終わりと、始まり
「……よし、これで完全に術式は死んだ」
薄暗い森の奥。私は息を殺しながら、泥にまみれた自動発射機の心臓部から、魔力供給のコアを引き抜いた。
ルミナを狙っていた仕掛けはこれで動かない。ほっと胸を撫で下ろしながら、私はトラップの内部に仕込まれていた『凶器』に目を落とした。
黒く変色した刃渡り十センチほどの小刀。そして、その刃に塗布される予定だったであろう、濁った紫色の液体が入った小さなガラス瓶。
私の知識が正しければ、これはただの毒ではない。ものの数分で全身の臓器を溶かし、発狂するほどの激痛を与えながら死に至らしめるという、悪趣味極まりない猛毒だ。
「……何かに、使えるかもしれない」
私はその小刀と猛毒の小瓶を、制服の裏ポケットにそっと忍ばせた。
これから向かうのは魔王の領域だ。もし生け捕りにされてアンデッドに作り変えられそうになった時、最後は自分の意志で終わらせるための『お守り』のつもりだった。
野営地に戻ると、レクトが焚き火の番をしながら私に声をかけた。
「ノア、見回りは終わったか? ご苦労だったな。……俺たち、本当にノアの頭脳に助けられてるよ」
レクトは少し照れくさそうに笑いながら、自分の首元から鎖を引き出した。その先には、淡い光を放つ青い宝石のついたペンダントが揺れている。
「教会の大司教様から直々に授かった、聖女様のお守りらしい。邪悪なものを遠ざけるって話だけど……正直、ノアの罠探知の方がよっぽど頼りになるぜ」
「ふふ、教会のお墨付きなら、少しは安心だね。……明日はついに魔王の領域に入る。今日はゆっくり休んで」
私は微笑んで頷いた。
お守りの効果なんて気休め程度かもしれないけれど、みんながルミナを守ろうとしている。その事実だけで、胸の奥が温かくなった。
* * *
異変が起きたのは、その日の深夜。
私たちが魔王の居城へ続く結界の入り口、『封印の神殿』の跡地に足を踏み入れた直後だった。
「……おかしい。魔物の気配が、まったくしないわ」
エレンが杖を構えた、その瞬間。
『――【空間隔絶】』
闇の中から、人間の冷たい声が響いた。
直後、足元の石畳に巨大な魔法陣が浮かび上がり、目も眩むような閃光が弾けた。凄まじい衝撃波と共に、前衛にいたレクトとエレンが、見えない壁の向こう側へと弾き飛ばされる。
「レクト! エレン!」
ルミナが叫ぶ。結界の内側に残されたのは、私とルミナの二人だけ。
そして、崩れた石柱の影から、音もなく黒装束の男たちが現れた。六人の暗殺者。
人間だ。魔王軍じゃない。
「聖女さえ殺せば任務完了だ。死ね、世界の希望」
一人の暗殺者が、地を這うような低い姿勢から一瞬で距離を詰めてきた。
速い。見えない。
刃が、ルミナの細い体を狙って一直線に伸びる。
「ルミナっ!!」
私は思考するより先に、ルミナを庇うように飛び出していた。
直後――ズブッ、と。
私の胸のど真ん中を、冷たい刃が貫通した。
「え……ノ、ア……?」
「が、はっ……!」
口から大量の血が噴き出す。
痛い。熱い。息ができない。
心臓を突き破られた私の体は、糸の切れた操り人形のように崩れ落ちた。
「ノア!! 嫌っ、ノアぁぁっ!!」
ルミナの悲鳴が遠退いていく。私の血で彼女の純白の服が赤く染まるのが見えた。
なんで人間が、ルミナを……。
視界が暗転し、私の意識は深い深い闇の底へと沈んでいった。
* * *
「……っはぁっ!!」
肺に冷たい空気が流れ込み、私は勢いよく跳ね起きた。
全身を脂汗が濡らしている。激しく咳き込みながら自分の胸をまさぐったが、そこには傷一つなく、血の匂いもしなかった。
「ノア? どうしたの、うなされていたけれど。悪い夢でも見た?」
すぐ横で、ルミナが心配そうに私を覗き込んでいた。
ここは、神殿に向かう前の野営地。空には先ほどと同じ月が浮かんでいる。
「夢……? ああ……うん。すごく、嫌な夢……」
私は震える手で額の汗を拭った。
あまりにもリアルな死の感触。胸を貫かれた瞬間の、あの氷のような冷たさと、命が抜け落ちていく絶望感。
あれは夢だったのか。それとも、これから起こる最悪の未来の予知夢?
「大丈夫だよ、ルミナ。……そろそろ、出発の時間だね」
恐怖を無理やり心の奥底に押し込み、私は立ち上がった。
ただの悪い夢だ。私がルミナを守る。そう自分に言い聞かせながら、私たちは再び『封印の神殿』へと足を踏み入れた。
そして。
世界は、残酷なほど正確に「あの悪夢」をなぞり始めた。
『――【空間隔絶】』
魔法陣の閃光。分断されるレクトとエレン。
闇の中から現れる、六人の暗殺者。
すべてが、夢で見た光景とまったく同じだった。
「聖女さえ殺せば任務完了だ。死ね、世界の希望」
暗殺者が、ルミナに向かって一直線に飛び込んでくる。
(庇わなきゃ……っ!)
頭では分かっていた。私が盾にならなければ、ルミナが死ぬ。
さっきの夢のように、私が彼女の前に飛び出さなければ。
だが。
私の両足は、石のように硬直して動かなかった。
(痛い……っ、痛い、痛い痛いっ!!)
細胞の底から、先ほどの「死の記憶」がフラッシュバックしたのだ。
刃に肉を裂かれる感触。心臓を貫かれる激痛。肺が血で満たされる窒息の苦しみ。
頭では飛び出そうとしているのに、生存本能が、肉体が、あの狂いそうなほどの痛みを強烈に拒絶して、悲鳴を上げている。
動け。動けよ。
ほんの一瞬。たった一秒にも満たない、致命的な躊躇い。
「あ……」
私が一歩を踏み出せなかったそのコンマ数秒の間に。
暗殺者の凶刃は、ルミナの細い背中を深々と貫いていた。
「え……」
ルミナの口から、赤い飛沫が零れ落ちる。
スローモーションのように崩れ落ちる彼女の体を、私は咄嗟に抱きとめた。
「ルミナっ!! ルミナ、あ、あああっ!」
嘘だ。嘘だろ。
私があの一瞬、痛みに怯えなければ。
私が躊躇わなければ、この刃は私が受けて、彼女は助かっていたのに。
「ノ、ア……」
「喋らないで! 大丈夫、治癒魔法、誰かっ……!」
結界の向こうでレクトたちが叫んでいる。でも、届かない。
ルミナは血に染まった手を伸ばし、私の震える頬にそっと触れた。
「よかった……ノアが、ぶじで……」
私のために、花のように笑って。
ルミナの瞳から、ふっと光が消えた。
頬を撫でていた手が力なく滑り落ち、冷たい石畳にぶつかった。
「……ルミナ? 嘘でしょ、ねえ、ルミナぁぁっ!!」
応えはない。
私が、殺したんだ。
私が痛みにビビったせいで。私が自分の命を惜しんだせいで、世界で一番大切な人を死なせてしまった。
『次はお前だ、小娘』
暗殺者が血濡れの刃を向けてくる。
だが、そんなものはもうどうでもよかった。
後悔と自責の念が、私の心をドロドロに溶かしていく。許せない。こんな私、絶対に生きていてはいけない。ルミナがいない世界で、私だけのうのうと呼吸を続けるなんて、万死に値する。
私は狂ったように笑いながら、懐から小瓶を取り出した。
トラップから回収した猛毒。
私は蓋を噛み砕き、紫色の液体を一気に喉の奥へと流し込んだ。
「ッ、ァ、ああああああああっ!!」
直後、内臓を煮えたぎる鉄で焼かれるような激痛が爆発した。
「げほッ、あ゛ァ…ッ!」
口から血の泡を吹き、のたうち回る。全身の神経が引き千切られるような苦痛。
だが、これだ。これくらい苦しまなきゃダメだ。痛みに負けてルミナを見殺しにした私には、これでもまだ罰が足りない。
私は血の海の中で黒い小刀を握りしめ、自らの喉元に突き立てた。
「がッ、ヒュッ……!」
肉を裂き、気管を断ち切る生々しい感触。
猛毒と刃の二重の激痛に、視界が真っ赤に染まり、意識が明滅する。
ルミナ。ごめんね。ごめんね。
私が弱かったから。私が、卑怯だったから。
自分の無力さを呪いながら、私は動かなくなるルミナの冷たい手に自分の手を重ねて、ついに絶命した。
* * *
「オエェェッ!! ゲホッ、はぁっ、はぁっ……!」
強烈な吐き気とともに、私は地面に四つん這いになって胃液を吐き出した。
全身の細胞にこびりついた、あの猛毒と刃の狂いそうな激痛が幻肢痛となって襲いかかってくる。
「ノア? どうしたの、そんなところで蹲って」
鈴を転がすような声。
振り返ると、そこには焚き火の薪を抱えたルミナが、不思議そうに立っていた。
制服は純白のままで、血の染み一つない。
「るみ、な……?」
「顔色が真っ青よ。もしかして、どこか怪我を……」
私は泥だらけのまま飛びつき、彼女を力いっぱい抱きしめた。
温かい。生きている。
訳が分からず戸惑うルミナの肩に顔を埋め、私は子供のように声を上げて泣いた。
夢じゃない。
あれは、絶対に予知夢なんかじゃなかった。
自分がどうして生きてここにいるのか、どういう法則で時間が戻っているのか、今の私にはまったく分からない。
神の気まぐれか、悪魔の呪いか。
でも、一つだけ確かなことがある。
私はもう二度と、怯えない。痛みに逃げて、彼女を死なせたりしない。
この地獄のような苦痛を何度味わうことになっても、絶対に、今度こそ私がルミナを救ってみせる。
私はまだ何も知らないルミナを守るように強く抱きしめながら、暗い森の奥へと鋭い視線を向けた。




