恐怖の魔神と、愛おしい手配書
「……おい、聞いたか? 西の軍事国家ルクスの第三砦が、たった一夜で壊滅したらしいぞ」
「あぁ、聞いたよ。しかも、やったのは軍隊じゃない。……たった一人の、黒髪の女だっていうじゃないか」
王都の片隅にある薄暗い酒場。
昼間だというのに、客たちの顔は一様に青ざめ、声を潜めてひそひそと噂話を交わしている。
「大聖堂で大司教様を暗殺した、あの『ノア』とかいう化け物だろ? 魔法も使わずに、刃こぼれした薄汚い小刀一本で、完全武装した騎士団を数百人規模で皆殺しにしたって……」
「おまけに、あの魔王軍の残党どもすら、今はあの女の恐怖に支配されてるって噂だ」
「ヒィッ……! まるで歩く厄災じゃないか。教会も、他国も、魔王軍すらも敵に回して、一体あの女は何が目的なんだ……?」
男が恐怖に震えながらジョッキを呷る。
酒場の壁には、一枚の手配書が貼られていた。
賞金額は『かつて厄災の魔王に懸けられた額の、実に十倍』。
歴史上類を見ない天文学的な賞金とともに描かれた、光のない瞳をした黒髪の少女の似顔絵を、人々は悪魔でも見るかのように怯えた目で見つめていた。
* * *
市民たちが私の噂で震え上がっている頃。
当の私は、噂の舞台となった西の軍事国家ルクス――その王城の地下深く、隠し牢獄の前に立っていた。
このルクス国は、表向きは教会と協定を結びながら、裏では『聖女ルミナの強大すぎる光』を自国の脅威と見なし、彼女を拉致・洗脳して生きた兵器にしようと企てていた。
過去のループで、私はこの国の放った特殊工作員によって、五百回はルミナを殺されている。だから、ルミナに牙を剥く可能性のある国は、徹底的に恐怖を植え付け、機能不全に陥らせる。
「ひ、ひぃぃっ……! 悪魔、来るなっ、バケモノォォッ!」
精鋭部隊の死体の山を越え、私が将軍の首を刎ねようとした瞬間。
地下牢獄の奥、厳重な封印扉が内側からドゴォォンッ! と吹き飛んだ。
『――愚かな人間どもよ。数百年ぶりの外の空気が、これほど血生臭いとはな』
周囲の空気が一瞬にして沸騰し、石造りの壁がドロドロと溶け始める。
現れたのは、体長五メートルを超える、全身が灼熱の溶岩で覆われた巨大な魔神。魔王軍最高幹部・『暴食』のバアル。
ルクス国が秘密裏に捕獲し、人体実験に使おうとしていた神話クラスの化け物だ。
『我を縛り、利用しようとした罪……我が業火で贖うがよい』
地鳴りのような低い声だけで、将軍は泡を吹いて気絶した。
圧倒的な威厳、途方もない魔力量。まさに『災害』そのものが受肉したような存在。
だが、私は小さく息を吐き、ポケットに手を突っ込んだまま、燃え盛る魔神に向かって退屈そうに歩き出した。
「暑苦しいね。邪魔なんだけど」
『……何奴だ、矮小な人間よ。貴様も我が炎で灰になりたいか?』
「ねえ。あんた、三百年前に当時の勇者に右胸のコアを砕かれてから、炎を錬成する時、無意識に左半身を庇う癖があるよね」
『……ナ、ニ?』
威圧的だったバアルの空気が、ピタリと止まった。
「それに、あんたのその炎。発火の起点は常に足元の影からだ。……過去のループで、あんたのその馬鹿げた炎に三千回は焼かれたから、嫌でも覚えちゃったよ」
『貴様、何を妄言を……消え失せよ!【神滅の業火】!!』
バアルが激昂し、地下空間を完全に蒸発させるほどの極大の炎を放つ。
だが、その炎が私を包み込むコンマ数秒前。
私はすでに、彼が『無意識に庇っている』左半身の死角――その巨体の足元へと、音もなく滑り込んでいた。
『なっ……!?』
私は刃こぼれした小刀を逆手に握り、魔神の左膝の裏にある『極小の魔力結合点』を、物理的に思い切り突き刺して、捻った。
パキィンッ! と、ガラスが割れるような音が地下に響く。
魔力の循環を物理的な楔で破壊されたバアルは、錬成していた炎を内部で暴発させ、自らの業火に焼かれながらズドーンと片膝をついた。
『ガ、ァァァアアアッ!? ば、かな……我が魔力回路が、ただの物理的な一撃で……!?』
「だから言ったじゃん。三千回死んで覚えたって」
私は倒れ込んだ魔神の巨大な顔の前に立ち、その燃える眼球の数センチ手前に小刀の切先を突きつけた。
威厳に満ちていたバアルの瞳に、初めて明確な『恐怖』が浮かぶ。
一切の魔力を持たないただの人間の少女が、自分を遥かに凌駕する『死の経験値』と狂気を孕んでいることを、本能で悟ったのだ。
「あんた、私のために少し働かない?」
私は小刀の切先で、魔神の頬をトントンと叩いた。
「魔王軍の残党をかき集めて、東の宗教国家で適当に暴れてきなよ。絶対に人は殺さなくていい。ただ、建物を壊して恐怖を煽るだけでいい」
『……何が目的だ?』
「そして、こう叫ぶんだ。『大悪党ノアが世界を灰にする。絶望したくなければ、お前たちの唯一の希望である聖女を全力で守ってみせろ』ってね」
バアルが、信じられないものを見るような目で私を見た。
「そうすれば、民衆は私を絶対悪として憎み、ルミナを『絶対に失ってはいけない世界の希望』として全力で保護しようとする。……もし、ルミナ自身にヘイトが向くような、例えば『聖女を差し出せ』なんて三流の脅し文句を1ミリでも匂わせたら」
私はにっこりと、最高に邪悪で冷たい笑みを浮かべた。
「あんたの本体が隠してある『魔界の第十三階層の最奥』まで行って、もう一度この小刀で細切れにしてあげるから。分かってるよね?」
『ヒッ!? わ、分かった! 貴様の言う通りにする! だから、それ以上は……っ!』
魔王軍の幹部すらも知り得ないはずの自分の最大の秘密を的確に突かれ、バアルの威厳は完全に砕け散った。彼は巨体を震わせながら、私の指示通りに「世界を絶望させるための舞台装置」となるべく、這うようにして逃げ出していった。
……これでいい。
魔神すらも恐怖で支配し、聖女の命を執拗に狙う、最強最悪の狂人。
私という絶対的な『悪』の存在が巨大になればなるほど、世界中の人間は私を恐れ、私を倒すことだけに全神経を注ぐようになる。
結果的に、ルミナに向けられていた各国のドス黒い暗殺計画は、すべて『打倒ノア』という共通の目的に上書きされ、彼女は世界一安全な『象徴』となるのだ。
「……っ、げほっ」
不意に、胃の奥から込み上げてきた血を吐き出した。
数十万回の自害の後遺症。体が悲鳴を上げている。
だが、まだ止まるわけにはいかない。
私はフラフラと歩き出し、地下牢獄を出て雨の降る夜の街へと出た。
ふと見上げた街角の掲示板には、雨に濡れた私の手配書が貼られていた。
(ふふ……大成功、だね)
世界中から恐れられ、嫌われ、命を狙われる。
それはつまり、ルミナがそれだけ安全になったという何よりの証明書だった。
私は手配書を愛おしそうに撫でると、誰にも知られることなく、漆黒の闇の中へと静かに溶け込んでいった。




