り込み、口を塞ぐと同時に頸動脈を裂いた。
「侵入者だ! 殺せっ!」
奥から飛び出してきた三人の男たちが、魔法の詠唱と剣の構えを取る。
常人なら絶望する死地。だが、私にとってこの空間は、吐き気がするほどリトライを繰り返した『見飽きた盤面』でしかなかった。
「【火球】!」
右の男が放った炎が迫る。
過去のループで、私はこの炎で四百回は消し炭にされた。だから、男の詠唱の癖も、発射のタイミングも、弾道もすべて記憶に焼き付いている。
私は慌てることなく、ただ静かに『右へ二歩、首を左へ三センチ』傾けた。
轟音と共に、私の髪の毛数本を焦がして炎が通り過ぎる。
「なっ……!?」
驚愕する右の男の隙を突くように、左の男が大剣を振り下ろしてくる。
これも知っている。七百回はこれで両断された。彼は必ず踏み込む前に右肩が下がる。
私は避けるのではなく、男が踏み込んでくるより一瞬早く、彼の間合いの『内側』へと歩み寄った。そして、男が自らの勢いで突っ込んでくるその首筋に、刃こぼれした小刀をそっと『置いた』。
「が、はっ……」
自らの踏み込みの勢いで頸動脈を深く切り裂き、男が崩れ落ちる。
私はその死体を蹴り飛ばして盾にし、最後の一人の死角に潜り込んで喉笛を掻き切った。
鮮やかな体術なんかじゃない。筋力も魔力もない私が勝つには、数十万回の死の果てに得た『敵のすべての行動パターン』を、ただ機械のようになぞるしかなかった。
文字通りの『死に覚え』の極致だ。
「ひっ、化け物……っ!」
わずか数分で全滅した部下たちを見て、ギルドの顔役である隻眼の男が腰を抜かして後ずさる。
私は血の滴る小刀を弄びながら、男の前に静かに歩み寄った。
「さて。質問の時間だよ。……あんたたち、数年後に『銀髪の聖女』を殺す依頼を受けるはずだよね? 今現在、あんたたちに一番多額の資金を流してる太客の名前は?」
「ひぃっ! い、言えない! そいつを売ったら、俺たち組織ごと消され――ギャアアアッ!」
眼球を軽く抉り、私は冷たく見下ろした。
これ以上痛めつけて吐かせるのは非効率だ。私は男の心臓に刃を突き立て、口封じを終わらせた。
「言わないなら、自分で探すだけ」
私は血の海と化したアジトの奥、ギルド長の執務室へと足を踏み入れた。
壁の裏に隠された金庫。そのダイヤル錠の暗証番号すら、過去のループで何度も死にながら特定済みだ。
ガチャリ、と重い扉が開く。
中に入っていたのは、数冊の裏帳簿と、分厚い羊皮紙の束だった。
「……なるほど」
私は帳簿のページをめくり、ある一点に目を留めた。
この薄汚れた地下の暗殺ギルドには似つかわしくない、莫大な額の「特別活動支援金」が、定期的に振り込まれている。
さらに、裏帳簿に挟まれていた依頼書の束。
その差出人の名前は暗号化されていたが、私の目は、封蝋の残骸を見逃さなかった。
(……この蝋の材質、それに微かに染み付いている匂い……)
鼻を近づけると、血とカビの匂いに混じって、神聖で甘い『乳香』の香りがした。
そして、支払いに使われたであろう、傷一つない純金貨の束。一般には流通しない、特殊な魔法的刻印が施されたものだ。
「……ただの裏社会の組織じゃない。国家レベル、いや……それ以上の『聖域』からの資金源」
私は羊皮紙を冷たい目で睨みつけた。
暗殺組織という巨大な刃を握っている、本当の黒幕。
ルミナを「聖女」として祭り上げながら、同時に彼女の暗殺を裏で手引きしている狂ったシステムの中枢。
(……少しずつ、盤面の裏側が見えてきたね)
私は血まみれの小刀を布で拭い、帳簿と証拠品を懐にしまった。
相手がどれだけ巨大な権力を持っていようと、神を騙る存在だろうと関係ない。
「ルミナを殺そうとするなら、神様だって私が地獄に引きずり下ろしてやる」
誰にも知られない地下深くで、私は一人、最強最悪の大悪党になるための冷たい産声を上げた。




