彼女の瞳に、私が映らない
二千回目の喉を掻き切った激痛がスッと消え去り、肺に春の柔らかな空気が流れ込んだ。
全身を脂汗が濡らしている。幻肢痛でガチガチと鳴る歯を食いしばりながら、私は旧校舎の裏手――枯れ葉の吹き溜まりの物陰に身を潜めていた。
時刻は放課後。
1周目の世界で、そしてあの幸せだった昨日までの世界で、私がルミナと初めて言葉を交わした『運命の時間』だ。
「……」
私は息を殺し、壁の隙間からグラウンドへ続く小道を覗き込んだ。
やがて、春の陽射しを反射する透き通るような銀髪が、視界の端に揺れた。純白の神官服を着たルミナだ。
ドクンッ、と。
心臓が破裂しそうなほど大きく跳ねた。
今すぐ飛び出して、その細い体を抱きしめたい。昨日カフェで繋いだ小指の温もりを、彼女のあの花が咲くような笑顔を、もう一度私に向けてほしい。
(ダメだ。動くな)
私は自分の太ももに小刀を突き立て、物理的な痛みで狂いそうになる衝動をねじ伏せた。
『あなた、ノアさんよね? ずっと探していたの』
頭の中で、かつての彼女の声が再生される。
でも、現実の彼女は、私が落とすはずだった本を探すこともなく、ただ真っ直ぐに前を向いて歩いていく。
私の隠れている物陰になど見向きもしない。彼女の青い瞳に、私の姿は一ミリも映っていない。
「あ……」
ルミナの背中が遠ざかっていく。
ただの赤の他人として、交わることのない平行線として、彼女は私の世界から通り過ぎていった。
「……っ、ぁ、あああ……っ!」
ルミナの姿が見えなくなった瞬間、私はその場に崩れ落ち、音を殺して咽び泣いた。
喉を斬り裂く痛みがなんだ。内臓を溶かす毒の苦しみがなんだ。
そんなもの、今のこの地獄に比べれば児戯に等しかった。
彼女の瞳に、私が映らない。
彼女の記憶に、私という存在が何一つ残っていない。
私がすべてを投げ出して愛した親友は、もうこの世界のどこにもいないのだ。
自分の手で、数千回の死の果てに「無かったこと」にしたのだから、当然の報いだ。それでも――気が狂うほど、痛くて、辛くて、寂しかった。
「……ごめんね、ルミナ。君の隣は、あんなに暖かかったのにね」
私は地面に落ちた自分の涙を靴底で踏みにじり、立ち上がった。
もう振り返らない。今日から私は、彼女を理不尽に狙う『正体不明の大悪党』だ。
* * *
あの日、私は王立魔法学園から完全に姿を消した。
表向きは「魔力ゼロの落ちこぼれが、実技演習のプレッシャーに耐えきれず夜逃げした」という扱いで処理されたらしい。ルミナの記憶にすらない私の失踪など、学園の誰も気に留めなかった。
学園を出た私が向かったのは、人間の立ち入りを禁じられた危険地帯――魔王の領域の最前線だった。
私がルミナの命を狙うすべての悪意(教会の暗殺計画や過激派のテロ)をストップさせるには、ただの悪党ではダメだ。
『あいつを今すぐ殺さなければ、ルミナどころか世界が終わる』と、全人類を震え上がらせるほどの絶対的な恐怖の象徴にならなければならない。
そのためには、まず『厄災の魔王』を超えなければ話にならない。
「ガハッ……! 失敗、した……っ」
薄暗い瘴気の森。私は自らの胴体を真っ二つに両断され、血の海に沈んでいた。
目の前には、魔王軍の幹部である四腕の巨大な悪魔が、私を見下ろして嗤っている。
魔力ゼロの私が、魔族の最上位に挑むなど自殺行為だ。
だから、文字通り『自殺』した。
猛毒を飲み、喉を裂き、時間を1時間巻き戻す。
右の腕の薙ぎ払いが来るタイミング。左の魔法が飛んでくる軌道。
避ける場所を数ミリ単位で修正し、再び挑み、殺され、自害してやり直す。
「……百十二回目」
暗闇の森で跳ね起き、私は無表情のまま小刀を構えて悪魔に向かって歩き出した。
右の薙ぎ払いを屈んで避け、左の魔法を小刀の柄で弾く。悪魔が驚愕で目を見開いたそのコンマ数秒の隙に、私はその四つの腕の関節を正確に切り飛ばし、最後に巨大な喉笛を深く抉り取った。
「ギ、ギャァァァアアアッ!?」
断末魔の悲鳴とともに、魔王軍の幹部が灰となって崩れ去る。
私はその灰を無感動に見下ろしながら、小刀の血を振り払った。
こんな殺し合いを、学園を出てから数年間、狂ったように繰り返してきた。
魔王軍の先兵、上位の魔将、そして魔王の居城を守る近衛兵団。
自分の肉体を何十万回とすり潰し、発狂するほどの激痛と引き換えに、私は『敵のすべての行動パターン』を脳髄に焼き付けた。
筋力も魔力もない。ただの凡人。
だが今の私なら、玉座に座る魔王の首すら、無傷で物理的に落とせる自信があった。何十万回も魔王の動きを死に覚えした私にとって、最強の魔王でさえ「ただの巨大な的」でしかない。
「……でも」
私は血塗れの自分の手のひらを見つめ、ギリッと奥歯を噛み締めた。
「まだ、足りない」
魔王を倒せる実力を手に入れた。
だが、それではダメなのだ。私がただ魔王の首を落としてしまえば、私は『世界を救った狂気の英雄』になってしまう。
ルミナの暗殺を企む教会の腐敗したシステムは、英雄の手の届かない裏側で、結局ルミナを「用済みの聖女」として処理し続けるだろう。
私がならなければならないのは、教会すらも泣き叫んで逃げ出す『最強最悪の敵』だ。
魔王なんて、ただ力が強くて人間を襲うだけの分かりやすい化け物でしかない。
世界中の人間が本能から恐怖し、すべてのヘイトを私一人に向けさせるには、力だけでは圧倒的に足りないのだ。
(もっと残虐に。もっと狡猾に。世界のシステムそのものを徹底的に破壊する、邪悪なカリスマが必要だ)
私は暗い森の奥で、ドス黒い炎のように冷たく笑った。
まずは、ルミナを神輿にしている『教会』から血祭りに上げよう。
そして、ルミナの周りにいるレクトやエレンたち『勇者パーティ』を完膚なきまでに叩きのめし、彼女の心を誰よりも深くえぐり取るのだ。
「待っててね、ルミナ。君の愛する世界ごと、私が全部メチャクチャにしてあげるから」
私は黒いフードを深く被り、最強の力を手に入れた最弱の凡人は、ついに『大悪党』として表舞台への一歩を踏み出した。




