血の混じった呟きと、深夜0時の鐘の音
「はぁぁぁぁっ!!」
神殿の崩れかけた天井を震わせるレクトの咆哮。黄金の闘気を纏った身の丈ほどの大剣が、空気を叩き割るような風切り音と共に私の脳天へと振り下ろされる。
私は刃こぼれした小刀の峰を絶妙な角度で当て、その致死の軌道をわずかに逸らした。
ギガァァンッ!という耳を劈く金属音と同時に、殺しきれなかった衝撃が私の右腕を駆け上がり、骨が悲鳴を上げる。
直後、死角から飛来したエレンの氷槍の群れ。私は最小限のステップでそれを躱すが、頬を掠めた極低温の刃が皮膚を裂き、赤い血が空中に散った。
「ハァッ……ハァッ……!」
勇者パーティの凄まじい猛攻を前に、私は不敵な笑みを浮かべていた――表向きは。
だが、私の肉体はとうの昔に限界を通り越し、完全な崩壊のカウントダウンを始めていた。
(……くそっ、視界が、二重にぼやける……っ)
神殿の床を踏み込む足がガクガクと痙攣し、小刀を握る左手の感覚がすでに泥のように麻痺してきている。
無理もない。たった今、私はこの「誰にも邪魔されない最終盤面」を完璧なものにするためだけに、72回の連続自害を強行してきたばかりなのだ。
これまでの数千万回のループで蓄積された精神の摩耗。それに加えて、わずか数時間のうちに72回連続で致死量の猛毒を煽り、自らの喉を小刀で掻き切った極限の疲労。
切断された気管、溶け落ちた内臓。今の私の体には傷一つないはずなのに、全身の細胞を焼き尽くすような幻肢痛が、致死量の猛毒そのもののように私の神経をズタズタに蝕んでいた。呼吸をするたびに、肺の奥から鉄錆と胃液の入り混じった不快な匂いが込み上げてくる。
それでも。私は絶対に、倒れるわけにはいかない。
崩れかけた時計塔の針を横目で睨む。時刻は『23時58分』。
あと2分。あとたった2分だけ、私がここで「世界を滅ぼす大悪党」として立ちはだかり、彼女たちのすべての憎悪とヘイトをこの身に引き受けていられれば。
世界というシステムそのものが、ルミナの命を強制的に刈り取ろうとする運命の『深夜0時』を、私という避雷針を使ってやり過ごすことができる。
「これで終わりよ、ノアッ! 灰になりなさい! 【極大の雷鳴】!」
エレンの杖の先端に、神殿の残骸ごとすべてを吹き飛ばすほどの、白く輝く莫大な雷撃が収束していく。
(右へ三歩、首を左へ。回避できる――)
数千万回の死に覚えで完全に最適化された私の脳が、回避のルートを弾き出し、肉体に命令を下した。その、瞬間だった。
「――っ、ガ、ハッ……!!」
突如、胃の奥からドス黒い鉄の塊が暴力的にせり上がってきたような感覚に襲われ、私は口から大量の血を、石畳にぶちまけた。
限界だった。
エレンの魔法を食らったわけでも、レクトの剣を受けたわけでもない。ただ純粋に、私の命が、悲鳴を上げ続けた肉体が、魂の限界容量を超えて完全に活動を停止しようとしたのだ。
「あ……」
足からプツンと糸が切れたように力が抜け、私は無様に神殿の冷たい石畳へと倒れ伏した。
私の回避が遅れたことで、エレンの放った極大の雷撃が私のすぐ横の床に直撃する。
鼓膜が破れるほどの轟音。粉砕された石畳の破片と凄まじい爆風によって、私の小柄な体はまるで重さのない紙くずのように吹き飛ばされ、太い大理石の柱に背中から激突した。
「ゲホッ、ゴハッ……あ、ぁぁ……っ、ぁ……」
全身の骨が軋む嫌な音が響いた。肋骨が数本折れ、肺に刺さっている感覚がある。
ダメだ。立て。立たなきゃ。
視界が自分の吐いた真っ赤な血に染まり、息をするたびに喉の奥でゴボゴボと血の泡が弾ける。
痛い。苦しい。動けない。
だが、時計の針は無情にも『23時59分』を指していた。
運命の時間が、秒読み段階に入っている。私がここで無様な姿を晒し、彼女たちの敵意の矛先を見失わせてしまったら。世界は再び、不可視の凶刃となってルミナの背中を貫いてしまう。
「立って……私が、盾に……守らなきゃ……」
私は自分のどす黒い血の海の中を這いつくばりながら、折れ曲がりそうな指で石畳の隙間を掻き毟った。
爪が剥がれ、血が滲んでも構わない。這ってでも。泥を啜ってでも。
彼女の前に立ち塞がる絶対悪の壁にならなければ。
その時だった。
「ノア……っ!!」
鼓膜を打つ悲痛な叫び声と共に、私の血塗られた視界に、ふわりと純白の神官服が飛び込んできた。
ルミナだ。
彼女は武器を構えて私にトドメを刺そうとするレクトたちを両手で制止し、あろうことか、大悪党であるはずの私のもとへ駆け寄ってきたのだ。
そして、私の吐いた血で自らの純白の服が真っ赤に汚れることも厭わず、血まみれでピクピクと痙攣する無防備な私の体を、その細く震える腕で強く、力強く抱きしめた。
「ル、ミナ……? なに、を……」
「もういい……もういいの、ノア! どうして……どうしてそんなにボロボロになってまで……一人で苦しんでいるの!」
彼女の透き通るような青い瞳から、大粒の涙が溢れ出し、私の泥だらけの頬にポタポタとこぼれ落ちた。
私自身が記憶も思い出も消し去り、完全な赤の他人として、憎むべき敵として立ち塞がったはずの彼女。
頭では私のことを何も覚えていないはずなのに。彼女の魂の奥底だけが、私がこの数千万回のループで一人抱え込んできた、発狂するほどの孤独と激痛に無意識に共鳴し、自分でも理由が分からないまま泣きじゃくっていたのだ。
ああ……なんて温かいんだろう。
冷たい血の池と、鋭い刃の痛みしか知らなかった私にとって、彼女の体温と、微かに香る甘い花の匂いは、狂いそうなほど優しくて、眩しかった。
こんな風に誰かに抱きしめられるのは、あの日、学園のカフェで二人きりで笑い合った、あの平和な日常以来だ。
もう、悪党の仮面を保つ気力すら残っていなかった。
痛みに歪んでいた私の口元から、ずっと心の奥底に封じ込めていた、ちっぽけで情けない本音が、ふっとこぼれ落ちた。
「……友達の、ままじゃ……貴女を、守れなかった、から……」
たとえ君の記憶から私が消えても。世界を敵に回して、貴女に一番憎まれてでも、私は貴女を生かしたかった。
私のその微かな、血の混じった呟きが、ルミナの耳に届いたのかどうか。
――カァン、カァン、カァン。
神殿の冷たい空気を震わせるように、運命の『深夜0時』を告げる鐘の音が、戦場に静かに響き渡った。




