究極の絶望と、初対面の親友
王都の中心にそびえ立つ、白亜の大聖堂。
その日は、国中から集まった何万という群衆の熱気に包まれていた。
ステンドグラスから降り注ぐ光の下、祭壇に立つのは透き通るような銀髪の少女――ルミナだ。
『見よ、この汚れなき光を! 彼女こそが、神が我々に遣わした奇跡の聖女である!』
恰幅の良い大司教が、仰々しく両手を広げて演説をぶつ。
信者たちの歓声と祈りの声が堂内を震わせた。ルミナの隣には、彼女を護衛するために選ばれた学園のトップエリート、剣士のレクトと魔法使いのエレンが誇らしげに立っている。
かつて私が喉から手が出るほど欲しかった、彼女の隣という特等席。
だが、今の私に未練はない。
大聖堂の遥か上部、巨大なシャンデリアの影に身を潜めながら、私は冷たくその光景を見下ろしていた。
あの演説をしている大司教こそが、のちにルミナの暗殺を裏で手引きする最大の黒幕だ。彼をここで生かしておけば、また必ず暗殺の盤面が作られる。
(なら、世界で一番派手に、あいつの首を落としてあげる)
私は黒いコートのフードを深く被り、刃こぼれした小刀を逆手に構えた。
「――神の祝福が、世界を照らすであろう!」
大司教がルミナの頭上に王冠を掲げようとした、まさにその瞬間。
私はシャンデリアを固定していた太い鉄の鎖を、小刀で一刀の元に断ち切った。
ゴガァァァァンッ!!!
鼓膜を破るような轟音とともに、巨大なシャンデリアが祭壇の真ん中へと落下し、粉々に砕け散った。
悲鳴と土煙が舞い上がる中、私はその破片の雨に紛れて、音もなく祭壇へと着地した。
「な、何者だ貴様っ! 聖なる儀式を――」
大司教が青ざめて叫ぶが、遅い。
私は彼の言葉が終わるのを待たず、影のように距離を詰め、その肥え太った首筋に小刀を滑らせた。
ブシャァッ! と、不快な音を立てて血飛沫が舞う。
ルミナの純白の神官服の裾が、大司教の血で赤く汚れた。
「ひっ……大司教様っ!?」
「き、貴様ぁぁっ!!」
一瞬の静寂の後、大聖堂はパニックの坩堝と化した。
群衆が悲鳴を上げて逃げ惑う中、レクトがいち早く大剣を抜き放ち、私に向かって斬りかかってくる。
「聖女様から離れろ、賊があぁっ!」
「レクト、待って! 私が援護するわ、【氷結の槍】!」
エレンの鋭い魔法と、レクトの渾身の一撃。
勇者パーティの最高戦力による、完璧な連携攻撃。
だが。
「……遅いし、単調だね」
私は退屈そうに呟き、右足の重心をわずかにズラした。
エレンの氷結の槍が私の頬の数ミリ横を通り抜け、そのまま私の背後に迫っていたレクトの大剣の刃に激突する。
カキィンッ! という音とともにレクトの体勢が大きく崩れた。
何十万回と死に覚え、魔王の攻撃すら完封してきた私にとって、まだ実戦経験の浅い彼らの動きなど、スローモーションにも等しかった。
「なっ……俺の動きが、読まれて――がはっ!」
私はレクトの懐に潜り込み、その鳩尾に容赦のない蹴りを叩き込んだ。
肋骨が軋む音とともに、レクトが血を吐いて十メートル以上吹き飛び、大理石の柱に激突して気を失う。
「レクトっ!? 嘘でしょ、あいつの剣をあんな簡単に……っ」
エレンが恐怖に顔を引きつらせ、震える手で杖を構え直そうとする。
その詠唱が始まる前に、私はすでに彼女の目の前に立っていた。
「ひぃっ――」
「詠唱が長い。死にたいの?」
小刀の峰でエレンの側頭部を軽く叩き、彼女もまた糸が切れたように崩れ落ちた。
ほんの数秒。
次代の希望と謳われた勇者パーティが、魔法を一切使わないただの小柄な賊に、手も足も出ずに蹂躙されたのだ。
堂内を取り囲む聖騎士たちも、私のあまりの異常な身のこなしに、恐怖で足がすくんで動けない。
「……あ、あ……っ」
血だまりの中、ただ一人残されたルミナが、震えながら後ずさった。
その真っ直ぐな青い瞳が、恐怖と絶望で見開かれ、私を捉えている。
出会う前まで時間を遡ったのだ。彼女にとって、私は完全に『初対面の恐ろしい暗殺者』でしかない。
私を親友として慕ってくれた、あの温かい瞳はもうどこにもない。
胸の奥が、ギリリと音を立てて軋んだ。自害の痛みなんかより、何百倍も息が苦しい。
(でも、これでいい)
私はわざと残酷な笑みを浮かべ、ルミナに向かって一歩、歩み寄った。
「や、やめて……! 大司教様を、レクトさんたちをどうして……っ!」
ルミナは涙をボロボロとこぼしながら、倒れたレクトたちを庇うように私の前に立ち塞がった。
その手から、淡い緑色の治癒魔法が溢れ出そうとしている。
私に最大のトラウマを植え付けた、あの痛みの光。
幻肢痛で喉の奥から血の味がしたが、私は微塵も表情を変えず、彼女の鼻先で小刀の切先をピタリと止めた。
「どうして? 決まっているだろう。私は、お前たちが信じる神も、希望も、すべてを壊すために来たんだから」
私はわざと声を低くし、堂内の全員に響き渡るように告げた。
ただの狂人じゃない。絶対に倒さなければならない、知性的で絶対的な『悪』として。
「世界を救う聖女だか何だか知らないけどさ。私からすれば、お前らなんてただの脆いおもちゃだ」
ルミナの肩が、ビクッと跳ねた。
私は血の滴る小刀を振り払い、周囲の聖騎士たち、そして逃げ遅れた群衆を冷たく見回した。
「よく覚えておけ。今日からこの世界は、私が恐怖で支配する。逆らう者は、国家だろうが教会だろうが、一人残らずこの大司教と同じ肉の塊に変えてやる」
「悪魔……」
「化け物だ……!」
群衆から、恐怖の混じった呻き声が漏れる。
完璧だ。
教会の暗殺の黒幕は死に、そして「聖女の命」よりも優先して倒さなければならない『最強最悪の大悪党』が、今ここに誕生した。
これでもう、誰もルミナの暗殺なんか企てている余裕はない。世界中の悪意は、すべて私という標的に向けられる。
「私の名前は、ノア。……世界のすべてを滅ぼす、究極の絶望だ」
私はルミナの青い瞳を最後にもう一度だけ見つめ、ステンドグラスの枠を蹴って、王都の空へと飛び立った。
背後から聞こえる、彼女の悲痛な泣き声。
ごめんね。怖かったよね。君の大切なものを傷つけてごめん。
でも、君に世界一憎まれても、私が君の明日を守り抜くよ。
黒いコートをはためかせながら、私はついに引き返せない修羅の道へと、完全にその身を投じたのだった。




