聖女の奇跡と、最強最悪の敵
「ノア、今日の図書室での勉強会、魔法陣の応用編を教えてくれる?」
「うん、いいよ。ルミナは魔力出力が高すぎるから、もっと術式を細かく分割して制御するアプローチを試してみようか」
中庭のベンチで、私たちがそんな他愛のない会話を交わすようになってから、数ヶ月が経っていた。
魔力ゼロの落ちこぼれと、学園一の天才優等生。
どう見ても不釣り合いな二人だったけれど、ルミナは周囲の好奇の目など一切気にせず、いつも私の隣でその花が咲くような笑顔を見せてくれた。
私の知識を誰よりも頼りにしてくれて、私が淹れる少し薄い紅茶を「美味しい」と笑ってくれる。その穏やかな日々が、私にとってどれほど得難い宝物だったか。
……だが、その平穏は、ある日突然、無惨に引き裂かれることになる。
それは、学園周辺の森で行われた、全学年合同の野外実習でのことだった。
本来なら安全なはずの演習林に、突如として『空間の亀裂』が発生したのだ。
亀裂から這い出してきたのは、本来なら最前線の戦場にしか現れないはずの高位魔物の群れだった。
「ひぃっ……! 嫌だ、こっちに来るなっ!」
「誰か、助けて……っ!」
阿鼻叫喚の地獄。
生徒たちの未熟な攻撃魔法など、漆黒の皮膚を持つ魔物たちには傷一つつけられなかった。
次々と生徒が血を流して倒れ、引率の教師たちでさえ防戦一方で追い詰められていく。
「ルミナ、逃げて! 早く!」
私は、震える足でルミナの前に立ち塞がった。
武器なんて持っていない。魔法も使えない。ただ、落ちていた木の枝を握りしめ、圧倒的な暴力の前に身を晒す。
死の恐怖で心臓が破裂しそうだった。それでも、私の後ろで青ざめている彼女だけは、絶対に守らなきゃいけないと、体だけが勝手に動いていた。
「ノア……っ、ダメよ! あなたが死んでしまう!」
魔物の巨大な爪が、私を引き裂こうと振り下ろされる。
――あ、死ぬ。
そう覚悟して目を閉じた、その瞬間だった。
『――【大いなる慈愛】』
背後から、凛とした、けれどどこか悲痛な響きを帯びた声が響き渡った。
ドォン!! と、鼓膜を揺らすような魔力爆発の音。
私が恐る恐る目を開けると、そこには信じられない光景が広がっていた。
ルミナを中心に、視界を真っ白に染め上げるほどの強烈な『光』が、森全体をドーム状に包み込んでいたのだ。
それは、ただの治癒魔法ではなかった。
致命傷を負い、虫の息だった生徒たちの傷が、瞬きする間に塞がっていく。そればかりか、光に触れた高位魔物たちが、まるで太陽に灼かれた雪のように、悲鳴を上げながら浄化され、灰となって消え去っていくではないか。
広域の完全回復と、魔への絶対的な特効。
神話の時代にしか存在しないとされた、奇跡の御業。
「う、嘘だろ……あんな魔法、人間が使えるはず……」
「聖女だ……。神が遣わした、奇跡の聖女様だ!」
血と泥にまみれた生徒たちが、次々とルミナに向かって膝をつき、祈りを捧げ始める。
光の渦の中心で、杖を構えたまま魔力を使い果たし肩で息をする彼女の横顔は、恐ろしいほどに神々しく、そして……ひどく遠く見えた。
私は、手からポロリと木の枝を落とした。
私が彼女を守る必要なんて、最初からなかったのだ。彼女は、私なんかよりずっと強くて、優しくて、圧倒的な『光』そのものだった。
その事実に、胸の奥がチクリと痛んだ。
この日を境に、ルミナの運命は劇的に変わってしまった。
彼女の放った奇跡は瞬く間に国中へ知れ渡り、教会は彼女を正式に『聖女』として認定した。
大司教がわざわざ学園を訪れ、ルミナの前に恭しく頭を下げてこう告げたのだ。
『今、大陸の東部では、世界を滅ぼさんとする最強最悪の敵――【厄災の魔王】が復活の兆しを見せております。ルミナ様、貴女のその奇跡の光こそが、魔王を打ち倒し、この世界を救う唯一の希望なのです』
最強最悪の敵。
その噂は、私たち生徒の間でも恐怖の象徴として語り継がれていた。触れるものすべてを腐敗させ、数万のアンデッドを従えるという、おとぎ話の化け物。
そんな規格外の化物と戦う運命を、こんなにも優しくて、虫一匹殺すのにも心を痛めるルミナが背負わなければならないなんて。
「魔王討伐のための、特別編成パーティを作ります」
学園長が宣言し、次々とメンバーが選抜されていった。
学園で右に出る者はいない剣術首席の騎士、レクト。
精霊の愛し子と呼ばれる、攻撃魔法の天才、エレン。
他にも、選りすぐりのエリートたちが『聖女を護る盾と剣』として名乗りを上げた。
そこに、魔力ゼロの私が入る隙間など、一ミリも存在しなかった。
「……よかったね、ルミナ。レクトたちがいれば、絶対に魔王なんて倒せるよ。私は、学園から応援してるから」
放課後の教室。夕焼けに染まる窓際で、私は無理に笑顔を作ってそう言った。
寂しくないと言えば嘘になる。でも、足手まといの私がついて行っても、彼女を危険に晒すだけだ。これでいいんだと、自分に言い聞かせていた。
しかし、ルミナはギュッと私の両手を握りしめ、真っ直ぐに私の目を見つめてきた。
「嫌よ。ノアがいないパーティなんて、私、絶対に行かない」
「えっ……? で、でも私、魔法も使えないし、剣だって……」
「魔法や剣なら、レクトさんたちがいるわ。でも、戦況を冷静に分析して、一番安全な術式を組み上げてくれるのはノアだけよ。それに……」
ルミナの大きな青い瞳が、わずかに潤む。
「私、怖いよ、ノア。魔王と戦うなんて……世界を救うなんて、そんな大層な人間じゃない。ただの、ルミナなのに……。周りの期待に押し潰されそうな時、隣にノアがいてくれないと、私、きっと立っていられなくなる」
天才聖女と持て囃されても、彼女の中身は、私と一緒に薄い紅茶を飲んで笑っていた、あの普通の女の子のままなのだ。
彼女の震える手から伝わる体温が、私の胸の奥の冷たい諦めを溶かしていく。
「……わかった。私でよければ、一緒に行くよ」
「本当!? ありがとう、ノア……っ!」
パッと花が咲いたように笑い、私に抱きついてくるルミナ。
私は彼女の銀髪を不器用に撫でながら、心の中で固く誓った。
どんな手を使ってでも、私がこの子の笑顔を守り抜く。
魔王だろうが何だろうが、戦術と知恵を絞って、絶対にルミナを死なせはしない、と。
――のちに、私自身がその『最強最悪の敵』として彼女の前に立ち塞がり、彼女の心を誰よりも深くえぐることになるなど、この時の私は知る由もなかった。




