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完璧に整った盤面と、狂った笑み

崩壊する神殿の中、私は血と煤にまみれた黒髪のポニーテールを揺らし、刃こぼれした小刀を構えて笑ってみせた。


「さあ、おいでよ聖女様。世界で一番の悪党は、ここだよ」


私の目の前に立つのは、透き通るような銀髪をなびかせた世界一の聖女、ルミナ。

そして彼女を護るように両脇を固めるのは、かつての親友――レクトとエレンだ。


「黙れ、ノア! 貴様が世界に撒き散らした絶望、俺の剣で断ち切るっ!」


レクトが血走った目で咆哮し、身の丈ほどある大剣を上段から振り下ろす。刀身に宿るのは、彼が血のにじむような修行で会得した闘気の大技【獅子王の剛剣】。直撃すれば神殿の床ごと叩き割る一撃だ。

だが、私は小さく息を吐き、右へ半歩だけスライドした。轟音と共に石畳が粉砕されるが、私の髪の毛一本すら掠っていない。力任せの踏み込み。予備動作の大きさ。数千万回死に覚えた私にとっては、止まって見える。


「レクト、下がって! 【千の氷結刃】っ!!」


エレンが血を吐くような悲鳴と共に、彼女の持つ最大火力の広域魔法を放つ。視界を埋め尽くすほどの氷の槍が、全方位から私を串刺しにしようと殺到した。


「――ッ、浅い」


私は小刀を弾き、飛来する氷の槍の『魔力の結節点』だけをピンポイントで叩き割り、最小限の動きで弾幕の嵐をすり抜けた。冷気が頬を掠め、かすり傷から血が滲む。


「なんでよ……っ! 魔力も使ってないのに、どうして私の最上位魔法が通用しないのよっ! この、化け物ぉぉっ!」


エレンが恐怖と悔しさに顔を歪め、ボロボロと涙をこぼしながら杖を握り直す。レクトもまた、全身傷だらけになり、息を絶え絶えにしながらも、決してルミナの前から退こうとしない。


「俺の命に代えても、お前だけはここで討つ! ルミナ、今だっ!」


二人の決死の足止め。それは、勇者パーティとして完成された、これ以上ない完璧な連携だった。かつて私が裏からこっそり石を投げて助けていた頃のひよっこは、もういない。

彼らが私という絶対悪に向ける凄まじい殺意と憎悪。すべては、私が望み、数千万回の死の果てに組み上げた最終盤面だ。

私がこの場で、すべての攻撃を一身に引き受ける。


「大悪党ノア……あなたの悪逆非道、ここで終わらせます!」


ルミナが前に歩み出て、杖を構える。眩い浄化の光が神殿を包み込む。

その凛とした青い瞳から、なぜか一筋の涙がこぼれ落ちたのを、私は見逃さなかった。記憶なんてないはずなのに、彼女の魂が、私が繰り返してきた痛みに反応しているのだろうか。


私は小刀を下ろし、ただ一人愛した親友が放つ、温かくて残酷な光に身を委ねた。

細胞の底から焼き尽くされるような激痛が全身を駆け巡る。声にならない絶叫が喉の奥で爆ぜた。

だが、肉体が崩壊していくその刹那。私の視界の端で「それ」が動いた。


背後の瓦礫の影から音もなく滑り出た、どす黒い靄のような暗殺者の刃。

大破した時計塔の針は、無情にも『23時55分』を指している。


――ああ、まただ。


「ルミナ、うし……ろ……っ!」


私が灰になりゆく喉から叫んだ瞬間。


「貴様の戯言など、もう誰が聞くかぁっ!!」


私に止めを刺そうと飛び込んできたレクトの怒声と、エレンの放った追撃の爆発音が、私の警告を完全に掻き消した。

私が完全に光の粒子に変わる直前、無防備なルミナの細い背中を、世界の悪意そのものである凶刃が深々と貫くのが見えた。

彼女の口から零れた赤い飛沫が、スローモーションのように宙を舞う。


(……違う。盤面が違ったんだ)


ルミナを失う絶望で、心臓が凍りつく。

私がすべてのヘイトを集めても、暗殺者たちは『聖女が魔法を放ち、勇者たちが私に気を取られる最も無防備な瞬間』を待っていたのだ。

私が正面から敵対しているだけではダメだった。次に私が立つべき場所は――ルミナの背後。あの凶刃を、私が後ろからその身に受けるしかない。


(次だ……次こそは、絶対に……!)


暗転。

意識が深い深い泥の底へと沈み込み、そして、強烈な吐き気とともに弾け飛


* * *


「オエェェッ!! ゲホッ、はぁっ、はぁっ……!」


猛毒と刃の幻肢痛にのたうち回りながら、私は神殿の床で跳ね起きた。

時計塔の針を見る。時刻は『22時55分』。

ルミナが刺された1時間前。勇者パーティが神殿に到着する直前の時間だ。


「……あいつら、どこだ」


私はふらつく足で立ち上がり、神殿の暗闇に目を凝らした。

ルミナの背後を取った、あのどす黒い靄のような暗殺者。

あいつらをこの1時間で見つけ出し、ルミナが来る前に皆殺しにすれば、盤面は修正できる。


私は影に溶け込み、神殿の瓦礫を這い回った。

だが、数十分探しても、敵の影すら掴めない。

それもそのはずだ。あの暗殺者たちは、私が『大魔法を発動する』と予告したこの神殿に、数日前から潜入し、完全に気配を同化させる魔法陣を敷いて息を潜めていたのだ。


「……チッ」


舌打ちをした瞬間。足元の石畳に微かな魔力の線が走った。


ドゴォォンッ!!


「が、はっ……!」


隠されていた起爆式の罠。私の右足が膝から下ごと吹き飛び、大量の血が噴き出した。

罠だ。あの暗殺者たちは、ルミナを殺すためのルートに、何重にも致死の罠を張り巡らせていた。

この完成しきった『死の迷宮』の中で、あと数十分で暗殺者を全員見つけ出して殺すなど、物理的に不可能。


「あは、ははっ……!」


私は吹き飛んだ自分の足を見下ろしながら、乾いた笑いを漏らした。

1時間じゃ、足りない。

私が1時間前に戻ったところで、すでに神殿は奴らの罠と気配遮断の結界で埋め尽くされている。この1時間に囚われている限り、何度やり直してもルミナは背後から刺されて死ぬ。

仕掛けられた魔力の痕跡の古さから見て、奴らがこの神殿に罠を張り巡らせたのは……おそらく3日前だ。


「……なら、壊すしかない。盤面ごと、全部」


私は震える手で、懐から猛毒の小瓶を取り出した。


奴らがこの神殿に罠を張り巡らせる前に戻る。

つまり、3日前。

72時間前まで遡って、神殿に近づく暗殺者どもを、外周で一人残らず出待ちして皆殺しにする。


72時間。つまり、ここから立て続けに、72回の連続自害。

最終決戦の直前に、狂いそうなほどの激痛を72回、連続で自分の脳髄に叩き込む。

たかが72回。今まで数千万回繰り返してきたことに比べれば一瞬だ。だが、疲労困憊の今の肉体と精神には、とどめを刺すには十分すぎる地獄の数字だった。


「……望むところよ」


私は猛毒を一気に飲み干し、残った左手で小刀を喉元に突き立てた。


「ッ、ァ、ああああああああっ!!」


肉を裂き、気管を断ち切る。

意識が暗転する。

目覚める。毒を飲む。首を斬る。

目覚める。毒を飲む。腹を裂く。


一回死ぬごとに、ルミナの笑顔が脳裏をよぎる。

痛い。痛い痛い痛い。もう嫌だ。休みたい。

でも、私が休めば苦痛は長引き。私が痛みにビビれば、彼女が死ぬ。


「ルミナぁっ……! !」


私は自分の血の海の中で泣き叫びながら、72回、自らの命を絶ち続けた。


* * *


「……っっ!!」


72回目の浮遊感。

私は荒野の真ん中で、泥まみれになって嘔吐した。

時刻は、最終決戦の3日前の深夜。


「……はぁっ、はぁっ」


全身が鉛のように重い。一歩歩くごとに、内臓が千切れるような幻肢痛が走り、視界がぐらぐらと揺れる。

それでも私は、刃こぼれした小刀を杖代わりに立ち上がり、神殿へと続く一本道に立ち塞がった。


やがて、夜の荒野の向こうから、黒い靄を纏った暗殺者の一団が音もなく近づいてくるのが見えた。

3日後の夜に向けて、神殿に緻密な罠を仕掛けようと先行してきた部隊だ。


「……見つけた」


私は光のない瞳で、冷たく笑った。


「誰だ、貴様――」


暗殺者が言葉を発するより早く、私は地を這うような速度で距離を詰めた。

「遅い」

先頭の男の首を刎ね、噴き出す血を盾にして次の男の懐に潜り込む。

心臓を突き刺し、小刀を捻る。


「ヒィッ! な、なんだこの女! 動きが――がはっ!」


恐怖で陣形が崩れたところに、容赦なく死の連撃を叩き込む。

魔法も罠も使わせない。神殿に一歩も近づけさせない。

ルミナの背後を狙う可能性のある要素は、ここで一匹残らず、肉の塊に変える。


わずか数分後。

荒野の道には、二十人近い暗殺者たちの無惨な死体が転がっていた。


「……はぁ、はぁっ」


私は返り血で真っ赤に染まった小刀を振り払い、夜空を見上げた。

これで、神殿の中に伏兵はいない。罠もない。

3日後の深夜0時、神殿に現れるのは、ルミナたち勇者パーティと、正面から私を狙ってくる大部隊だけだ。


「盤面は、完璧に整った」


私はボロボロの体を引きずりながら、崩壊した神殿の祭壇へと歩を進めた。

あとは、私が最強最悪の大悪党として彼女たちの前に立ち、すべての攻撃を受け止めながら、最後の瞬間に『ルミナの盾』となるだけ。


「さあ、おいでよルミナ。私が、君の明日をこじ開けてあげるから」


私は一人、誰もいない神殿で、血塗れの顔に最高に狂った笑みを浮かべて、運命の夜を待った。

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