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ただの凡人と、最強最悪の敵

「ノア、また難しい顔をして本を読んでいるの?」


放課後の図書室。

窓際の席で分厚い歴史書に顔を埋めていた私に、ルミナがふわりと微笑みながら声をかけてきた。

春の陽射しを反射する銀髪と、穢れを知らない純白の神官服。彼女の胸元には、教会のシンボルである小さな銀の十字架が揺れている。


「うん、ちょっと古い時代の魔法陣を調べてて。ルミナは祈りの時間は終わったの?」

「ええ。大司教様からのお手紙が届いたから、そのお返事を書いていたのよ」


ルミナは私の向かいの席に座り、嬉しそうに目を細めた。


「教会の方々は、本当に皆さんお優しいの。身寄りのない私を引き取って、学園にまで通わせてくれて……『ルミナのその優しい光は、いつか世界を救う神様の贈り物だから、大切に育てなさい』って」


純粋な信仰と、自分を育ててくれた教会への無条件の信頼。

彼女のその言葉を聞くたびに、私の胃の奥で冷たい泥が渦を巻くような感覚に陥った。


「……そっか。教会の人たちは、優しいんだね」

「うん! いつか私が立派な治癒術師になったら、教会に恩返しがしたいな」


屈託のない彼女の笑顔に「うん」と頷き返しつつ、机の下で、私は自分のスカートの布地をギリッと握りしめていた。

私の制服の裏ポケットには、昨夜、地下の暗殺ギルドから奪い取った『証拠品』が入っている。

教会の裏金として特別に鋳造された純金貨と、暗殺依頼書の封蝋に染み付いていた神聖な『乳香フランキンセンス』の香り。ルミナに甘い言葉を囁きながら、裏で彼女を殺すために動いているのは、彼女が信じて疑わない教会だ。


* * *


その日の深夜。

私は黒いフードを深く被り、王都の中心にそびえ立つ『大聖堂』の地下深く――異端審問官と上位聖職者しか入れない禁書庫へと潜入していた。


「……四番目の結界。魔力探知の網の目は、床から三十一センチの高さに、ほんの数秒だけ直径十センチの死角ができる」


私は息を止め、体操選手のように体を不自然に捻りながら、見えない魔力の網の目を物理的に潜り抜けた。

魔法解除なんて高度なことはできない。だが、数万回のループの中で、警報に触れて丸焦げにされたのが百十五回、見張りの聖騎士に両断されたのが八十回、毒ガスで気管を焼かれたのが二百回。

血と激痛で支払った『入場料』のおかげで、今の私はこの大聖堂のすべての罠のタイミングを、時計の針よりも正確に把握していた。


音もなく最後の扉の物理錠をピッキングで開け、禁書庫の最奥へと足を踏み入れる。

私が探していたのは『過去の聖女たちの極秘記録』だ。厳重な鉄の箱を小刀でこじ開け、古びた羊皮紙の束を引きずり出した。


「……やっぱり」


パラパラと記録に目を通した私の喉から、乾いた笑いが漏れた。

歴史上、ルミナの他にも存在した『聖女』たち。表の歴史書には美しく「神の元へ召された」と記されているが、そこにあったのは冷酷な『処分記録』だった。


そして、その報告書の隅には、大司教の印と共に恐ろしい事実が記されていた。


『――対象の奇跡により、民衆の支持が教会の絶対的権威を脅かす危険値を突破。これ以上の生存は教会の政治的基盤を揺るがすと判断し、魔王討伐の成否に関わらず”殉教者”としての早期処理を決定する』


「……ふざけんな」


私は羊皮紙を握りつぶした。

教会にとって、圧倒的な力で世界を救い、民衆から熱狂的に支持される『生きた聖女』は、自分たちの権力と信仰を奪いかねない最大の政治的脅威なのだ。

だから彼らは、民衆の支持が集まりすぎた時点で聖女を暗殺し、「悲劇の殉教者」として永遠の偶像アイドルに仕立て上げる。魔王が倒されていようがいまいが関係ない。生きているより、死んで綺麗なシンボルになってくれた方が都合がいいから。


あの森でルミナが放った広域の完全回復魔法。あの日、彼女に民衆の熱狂的な支持が集まってしまった瞬間から、教会による暗殺計画はスタートしていたのだ。


「なら、盤面の元凶を潰すだけだ」


私は冷たい怒りとともに、禁書庫を後にした。

その日から、私はループの力を使い、数え切れないほどの血を流しながら、教会の腐敗した上層部と暗殺組織の中枢を一人残らず狩り尽くした。

ルミナの暗殺計画に加担していた大司教も、異端審問官も、すべて私の刃こぼれした小刀の錆にした。


「……終わった」


血の海と化した大聖堂の隠し部屋で、私は荒い息を吐きながら床に座り込んだ。

ルミナを殺そうとしていた元凶は、これで完全に消滅した。教会からの暗殺の脅威はもうない。

これでようやく、彼女は死の運命から解放される。魔王討伐の旅も、今度こそ平和に終わるはずだ。


私はボロボロの体を引きずって寮に戻り、泥のように眠った。

そして翌日。私は憑き物が落ちたような晴れやかな気持ちで、ルミナたちと共に魔王討伐の旅へと出発したのだ。


……だが。

私が教会の脅威を排除したことで『ハッピーエンド』を迎えられると思っていたあの希望は、旅の途中で無惨に打ち砕かれることになる。


「ルミナっ!!」


私の目の前で、ルミナの胸から血の華が咲いた。

教会からの刺客ではない。国境の街を通りかかった際、聖女の圧倒的な力を恐れた隣国の過激派スパイが、群衆に紛れて放った凶弾だった。


「なんで……っ!」


私は絶望に叫びながら猛毒を飲み、時間を遡った。

スパイの配置を先回りして全員殺した。これで今度こそルミナは助かる。


だが、次のループでは、別の街で『魔力至上主義』の狂信的なカルト教団が「魔王の前に聖女を供物にする」と自爆テロを仕掛けてきた。ルミナは爆発に巻き込まれて木端微塵になった。


喉を掻き切り、再び時間を遡る。

カルト教団を潰した。

すると今度は、彼女の力を妬んだ地方貴族が雇った傭兵団の毒矢がルミナを貫いた。

毒矢を防ぐと、次は野盗の群れが、次は魔王軍の残党が、次は、次は、次は――。


「あ、ぁ……っ、うそ、でしょ……」


私は自分の血の海の中でのたうち回りながら、完全に心がへし折れる音を聞いた。

教会を潰せば終わるなんて、甘かったのだ。


ルミナは、圧倒的な光だ。

その眩しすぎる光は、力を持つがゆえに世界中のあらゆる勢力から目をつけられる。

利用しようとする者、恐れる者、妬む者。彼女が『聖女』という肩書きを背負って存在している限り、教会の暗殺者がいなくなっても、絶対に別の誰かが彼女を殺しに来る。


終わらない。教会上層部を全滅させても、暗殺ギルドを潰しても、過激派を皆殺しにしても。モグラ叩きのように、次から次へとルミナの命を奪う悪意が世界中から湧いてくる。

まるで、世界のシステムそのものが『完璧すぎる聖女』というバグを修正ころそうと、絶対的な死の運命へと収束させているように。


「……あは、ははっ……」


血反吐を吐きながら、私は笑った。

どうしようもない。避けられない。私がどれだけ裏で暗躍して敵をプチプチと潰したところで、世界中から無限に湧いてくる殺意をすべて防ぎ切ることなんて不可能だ。


なら、どうすればいい?

世界そのものが敵だというなら、私が、どうやって彼女を救えばいい?


薄れゆく意識の中で、ルミナの笑顔がふわりと浮かんだ。

『いつかあなたの心まで癒やせる、本当のヒーラーになるって誓うから』


……あぁ、そうか。

簡単なことだった。


世界中がルミナの命を狙おうとするなら。

私という存在が、魔王すらも霞むほどの、世界を滅ぼす『最強最悪の絶対的脅威』になればいいのだ。


教会も、過激派も、カルト教団も。ルミナに構っている余裕なんて一秒もなくなるくらい、私が世界中の人間を恐怖のどん底に叩き落として、すべての憎悪と殺意を私一人に釘付けにすればいい。


そのためには、私はただの凡人ノアであることを捨てなければならない。

彼女を誰よりも傷つけ、彼女の最大の敵として立ち塞がり、ルミナ自身に私を憎ませる。

『聖女が倒すべき、世界一の大悪党』として、運命の最終決戦(深夜0時)まで彼女たちを私に釘付けにするために。


「ごめんね、ルミナ……」


再び時間を遡るための激痛に耐えながら、私は音を立てずに泣いた。

もう彼女と、一緒に笑い合うことはできない。

この日、ただの落ちこぼれだった『ノア』は完全に死んだ。


ここから始まるのは、たった一人の親友を救うために世界すべてを敵に回し、数万回の死の果てに最強最悪の敵へと至る、狂気と自己犠牲の物語だ。

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