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天才聖女の貴女と、落ちこぼれの大悪党

――カァン、カァン、カァン。


神殿の冷たい空気を震わせるように、運命の『深夜0時』を告げる鐘の音が、戦場に静かに響き渡った。

それは、過去のループにおいて、見えざる世界の悪意が幾度となくルミナの命を刈り取ってきた絶望の合図。


私はルミナの腕の中に抱かれたまま、息を詰め、恐る恐る目を細めた。

背後から凶刃が突き出されるのではないか。見えない呪いが彼女の心臓を止めるのではないか。全身の毛穴が粟立ち、心臓が早鐘を打つ。


だが。鐘の音が夜の闇に完全に溶けて消えても、何も起きなかった。


目の前には、息を切らしながらも、私のために大粒の涙を流しながらも、確かに生きているルミナの姿があった。

胸を貫かれてもいない。吐血もしていない。

彼女の命を狙うはずだった運命の死は、大悪党である私への絶対的な憎悪と、この完璧に整えられた狂気の盤面によって完全に上書きされ……ついに、あの『避けられない死の時間』をやり過ごしたのだ。


(ああ……よかった。今回は、もう自分の首を斬らなくて済むんだ)


私の心の中に、数千万回のループの中で一度も感じたことのなかった、途方もない安堵が広がった。

もし今、彼女が血を吐いて倒れたなら。私はまた、残されたわずかな力で猛毒を煽り、この小刀で自分の喉を裂いて、何万回でも地獄へ戻るつもりだった。

彼女が生きる明日を掴めるまで、一億回でも永遠に苦痛の螺旋を回る覚悟だったのだ。

けれど今はただ、私の腕の中で生き延びてくれた彼女の温もりが嬉しくて、愛おしくてたまらなかった。


安堵と共に指先から力が抜け、私の手から、数千万回の地獄を共に歩んだ刃こぼれした小刀が、カラン……と乾いた音を立てて冷たい石畳へと転がり落ちた。


「……ルミナ、離れろっ!! そいつの罠かもしれない!」


その小刀が落ちた音を、「悪党が隙を見せた決定的な瞬間」と判断したのだろう。

レクトが血相を変え、ルミナの肩を掴んで強引に引き剥がした。と同時に、彼は大剣を上段に構え、私に向かって一直線に踏み込んできた。


(――これで、いい)


私は避ける素振りすら見せず、泥と血にまみれた顔に、憑き物が落ちたような穏やかな笑みを浮かべた。

そして、両手を力なく広げ、わざとレクトの大剣を、無防備な胸のど真ん中で受け止めた。


「ガ、ハッ……!」


ズブッという生々しい音と共に、冷たい鋼の刃が私の胸を深々と貫く。

肺が切り裂かれ、熱い血が込み上げてくる激痛。だが、数千万回繰り返した「自害」の痛みに比べれば、不思議なくらい穏やかな痛みに感じられた。


「ノアぁぁぁっ!!」


ルミナの張り裂けるような悲鳴が響く。

私は激痛に顔をしかめながらも、ゆっくりとレクトと、その後ろで絶望に顔を歪めるルミナを見つめた。


「ふふっ……勇者に倒される悪党っていうのも……案外、悪くないね」


血まみれの唇でそう笑いかけると、私の体はついにすべての限界を迎え、神殿の床へと崩れ落ちた。

すべてが終わったのだ。

大悪党ノアは勇者の剣に倒れ、世界に平和が訪れる。そしてルミナは、誰にも命を狙われることなく、明日からの眩しい未来をみんなと生きていく。私が欲しかった最高のハッピーエンドが、これで完成する。


「やった……! ついに、あの化け物を……!」

「とどめに神聖魔法を! 完全に息の根を止めるんだ、ルミナ! そいつに回復の時間を与えるな!」


レクトの焦燥に駆られた叫び声が響く。

薄れゆく意識の中で、私は静かに目を閉じた。ああ、最後がルミナの魔法なら、それでいい。

彼女の手によるものなら、今は喜んで受け入れられる。


「――っ、ああああああっ!!」


ルミナが悲痛な叫び声を上げながら、その杖を高く、夜空に向かって掲げた。

直後、崩壊した神殿中を包み込むほどの、圧倒的で眩い光の奔流が爆発した。


だが。

私の血まみれの体を包み込んだその光は、私が覚悟していたような、拷問のような激痛ではなかった。


まるで春の陽だまりのような。あの日の学園のカフェで飲んだ、甘い紅茶のような。限りなく優しく、柔らかく、温かい光。

それはルミナが放った攻撃魔法でも、ただ傷を塞ぐだけの治癒魔法でもなかった。

彼女が学園時代、私と初めて出会ったばかりの旧校舎の裏で誓っていた、『究極の浄化魔法』だった。


「ルミナ……?」


光の中で、私の胸を貫いていた致命的な剣傷が、痛み一つなく、跡形もなく塞がっていく。

それだけではない。過去数千万回のループで私の魂の奥底にこびりつき、私を狂わせていた『首を斬る幻肢痛』や『内臓がドロドロに溶ける毒の記憶』。そして、たった一人で世界を騙し続けてきた、誰にも言えなかった重すぎる絶望と孤独。

そのすべてが、彼女の涙のように優しい光によって、黒い靄が晴れるように洗い流されていくのだ。


『いつかあなたの心まで癒やせる、本当のヒーラーになるって誓うから』


私自身が記憶を消し去ってもなお、彼女の魂はずっとその誓いを覚えていたのだ。

私の心の中に流れ込んでくるのは、圧倒的な「許し」。


そして同時に、ルミナの浄化の光を通じて、私の奥底に封じ込めていた「数千万回の死の記憶」と、「カフェでの約束」という消え去ったはずの思い出が、奇跡の波に乗ってルミナの心へと流れ込んでいった。


「あ……ああ、あぁぁ……っ!」


光の中で、すべてを『思い出した』ルミナが、杖を取り落として泣き崩れた。

私がどれだけの痛みを繰り返してきたか。どんな思いで「大悪党」を演じていたか。そのすべてを知った彼女は、大粒の涙をこぼしながら私の元へすがりつき、もう二度と離さないとばかりに強く抱きしめた。


「ごめんね……っ、ごめんね、ノア! 私のために、あんな……あんなに何度も、痛い思いをして……っ!」

「ルミナ……、あ、ぁぁ……っ」


私は胸を押さえ、張り詰めていた糸が完全に切れ、子供のように声を上げて泣きじゃくった。

もう、死ななくていい。独りぼっちで痛い思いをしなくていい。彼女が生きているこの温かい世界で、私も一緒に、明日を迎えていいのだ。


「もう……一人で背負わないで。今度は私が、ずっとノアのそばにいるから」


涙でぐしゃぐしゃになった顔で笑い合う私たちを見て、レクトとエレンもまた、武器を下ろしていた。二人は何も言わず、ただ静かに、大悪党が背負っていた底知れない自己犠牲の重さに打ちひしがれ、深く頭を下げた。


夜明けの光が、崩壊した神殿の隙間から差し込んでくる。

数千万回の死の螺旋は、ついに終わりを告げた。

最弱の凡人が、ただ一人の大好きな親友を救うためだけに世界を敵に回した狂気の物語は、温かい聖女の光に包まれて、誰も欠けることのない、本当のハッピーエンドへと辿り着いたのだった。

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