落ちこぼれの私と、天才聖女の貴女
あの日、まだ私は『死に戻り』の呪いも、自らの喉を掻き切る激痛も、血の味すらも知らなかった。
王立魔法学園。
国中から優秀な魔法使いの卵たちが集まるこの学び舎は、魔力こそが絶対的な価値を持つ小さな世界だ。
春の柔らかな日差しが降り注ぐ中庭では、色とりどりの魔法の光が宙を舞い、生徒たちの誇らしげな笑い声が響いている。
その中で、私はいつも一人だった。
「……また、失敗か」
誰もいない旧校舎の裏手。枯れ葉が吹き溜まる日陰で、私は自分の手のひらを見つめて短く息を吐いた。
黒髪を無造作に束ねたポニーテールに、首元まで隠れる地味な制服。そして、いくら意識を集中させても、私の手から魔法の光が灯ることはない。
魔力ゼロの落ちこぼれ。
それが、この学園における私の評価のすべてだった。
親の伝手でどうにか入学できたものの、実技の授業では常に笑い者にされ、座学でいくら満点を取っても「魔法が使えないなら意味がない」と嘲笑われる日々。
期待することも、傷つくことすらも諦めて、ただ息を潜めて卒業までの時間をやり過ごす。それが私の日常であり、私の世界のすべてだった。
「――あ、見つけた!」
不意に、鈴を転がすような澄んだ声が降ってきた。
顔を上げると、そこには信じられないほど美しい少女が立っていた。
透き通るような銀髪が、春の風にふわりと揺れる。空の青をそのまま溶かしたような瞳が、日陰に座り込む私を真っ直ぐに見つめていた。
特待生だけが着ることを許される、純白の清楚な神官服。
ルミナだ。
学園トップの成績を誇り、いずれ世界を救う『聖女』になると噂される天才優等生。
常に大勢の取り巻きに囲まれ、光のど真ん中を歩く彼女が、なぜこんな日陰にいるのか。
「……私に何か用?」
警戒心から、つい声が低くなる。同情か、それともからかいに来たのか。無意識に体を強張らせる私を気にする素振りも見せず、ルミナは小走りで駆け寄ってくると、私の目の前でしゃがみ込んだ。
「あなた、ノアさんよね? ずっと探していたの」
「探してた……? 私を?」
「ええ。これ、落としていたわよ」
ルミナが差し出したのは、私が図書室で借りていた、古い魔法陣の基礎理論の分厚い本だった。
さっき、同級生たちに「魔力もないのにこんな本読んでどうするの?」と取り上げられ、そのままどこかへ投げ捨てられてしまったものだ。
「土で汚れちゃっていたから、少し拭いておいたわ。……すごく綺麗に読んでいるのね。付箋もいっぱいで、ノアさんがどれだけ一生懸命勉強しているか、伝わってきたわ」
ルミナはふわりと、春の陽だまりのように笑った。
その笑顔に向けられた、一切の裏表がない純粋な好意に、私は戸惑いを隠せなかった。
「……ありがとう。でも、無駄な努力だよ。魔法陣の理論をいくら完璧に暗記したところで、私にはそれを起動する魔力が一滴もないんだから。ただの、出来損ないだよ」
自嘲気味に笑い、本を受け取ろうと手を伸ばした時。
ルミナの青い瞳が、ハッと見開かれた。
「ノアさん、その手……!」
私の手の甲には、同級生に本を奪われた時についた、擦り傷のような赤い切り傷があった。大した怪我じゃない。こんなもの、いつものことだ。
「あ、これ? 平気、すぐ治るか……」
「ダメよ、ばい菌が入っちゃうわ」
私が手を引っ込めるより早く、ルミナの白く細い手が、私の傷ついた手をそっと包み込んだ。
途端に、彼女の手のひらから淡い緑色の光――治癒魔法の光が溢れ出す。
――温かい。
それは、私にとって生まれて初めて触れる『魔法』の温もりだった。
他人の魔法は、いつも私を傷つけるものか、私を突き放すものだった。けれど、ルミナの光は違った。春の陽だまりのように優しく、私の傷だけでなく、冷え切っていた心の奥底までじんわりと溶かしていくような、そんな絶対的な安心感があった。
数秒後、光が収まると、手の甲の傷は跡形もなく消え去っていた。
「……どう? 痛くない?」
「うん……痛くない。すごいね、さすが未来の聖女様だ」
「ふふ、聖女なんて大げさよ。私はただ、目の前で痛い思いをしている人を、放っておけないだけ」
ルミナは少し照れくさそうに笑って、私の隣、土で汚れるのも構わずにペタンと座り込んだ。
「ねえ、ノアさん。私、あなたのことすごいなって思っていたの」
「……からかってるの?」
「ううん、本気よ。実技の授業でみんなに笑われても、あなたは絶対に目を逸らさない。誰よりも真剣に、魔法の構造を観察している。魔力がないからって腐らずに、自分にできる努力を静かに続けている。……私には、ノアさんの方がずっと強く見えるわ」
その言葉に、私は息を呑んだ。
誰も見ていないと思っていた。誰も、私のことなんて認めてくれないと思っていた。
でも、この光のように眩しい少女だけは、ずっと私を真正面から見てくれていたのだ。
「私、あなたのこと、もっと知りたいな。もしよかったら……これからお友達になってくれない?」
差し出された、白くて小さな手。
私は戸惑いながらも、恐る恐るその手を握り返した。
「……私なんかで、よければ」
それが、すべての始まりだった。
落ちこぼれの私と、天才聖女のルミナ。正反対の私たちは、あの日からずっと一緒に過ごすようになった。彼女といる時間は眩しくて、温かくて、私は生まれて初めて「明日が来るのが楽しみだ」と思えるようになった。
彼女は、何もない空っぽだった私に与えられた、たった一つの奇跡だった。
だからこそ――。
この数年後、彼女がその優しすぎる性格と『聖女』という運命のせいで、世界の悪意に晒され、私の目の前で無惨に命を散らすことになった時。
私は迷わず、世界を敵に回すことを決めたのだ。
例えこの先、何万回自らの首を掻き切り、数え切れないほどの血を吐くことになろうとも。
例え彼女に「最強最悪の敵」と憎悪され、あの日私を救ってくれたあの優しい光で、私自身を焼き尽くされる運命が待っていようとも。
この美しく純粋な始まりを守れるなら、私の命なんて、いくらだって投げ出してやる。




