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最後の日常と、最後の覚悟

鏡に映る自分を見つめ、私は静かに制服のネクタイを締めた。


私がこの世界で大悪党として君臨し、すべての悪意を自分に釘付けにする。それが、世界そのものの運命からルミナを救うための、たった一つの解。

明日には、私は学園から姿を消し、誰もが震え上がる最強最悪の敵として、裏社会を恐怖で支配し始める。


だから今日だけは。

この穏やかな学園生活の、最後の一日だけは、ただの『ノア』として彼女の隣で笑っていたかった。


「ノア、おはよう!」


寮を出ると、春の陽射しの中でルミナが手を振っていた。

純白の神官服。透き通るような銀髪。

その眩しすぎる笑顔を見るだけで、胸の奥がギュッと締め付けられる。


「おはよう、ルミナ。今日もいい天気だね」


私はいつものように微笑み返し、二人で並んで歩き出した。


* * *


午前の実技演習。

グラウンドでの模擬戦の最中、またしても私を嘲笑う声が響いた。


「おい、魔力ゼロの落ちこぼれ! そこに突っ立ってると危ないぜぇ!?」


嫌味な笑いを浮かべた貴族出身の男子生徒が、わざと狙いを外し、私に向かって中級の【風のウィンド・カッター】を放ってきた。

普段の私なら、悲鳴を上げて無様に泥の中へ転がり、怯えたフリをしていただろう。

だが、もうそんな無意味な着ぐるみを被る必要は、一秒もない。


「……あーあ」


私は小さく息を吐き、飛来する不可視の風の刃に向かって、一歩前へ踏み出した。


「なっ……!?」


私は避けることすらしない。

風の刃が私の首を刎ねるコンマ数秒前、私は持っていた木製の模擬短剣を、空中の『何もない空間』へと無造作に突き出した。

パキィンッ!!という甲高い音とともに、風の刃が霧散する。


魔法の術式を構成する、魔力結合の最も脆い結節点。数十万回の死の果てに、すべての魔法の構造を視覚化できるようになった私にとって、魔法を物理で『へし折る』ことなど造作もなかった。


「う、嘘だろ……魔法を、ただの木の短剣で……っ!?」


驚愕で固まる男子生徒の懐に、私は次の瞬間、音もなく潜り込んでいた。


「ひっ――」


彼が防御魔法を詠唱しようとするが、遅すぎる。

私は彼の足首を軽く払って体勢を崩させ、彼が背中から地面に倒れ込むのと同時に、その喉仏の数ミリ手前に模擬短剣の切先をピタリと止めた。


「詠唱の前に、右肩が下がる癖。それに魔力制御の時に瞬きが増える。……実戦なら、今ので君は八回死んでるよ」

「あ……あ、ぁ……」


男子生徒は恐怖で顔を青ざめさせ、ガチガチと歯を鳴らした。

グラウンドが、水を打ったように静まり返る。魔力ゼロの落ちこぼれが、上位の生徒を魔法すら使わずに完全に制圧したのだ。


「ごめんね、先生。ちょっと体調が悪いから、今日の午後は早退するね」


私は短剣をぽいっと放り捨て、呆然とする生徒たちを一瞥もせずに背を向けた。

もう二度と戻らない場所だ。最後に少しだけ、溜まっていた鬱憤を晴らすくらい許してほしい。


「ノ、ノア……!」


ルミナが、小走りで私を追いかけてきた。

彼女の青い瞳は驚きに見開かれていたけれど、そこに恐怖や嫌悪の色はなかった。


「今の、凄かったわ……! ノア、あんな動きができたのね」

「ふふ、ちょっと昔に護身術を習っててね。……ねえ、ルミナ」


私はルミナの手をそっと取り、真っ直ぐに彼女の目を見つめた。


「午後、二人で王都に遊びに行かない? 授業なんかサボってさ」

「えっ? で、でも……」

「お願い。どうしても、ルミナと一緒に行きたい場所があるんだ」


真剣な私の声に、ルミナは少しだけ戸惑った後、ふわりと優しく微笑んだ。


「……うん、分かった。ノアと一緒なら、たまには不良になっちゃうのもいいわね」


* * *


私たちが向かったのは、王都の裏通りにある、小さな隠れ家のようなカフェだった。

焼きたてのパンケーキと、甘い紅茶の香りが漂う店内。


『ごめん、ね……。いっしょに、カフェ……いけなく、なっちゃった……』


数万回のループの始まり。1周目の世界で、暗殺者の凶刃に倒れたルミナが、最後に血を吐きながら私に遺した言葉。

あの日果たせなかった約束を、どうしても今日、この平和な時間の中で叶えたかったのだ。


「わぁっ……! すっごく美味しい! ノア、このお店どうやって見つけたの?」


口いっぱいにパンケーキを頬張り、幸せそうに頬を緩めるルミナ。

その笑顔があまりにも綺麗で、尊くて。

私は紅茶のカップを両手で包み込みながら、彼女のその顔を、脳髄の奥底に焼き付けるように見つめ続けた。


「ねえ、ノア。魔王を倒して、世界が本当に平和になったらさ」


ルミナが、フォークを置いて少しだけ照れくさそうに笑う。


「またこのカフェに来ようね。今度は、レクトさんやエレンたちも一緒に。平和になった世界で、みんなで笑いながら、ずっとずっと……」


「え……?」


私の思考が、一瞬だけ真っ白にフリーズした。

レクトたちと、一緒に?


私の頭の中で、血まみれのルミナが息絶えたあの夜の記憶がフラッシュバックする。

あの約束は、私とルミナ、二人だけのものじゃなかったの? 君が最後に思い浮かべたのは、私だけじゃなかったの?

……いや、違う。ルミナは『聖女』なのだ。彼女の愛は、いつだって世界中のすべての人に等しく注がれている。

彼女の描く温かい未来には、私だけじゃなく、レクトもエレンも、学園のみんなもいるのが当然なのだ。


それに比べて、私はどうだ。

私の世界には、ルミナしかいない。ルミナ以外がどうなろうと知ったことじゃない。

この決定的な温度差。すれ違い。


(……あぁ、そうか)


私はカップに視線を落とし、自嘲気味に口角を上げた。

やっぱり、私は彼女の隣にいるべき人間じゃない。

彼女の純粋で真っ白な光の隣に、私のようなドス黒い執着の塊がいていいはずがないのだ。


「……うん。そうだね、ルミナ」


私は必死に声を震わせないようにして、笑い返した。

この歪なすれ違いこそが、私に最後の覚悟を決めさせてくれた。


* * *


その日の夜。

夕闇に沈む学園の寮。私は一人、冷たい床の上に座り込んでいた。


明日から私が姿を消し、ルミナを狙う悪党になったら、彼女はどう思うだろうか。

『親友のノアが、悪の道に堕ちてしまった』

心優しい彼女のことだ。きっと傷つき、泣きながら、私を救おうと手を差し伸べてしまうだろう。

それは、彼女の最大の弱点になる。

私が『ルミナの親友』であったという事実そのものが、彼女に余計な悲しみを背負わせ、世界の悪意に付け入る隙を与えてしまう。


「……ダメだ。友達のままじゃ、完璧な『世界の敵』にはなれない」


私はゆっくりと立ち上がり、裏ポケットから刃こぼれした小刀と、猛毒の小瓶を取り出した。


今日、一緒にカフェに行けた。

彼女の美味しそうに笑う顔を見られた。1周目の呪いのような遺言を、私の心の中だけで、美しい思い出に上書きすることができた。

それで十分だ。この幸せな記憶は、私一人が地獄へ持っていけばいい。


「ルミナ。君の心の中にいる『親友のノア』は、今日で殺すよ」


私が戻るべきは、明日ではない。

数ヶ月前。あの旧校舎の裏で、彼女が私の本を拾い、初めて言葉を交わす『前』の時間。

私たちは、出会ってはいけなかった。

最初から彼女に一切の執着を持たれない、ただの『見知らぬ赤の他人』として、そして理不尽に彼女の命を狙う『正体不明の大悪党』として、盤面を一から作り直さなければ。


数ヶ月。約二千時間の巻き戻し。

つまり、ここから再び、二千回の連続自害の地獄が始まる。


「……安いもんだよ」


今日カフェで見た彼女の笑顔を脳裏に焼き付け、私は躊躇いなく猛毒の小瓶を一気飲みした。


「ッ、ァ、ああああああああっ!!」


煮えたぎる鉄を飲まされたような激痛。

私は自分の血と胃液の海でのたうち回りながら、小刀を自らの喉元に突き立てた。


この幸せな今日という一日を。

彼女と手を繋いだ温もりを。

『友達になって』と言ってくれた、あの眩しい奇跡を。


二千回の激痛とともに、私の手で、なかったことにする。


「さようなら、私の大好きな聖女様――」


ブチッ、と。肉を裂く音。

血の泡とともに意識が暗転する。

目覚める。毒を飲む。首を斬る。

目覚める。毒を飲む。首を斬る。


たった一人の少女を救うため、最強最悪の大悪党となるべく、私は二千回の血と激痛の底へと、自らすべての大切な思い出を捨て去っていった。

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