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数千万回の『おはよう』と『大好き』

小鳥のさえずりと、窓から差し込む柔らかい朝日に顔を撫でられ、私はゆっくりとまぶたを開けた。



「……んっ」



寝返りを打つと、ふかふかのシーツの感触と、石鹸のいい匂いがふわりと鼻をくすぐる。


私は無意識に、自分の首元へと手を伸ばした。


……何もない。


肉を裂かれた生々しい傷跡も、どくどくと血が噴き出す感触も、ない。胃の奥から込み上げてくる、内臓をドロドロに溶かすようなあの猛毒の不快感も、何一つない。


ただ、温かい血が巡る脈の音だけが、トクトクと静かに指先に伝わってくる。



「……そっか。私、死ななくていいんだっけ」



私は小さく呟いて、ふにゃりと笑った。



あの大聖堂の跡地での最終決戦から、季節が一つ巡った。


『世界を滅ぼす大悪党ノア』は、勇者パーティの決死の攻撃と、聖女ルミナの放った極大の魔法によって、その夜、完全に消滅した――世界的には、そういうことになっている。


私が生きていると知られれば、また世界は混乱し、ルミナに火の粉が降りかかるかもしれない。だから私は、完全に『死んだ人間』として表舞台から姿を消した。



今私がいるのは、王都から遠く離れた、地図にも載っていない辺境の深い森の奥。


教会の極秘の隠れ家だったこの小さなコテージを改装して、私はたった一人で……いや。



「あっ、ノア! おはよう。やっと起きたのね」



コテージのキッチンから、パタパタと軽い足音が近づいてくる。


フリルのついたエプロンをつけ、木べらを持った銀髪の少女――世界一の聖女様が、花が咲いたような笑顔で部屋を覗き込んできた。



「おはよう、ルミナ。……いい匂い。今日はシチュー?」


「ふふっ、正解! ノアがいっぱい寝てる間に、美味しく煮込んでおいたわ。もうすぐレクトさんたちも来る時間だし、顔を洗っておいで?」



彼女は世界中から崇められる多忙な聖女様だというのに、公務の合間を縫っては、転移魔法を使ってしょっちゅうこの森の隠れ家に帰ってきてくれる。


むしろ、最近はこっちにいる時間の方が長いくらいだ。



私はベッドから降りて、大きく伸びをした。


足の裏に伝わる木の床の温もり。冷たい石畳でも、泥と血にまみれた荒野でもない。ただの、ありふれた日常の感覚。


それだけで、胸の奥がじんわりと熱くなる。



「……っ、わっ!?」


「えへへ、捕まえた」



顔を洗おうと洗面所へ向かおうとした私の背中に、ルミナがふわりと抱きついてきた。


背中に当たる彼女の体温と、柔らかい銀髪が頬をくすぐる。



「ちょっと、ルミナ? シチュー焦げちゃうよ?」


「もう火は止めたもん。……ノアがちゃんと生きてて、私の目の前にいるか、確認のハグ」


「……朝から甘えん坊だなぁ」



私は苦笑しながら、お腹に回された彼女の小さな手を、そっと自分の手で包み込んだ。


ルミナは、あの浄化の魔法で私の数千万回の死の記憶を受け取ってから、私が一人でどこかへ消えてしまうんじゃないかと、時々こうして異常なほど過保護になる。


でも、その心配性なところも、全部ひっくるめて愛おしかった。



「どこにも行かないよ。私はもう、ルミナのそばで一生ヒモとして生きていくって決めたんだから」


「ふふっ。望むところよ。私が一生、ノアを甘やかして養ってあげるんだから」



二人でクスクスと笑い合っていると、コテージの玄関のドアが、ドンドンッ!とやかましくノックされた。



「おーい! ルミナ、ノア! 入るぞー!」


「ちょっとレクト、声が大きいのよ! 静かな森の雰囲気が台無しでしょ!」



声の主は、かつての学園の同級生であり、今や世界を救った英雄として国中から引っ張りだこの勇者と大魔法使い――レクトとエレンだった。


二人は変装用の地味なローブを脱ぎ捨てながら、両手いっぱいの紙袋を抱えてリビングに入ってきた。



「よう、ノア。顔色、だいぶ良くなったな」


「ほら、王都で一番人気のケーキ屋の新作よ。並んで買ってきてあげたんだから、感謝しなさいよね」



「ありがと。相変わらずエレンはツンデレだね。レクトも、荷物持ちおつかれ」


「だーっ、誰がツンデレよ! あんたねえ、世界を救った大魔法使いに向かって……!」



エレンが顔を真っ赤にして怒るが、その目元はどこか嬉しそうだ。


レクトも、テーブルにどっさりと食材や日用品を置きながら、少し照れくさそうに頭を掻いた。



彼らもまた、最終決戦のあの日、ルミナを通じて私の『真実』を知った。


自分が憎んでいた大悪党が、実は自分たちをずっと陰から守り、たった一人で数千万回の死のループという地獄を背負っていたこと。


その事実を知った時、レクトは大声で泣き崩れて何度も私に土下座し、エレンは「一人で抱え込むなんてバカッ!」と私の胸を叩いて泣きじゃくった。



今ではこうして、表向きは『大悪党を倒した勇者パーティ』として世界を平和に保ちつつ、裏では定期的に大量の貢物を持って私に会いに来てくれる、良き悪友に戻っていた。



「さあさあ、二人とも座って。シチューよそってくるから!」



ルミナが甲斐甲斐しくテーブルの準備を進める。


王都のケーキに、温かいシチュー、そして焼きたてのパン。


木漏れ日が差し込む丸テーブルを、かつての学園時代と同じように四人で囲む。



「……そういえばさ」



シチューを口に運びながら、私がふと思い出したように口を開いた。



「この前、レクトが西の魔物討伐に行った時の話なんだけど。あの大振りの剣撃、まだ直ってないでしょ。右足の踏み込みが数ミリ甘いから、素早い魔物に死角を突かれるんだよ。……実戦なら、あれで三回は死んでるね」


「ブフッ!? な、なんで辺境の森に引きこもってるお前が、俺の戦闘の癖を知ってるんだよ!?」


「ふふっ。ノアはね、魔王軍を完封できる『死に覚え』の達人だもん。レクトさんの動きなんてお見通しなのよ」



ルミナが私の隣で、なぜか誇らしげに胸を張る。



「ていうか、まだそんな危ない戦い方してんの? しょうがないなぁ。今度、木剣でみっちり基礎からシゴいてあげるよ。私の指導は、骨の二、三本折れるくらい厳しいから覚悟してね」


「ひぃっ……! お、お手柔らかに頼む……」



かつては大悪党として私を討とうとした勇者が、情けなく肩を震わせる。そのやり取りを見て、エレンがお腹を抱えて笑い転げた。


表の世界にはもう出られない。


でも、私にはこれで十分だった。


大好きな親友たちが生きていて、こうして馬鹿みたいに笑い合える。この小さなコテージの中が、私の世界のすべてで、最高に幸せな場所だった。



* * *



夕暮れ時。


「じゃあな、ノア。また来月、美味い酒でも持ってくるよ」


「ルミナも、あんまりノアを甘やかしすぎないようにね! じゃあね!」



大量の食材と、賑やかな笑い声を残して、レクトとエレンは転移魔法で王都へと帰っていった。


二人が去った後のコテージは、静かで、穏やかな空気に包まれている。



私はふらりとポーチに出て、森の木々の間に沈んでいくオレンジ色の夕日を眺めていた。


ポケットの中に手を入れる。


かつて、そこには常に『刃こぼれした小刀』と『悪趣味な猛毒の小瓶』が入っていた。でも今は、ルミナが昨日摘んできた、押し花の栞が一つ入っているだけだ。



「……ノア。寒くない?」



後ろから、ルミナが私の肩にふわりとショールをかけてくれた。


そしてそのまま私の隣に並び、私の右手を両手でぎゅっと包み込む。



「ん。大丈夫。……今日も、楽しかったね」


「うん。エレンの持ってきたケーキ、すごく美味しかった。……あ、そうだ!」



ルミナは何かを思い出したように、パッと顔を輝かせた。



「明日の朝ごはんは、パンケーキにしよう! ノアが淹れてくれた甘い紅茶と一緒に。……あの日、二人で約束したカフェのメニュー、ここで再現するの」



その言葉に、私は少しだけ目を見開いた。


何千万回も前のループ。私が自分の命を絶って『無かったこと』にしたはずの、学園を抜け出して二人で行った裏通りのカフェ。


ルミナは、記憶の還流でその光景を思い出し、ずっと大切にしてくれていたのだ。



「……そっか。いいね、パンケーキ。とびっきり甘いやつにしてよ」


「もちろん! ハチミツたっぷりかけてあげる!」



ルミナは嬉しそうに笑い、包み込んでいた私の手を、自分の頬へとすり寄せた。



「ねえ、ノア」


「ん?」


「数千万回も、痛い思いをして。たった一人で地獄を歩いて……私を、この明日まで連れてきてくれて、本当にありがとう」



ルミナの青い瞳が、夕焼けの光を反射してキラキラと揺れている。


その眼差しは、あの神殿で私に向けられていた敵意とは違う、どこまでも深く、重く、真っ直ぐな愛情に満ちていた。



「ノアが苦しんだ数千万回の死の分だけ。これから私が、数千万回の『おはよう』と『美味しいね』と『大好き』で、ノアの心をいっぱいにしてみせるから。……だから、一生、私のそばで幸せになってね」


「……反則でしょ、それ」



私は堪えきれずに吹き出し、そのまま泣き笑いのような顔になって、彼女の肩に頭を預けた。


鼻の奥がツンとして、視界が滲む。


でも、もうこの涙は、絶望の涙じゃない。



「覚悟しといてよ。私、すっごくワガママで手のかかるヒモになる予定だから」


「ふふっ、どんとこい、よ!」



夕焼けに染まる森の奥。


世界を恐怖に陥れた最強最悪の大悪党と、世界を救った奇跡の聖女は、肩を寄せ合い、ただの普通の女の子として幸せそうに笑い合った。



これからはもう、時間を巻き戻す必要なんてない。


毒を飲むことも、首を斬ることもない。


ただ、彼女と一緒に、明日という未知の時間を、一日ずつゆっくりと進んでいくだけだ。



私の手の中にある、温かくて小さな手。


その確かな命の鼓動を感じながら、私は深く、穏やかな息を吸い込んだ。



数千万回の死の果てに。


私の物語は、これ以上ないほどの完璧なハッピーエンドを迎え、そして、静かに幕を下ろしたのだった。

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