5
五、
シェフチェンコは学校から帰ってきた家の中で、恐ろしい光景を見ていた。
それはあたかも、壁一面をスクリーンにしたアクション映画を見ているようであった。だがそれは映画ではなく、まぎれもない現実なのであった。
父親であるシンドレンコが、刀と思わせるような牛刀を振るっている男に襲われている場面が、目の前で繰り広げられているのだ。父親が映画に出たことがあるなどという話は聞いたことはなかった。だからこそ現実世界でこれが起きていることが理解できた。
シンドレンコは浮遊石の真価を知っているのか、迫って来るチャンの攻撃を避けながら、バグを修正するコードを打ち込み、その衝撃波をチャンへと当てた。
「俺のセキュリティはその程度じゃ超えられないぜ」
衝撃波を受けながらも、シンドレンコに向かい走りこんできたチャンの牛刀が肩を軽く切り裂いた。その牛刀についた血を見つめ、チャンは自らの頬へとそれを愛おしく塗った。
暴漢に襲われている父親を助けるべきか……。
シェフチェンコは迷っていた。ボクシングという戦いの経験はあった。しかしながらそれはルールに乗っ取ったものであり、あくまでもスポーツという枠を脱しえない戦いであった。グローブをつけ、素手ではない。それだけでも違いはあった。今、それがない状態で、しかも刃物を持っている相手に対して、どこまで抵抗できるのか……それを考えると、自らが出て行ってもどうなるものではないと身を潜めることしかできなかった。
チャンに再び衝撃波が当たった。だがシンゴドレンコが見ているチャンの頭上にあるソースの中のバグは、いっこうに無くなっていかなかった。これでは使徒の能力を消すために、どれだけの攻撃をすればよいのかわからない。シンドレンコは何か方法がないか、戦いの中で考えていた。
「結構バグの数が多そうだな」
「それだけ俺が強いって事さ」
思わず焦りから出たシンドレンコの言葉に、チャンが不敵な笑みを浮かべて答えた。
リビングの机や椅子が散乱している中で、向かい合っている父親と暴漢を見て、シェフチェンコは先ほどの考え通り戦うこと、そして傍観することよりも、逃げることを選択した。父親と対峙しているチャンにばれないように、そっと家の玄関を開け、そこからは後ろを振り返らず、一目散に外へと飛び出した。
まずは警察、そして兄と妹へ連絡をして家に近づかないようにすること、それが今一番はじめに、自らがやるべきことだと判断はできた。シェフチェンコは走って家から離れると、スマートフォンを取り出し、警察へと連絡をした。
「父親が、家で暴漢に襲われています」
冷静に努めようとしているが、そうはなり切れていないシェフチェンコは、受話器の向こうで受け答えをする警察になだめられるように、少しずつ状況や住所を説明していった。
シンドレンコの発する衝撃波が、再びチャンを捕らえた。今までの攻撃を考えると、これだけの衝撃波を与えれば、ほぼセキュリティを超えられるはず、シンドレンコはそう思っているが、いっこうにソースがなくなることはなかった。
「どうして」
シンドレンコは驚きを隠せずに、顔へ困惑の感情を浮かばせた。それは目の前にいるチャンの身体が少しだけ大きくなっているように思えたことも含まれていた。
「やっと俺の異変に気が付いたようだな」
再びシンドレンコを切りつけて牛刀へと着いた新たな血を、今度は腕へと塗り付けていった。先ほどよりも嫌味を増したチャンの不敵な笑みが、恐ろしく不気味な光をはなつようであった。
「異変があろうとなかろうと、何度でもセキュリティを突破してやるよ」
シンドレンコは覚悟を決めた視線を向け、再び修正コードを打ち込み、浮遊石から衝撃波を放ち、チャンへと当てた。その時に、修正されたコードが消え、その先のコードが浮かび上がるかと思いきや、先ほどのコードに更に直さなければならない文字が加わっていることに気がついた。
「もしかしてお前……」
先ほどまで何度となく打ち込んできた衝撃波が、セキュリティを無力化させるどころか、それによって更に複雑はコードを生んでいる可能性があることに気が付いた。シンドレンコは驚愕の表情を見せた。
「今頃気がついたのか」
チャンの不気味な笑みは、更に醜く見えるようにシンドレンコには思えた。
「俺のセキュリティはどんどん増えていくって事だ。増殖コードとでも言うべきかな」
不気味というよりも、気味の悪い笑みが更に大きくなっていくようであった。
「なぜ……修正者として目覚めたばかりの俺には、わからないって事か」
「さあな、俺もその辺は良くわからないんだよな。
まあお前らと違って俺たちの民族は倫理よりも、自らの欲望が優先ってことだからかもな。だからソースもセキュリティも自分勝手なのかもしれない。
俺だってどうしてこんな能力を持っているのか、自分でも理解はしてないのだから……。
まあそれでもいいんだ。お前たち修正者を殺すことができるならば」
牛刀がシンドレンコを襲った。間一髪で避けたはずであるが、シンドレンコは腹部に痛みを覚えた。
「もしかしてスピードも速くなっているのか」
「もしかしたらな。さっきも言ったように理由は俺もわからないよ。
ただお前が打ち込んでいる修正コードで、俺が成長しちまっているかもしれないって事は理解できているがな」
チャンはなりふり構わず牛刀を振るった。その度にシンドレンコの身体からは血が流れていった。
そんな時、二人の耳に警察車両のサイレンの音が聞こえてきた。
誰かが異変を感じ、警察に連絡をしてくれたのだろうとシンドレンコは思った。ただ警察が来たところで、この強力な使徒を押さえることができるのか……逆に犠牲者が増える可能性の方が多いのではないか……シンドレンコにはそれだけが不安であった。
「これ以上長引かせる意味はないってことか」
チャンが不気味な笑みを押さえ、真剣な眼差しをシンドレンコへと向けた。笑みよりも不気味な物がまだあったのか、シンドレンコの動きが一瞬止まった。そこへチャンは正面から、今までにないような速度で迫った。
目の前に来たチャンに衝撃波を与えようとするが、再びコードが変異してしまうのではないかと思うと、それを打ち込むことにためらいが生じた。その一瞬が、シンドレンコに取って命取りであった。
チャンは牛刀を思い切り振り下ろし、シンドレンコの喉仏へと突き刺した。目を見開くようにチャンを睨んだシンドレンコの喉から吹き出た血は、チャンへ襲い掛かるように降りしきった。
「これでまた俺のセキュリィが上あがるよ。ありがとうな」
笑みを浮かべるチャンは、倒れるシンドレンコにその表情を一瞬だけ見せると、窓の外を見た。その視線は一台のパトカーから二人の警察官が下りてくるのをとらえた。
「面倒なこと……いやそうでもないか」
チャンはゆっくりと家を出た。全身血まみれで牛刀を持っているチャンの姿を見た警察官たちは、銃を構えた。止まらなければ発砲するしかない。その思いに応えるかのようにチャンは銃を気にすることもせずに歩き続けた。
「止まらないと撃つぞ」
その言葉放ち、いつでも打つことができるように、警察官は指に力を入れたはずであった。だが二人の警察は自分の指が動かないことに気が付いた。
「君たちの腕は動かないよ」
チャンは不気味な笑みを浮かべながら警察官へと近づいていく。
自分たちの身体の異変に気が付いている警察官たちに緊張が走った。
牛刀を構えるチャンの眼が、警察をとらえた。
一人の警察官は足だけは動くと悟ったのか、チャンに対して蹴りを放った。しかしチャンは素早く動き、蹴りをよけると警察の首を牛刀で切り裂いた。血を噴き出して、驚愕の表情のまま一人の警察官が、切られた木々のように倒れた。
「お前」
もう一人の警察はなんとかしてチャンを抑えようと、体ごとぶつかる気で走ってきた。チャンはその身体をよけることもせず受け止め、牛刀を腹へ突き立てた。腹を突き刺した牛刀に視線を移し、呻くようにして警察官は倒れた。
「いいねぇ、残酷なことって」
チャンは嬉しそうな表情で呟いた。腹を刺された警察官の身体に刺さったままの牛刀を、チャンは思い切り引き抜いた。そこから血が大量に流れ出した。その傷を目掛けてチャンは蹴りを放った。まだ息のある警察官は痛みと共に呼吸ができなくなった。
「人が触れ伏すのを見るのって、気持ちがいいな」
チャンは吐き捨てるように笑みを浮かべて言うと、パトカーへと乗り込み、その場を去っていった。
「面会だ」
独房の中で本を読んでいた椛島に刑務官は声をかけた。椛島はゆっくりと本を閉じ、刑務官につれられるように面会室へと足を踏み入れた。そこには一人の見たこともない老人が座っていた。
「あんたは」
ぶっきらぼうに椛島は問いかけた。
「湯田といいます」
椛島に尋ねられ、湯田は自らの名前を述べた。薫と会った時に感じたような大気のうねりを湯田は椛島に感じた。この男にも自分が共鳴するような気がするのはなぜなのだろう。椛島に会わなければならないと感じたのはなぜなのだろう。湯田は穏やかな表情を見せる椛島に会って自問自答していた。
「私を知らない人が、よく面会をさせてもらえましたね」
「さあ、ちょっと知り合いに頼んだからかもな。
君に惹かれるものがあったからな」
「初対面ですが、私もそんな気がしますよ」
椛島の蛇のような瞳は、湯田をしっかりととらえた。その視線をいなすようにして、湯田は言葉を出した。
「椛島さん、あなたはなぜ宝田百合を殺したのですか」
湯田の言葉をゆっくりと受け止めた椛島は、無表情のまま口を開いた。
「殺した理由は自分たちを守るためだよ」
「守るためだ」
湯田はなぜその言葉が椛島の口から出たのか理解できずに、繰り返すように言葉を出した。
「守るため、何を……」
「あなたに言ってもわからないさ」
「そんなことはない」
湯田はなぜか強く否定をした。そんな湯田を見て、椛島は言葉を出した。
「こんな話ばかりをしているから、この間精神鑑定を受けさせられたよ。
だが責任能力は正常だったらしい。
だから私が罪を逃れるために、狂言を言っていると思われているようだが……」
「そう思われても仕方がないだろうな」
確かに湯田にもそれは虚言ではないかと思うことしかできなかった。だがどこかで椛島が言う事も理解できる気がしていた。
「自分を守るため……いやもっと大きな世界を守るためにやった事だけれども、それを一般の人たちは理解できないだろうな」
椛島は少しだけ前かがみになり、上目遣いで湯田をしっかりと先ほどとは異なる力のこもった蛇のような目で捉えた。
「あなたには、そのうち理解できるような気がしますよ。
私がなぜそのような行為を行ったのか」
椛島は湯田と向かい合ってから、はじめて頬を緩めた。湯田は真剣な表情で、それを受け止めることしかできなかった。
「そうか、そのうち理解できるのか……」
自分だけで納得するような表情を湯田は見せた。そこから二人の間にしばしぼ沈黙が生まれた。その間も湯田は、大気がうねっている感覚を覚えていた。
「またそのうち顔を見せにくるよ」
「いえ、もう必要ないでしょう。
私があなたにこれ以上影響を与えることはないと思いますから」
椛島はそれだけを言うと、席を立ち、湯田に軽く頭を下げてから面会室から出ていった。
湯田は拘置所から出た足で、祖恵村を訪ねた。
「湯田さん、先日はどうも」
顔を見せた祖恵村は、今でも薫を転送した光景が瞼に焼き付いているようであった。目の前で起きたこととは言え、信じることができない事柄なのだが、湯田を見ていると信じることができるような気がしてくる不思議な感覚を覚えた。
「こちらこそ、面倒をかけたね。
ところで今日は椛島が捕らえられた山の中へと行きたいのだけれども、その時にいた刑事さんを紹介してもらいたくてね」
「その時の刑事ですか」
祖恵村はすぐに峰を思い出し、湯田を置いたまま峰を呼びに行き、三人は応接室へと入った。
「祖恵村さん、なぜこの方が、椛島が捕らえられた場所へ行きたいと……」
いきなりそのような事を言われて、峰は湯田を記者か何かではないかと勘ぐってしまったが、それであれば祖惠村が自分に合わせることもないと考えた。だが事件に関係のない湯田がどうして自らを訪ねてきたのか、峰には想像がつかなかった。
「宝田さんのことに関して、関連があるからじゃないのかな」
「関連ですか」
それだけではわからない。峰は疑問を表情へと浮かべた。その疑問を解くというわけではないが、湯田が口を開いた。
「君は宝田さんと、椛島の戦いを見ていたのだと聞いているのだが……」
湯田は本題を口にした。峰はその言葉で、思い出すように、一度目瞼のスクリーンに情景を映し出してから話しはじめた。
「はい、誰も信じてくれないでしょうが、あの時の事は、私も信じられないものでした。
修正者だとか使徒とか、わけのわからない話の中で、自分の身体が動かなくなったり、椛島が宙へと浮かんだり……」
まだまだ思い出すと話したいことが出てきた。そう思っていた峰の言葉を湯田は遮った。
「私は、その場所に惹かれるものがあるのだ」
「惹かれるって、どうして関係のないあなたが……」
話を削がれたことよりも、そんな場所に惹かれるこの湯田という人物は、どのような人物なのか……峰はそちらの方が気になってしまった。何か修正者や使徒に関係があるのかどうか……。
「先日、宝田さんをウインザーという人の元へ転送したんだ。
それをやったのがこの湯田さんなんだ」
祖恵村が薫と湯田の関連性を峰に説明した。
「宝田さんを転送……」
峰にはそのことが何なのかわからなかった。祖恵村は、それを自分もよくわからないが、実際目にしたのだと説明を加えた。峰は何となく自分たちの力が及ばない世界がこの世の中にはあることを理解した上で、湯田を不思議そうな目で捉えた。
「湯田さん、あなたは何者なのですか」
素直な峰の疑問であった。薫、椛島に関連があるという事は、先ほど感じたように修正者だか使徒だかというものに関する人物かもしれない……。だが自らの直観を信じてよいものかどうか……。
「さあ、私が何者なのかは私にもわからない。
ただ宝田さんにも、椛島にも惹かれるものがあった。
それを確認するためにも、二人が対峙した場所へ行きたい。だから場所を教えてもらいたいんだ。もしかするとそこで、あなたがいうように私が何者かがわかるかもしれない」
峰は湯田の存在に対して、薫や椛島の存在に対しても、実際に見た光景だったとしても、本当に何がどのようになっているのか、未だに信じられない状態であった。そしてそれを実際に知ることができるとは思っていない。けれども少なからず椛島がいうように地球の創生、自分たちの存在に対して何かがわかるのであれば……そんな気持ちが自分を駆り立てるようであった。
「何者かなどという質問をして申し訳なかったです。誰でも自分の存在なんて何だかわからないですよね。でも、そこで湯田さんが感じている何かがわかるというのでしたら、お連れしましょう」
気持ちの決まった峰の行動は早かった。今泉に出かけるからうまく誤魔化しておいてくれと言い残し、湯田、祖恵村と共に車で、信じられない光景が起きた、薫と椛島の戦いのあった山の中へと向かった。
「峰君、まだ歩くのかい」
結構山奥の方まで来たなと、疲れはじめた足を見て、祖恵村は問いかけた。
「もう少し先です」
峰は思い出すように行く先を見つめた。この先で起きたことを現実だと自らが感じるためにも、その場所へ行きたかった。
湯田は何かを感じているのか、ふと空を見上げた。
「やはり空がうねっている気がする」
その言葉につられるように峰も祖恵村も空を見上げるが、いつもと変わらない、普通の空にしか見えなかった。
「うねるとは……」
「さあ、何かを感じるのは私だけなのかもしれないな」
峰の問いに湯田は淡々と答えた。身体自体も何かを感じるように共鳴している気が湯田はしていた。その感覚も一緒にいる二人には、全く理解できないものなのだろう。だから言葉にせず、湯田はそれを自らの心にしまった。
「湯田さんにも、何か宝田さんや椛島のようなことが起こるのでしょうか」
「さあな」
峰に問いかけられた祖恵村は、軽く答え湯田を見た。心配であったからだ。薫を転送した時に起きた奇妙な現象が再び起こるかもしれない。今でも信じられない事柄が、再び自らの眼の前で起こるとしたら、自分はどのような事を考えるのであろうか……そして湯田はどのようになってしまうのか……。
三人は奇妙な感覚のまま、山道を登っていった。そして滝が見えてきた時に、湯田は思わず立ち止まった。
「あの滝のところに、椛島が浮遊した状態で宝田さんを待っていました」
峰が今でも不思議な光景であったと思い出しながら、二人に説明をした。その言葉に祖恵村が思わず反応した。
「人間が浮遊しているなんて……まあ私たちも転送という名で消えていく宝田さんを見ていたからあり得ないとは思えないが……やはり信じられないというのが素直な感想だな」
そんな二人のやり取りを耳に入れることもせず、湯田は一人、水辺へ向かって歩きだした。
「湯田さん、滝に近づくと危ないですよ」
そんな祖恵村の言葉を気にも留めず、湯田は池の中へと足を踏み入れた。そして立ち止まり、滝を見上げた。薫を転送した平泉の地とは異なる、それでいながらも似ているような雰囲気を身体全体で受け止めた。
ふと薫と椛島が戦っていた時の映像が、湯田の脳裏へと浮かんできた。
「あの二人の戦いは、このように行われていたのか」
峰も祖恵村も、そんな言葉を池の中で言う湯田に近づけずにいた。
二人が戦っていた。湯田の言葉は、この地に対するものとしか思えていない。脳裏に浮かぶ光景など、実際には湯田にしか見えないものであった。
「そして、俺がやるべきことが……啓示と使命が……」
ふと両手を広げた湯田は、自らの運命を全て理解し、受け止めているかのように見えた。
「湯田さん、大丈夫ですか」
祖恵村が一人で呟く湯田を心配し、声をかけた。その問いに振り向くこともせずに湯田は頷いた。
「ここまで導いてくれてありがとう。そしてさよならだ」
二人はいきなり別れを告げる湯田が、何を考えているのかわからなかった。
だが次の瞬間、光が湯田を包み込むという超常現象を目にした。
祖恵村は、薫が転送された時に似ていると思った。そうだとしたら……。
やがてその光りは強くなり、峰と祖恵村は耐えられずに瞼を閉じた。
そして目を開けた時に、湯田の姿は忽然と消えていた。
「人間が、湯田さんが消えた」
峰の一言を最後に、二人は言葉を失い、ただただ湯田が消えた滝のほうをずっと見ていた。
ウインザーはロメロが待つコンピュータールームへと急いでいた。先ほどウクライナの浮遊石に異常な気配があったと告げられたからだ。
「ロメロ、何があったのですか」
ウインザーが言葉を出したのは、コンピュータールームの扉を開けるのとほぼ同時であった。なぜか急がなくてはならないという逸る気持ちがそこにはあった。
「辿っていた浮遊石の回線が一度切れました」
ロメロは振り返ることなく、キーボードを叩きながら答えた。
「それはもしかして、修正者が使徒にやられたという事なのですか」
最悪な事態を想定してウインザーが問いただした。
「そうかもしれないです。だが再び浮遊石に接続はできました。
けれども電波が弱い状態で完全に確認が取れていません」
ロメロは必死に電波状態が良くなるようにキーボードを叩いた。
「それは、まだ修正者がやられていないという事なのだろうか」
「さあわからないですが、交信し続けてみるしかなさそうです」
ロメロはキーボードを叩き続けた。ウインザーも自らの浮遊石を取り出し、キーボードを映し出し、それを叩いた。ロメロは何かを感じたのか、キーボードを叩く手を止めた。
「ちょっと気になる現象ですね。
けれどももしかしたらこの電波状況ならば転送できるかもしれない」
「ウクライナに行けるという事ですか」
「ええ、どうしますかウインザー」
ウインザーは少しだけ考えた。ウクライナに行ってしまったら、今後使徒の位置が判明できた時、自分以外に身動きを取ることができるのはジョフレだけであった。薫の能力の書き換え作業はまだ終わっていないからだ。薫の書き換えなどを行っているロメロが、コンピュータールームから出ることは避けたい。 そう考えると、今は自らがその場に行くことが最善だとウインザーは判断した。
「わかりました。私が行きます」
「よし、転送ルームの準備はここから遠隔でやっておきます。あとは自分でできますよね」
「ああ、基礎だけやっておいてもらえれば後は平気だ」
「わかりました」
ロメロはウクライナの浮遊石の状態を確認すると共に、もう一つのキーボードをいじりながら、転送の準備へと入った。
ウインザーは急いで転送ルームへと入ると、状態をチェックし、転送装置を作動させた。そして光りの中へと飛び込むようにして、消えていった。
ウインザーは転送された先で、自らの浮遊石が共鳴する場所を探した。夜の闇の中で大通りへと出ると、光りが近づいてくることに気が付いた。車であった。ウインザーはその車へと手をあげた。すると車はウインザーのところで止まってくれた。
「こんな夜中になんだい」
中年の男は、窓を全開にしてウインザーに答えた。
「申し訳ないがこの場所へと行きたいのですが」
ウインザーはスマートフォンを出し、そこへ映し出された地図を男に見せた。
「こんな夜中にヒッチハイクか、危ない野郎だな。一歩間違ったら殺されてもしかたないぜ」
運転手は笑いながら大げさなジェスチャーをした。自分たち修正者にとって、一般人はそれほどの危険ではない。ウインザーはそう確信していた。もしも危害を加えられそうならば、あまりやりたくはないがソースを修正して相手の動きを止めればいいと回避する方法を知っていたからだ。
「まあ俺が通ったのも何かの縁だろう。うちから近い位置だから送ってやるよ」
男は親指を立てて、ドアの鍵を開けた。
「ありがとうございます」
ウインザーは開けられた助手席へと乗った。
陽気に話をする運転手の言葉を適当にかわしながら、車はしばらく走ると男の家のそばで止まった。
「悪いがここまでだ。でもここからは近いから歩いていけるだろう」
話を聞いてくれたウインザーに好意を持ったのか、運転手は上機嫌に方向を指さした。その方向をスマートフォンで確認して
「ありがとうございます。少ないですが取っておいてください」
とウインザーは紙幣を運転手へと渡した。それは大体の国で換金ができる基軸通貨であった。男は金額を確かめると、ほんの少ししか運転していないのにと恐縮した表情を見せた。
「おい、こんなにいいのか」
「はい、ありがとうございました」
それだけを言うと、ウインザーは素早く車を降り、浮遊石が存在すると思われる目的地へと走った。
そこには規制線が張られた家が存在していた。
その周りには規制線を引いた警察官が乗ってきた警察車両が数台止まっていた。
警察がいるということは、やはり何かがあったのだとウインザーは予想した。そして近くにいる野次馬にウインザーは話を聞いた。その話によると、家の主人である男が殺され、子供たちは近くの親類の家へと保護されているという事であった。
もしも殺された主人が修正者であったのであれば、薫と同じように能力が子供に移行される可能性が考えられた。その子供を保護することが今は最優先であるとウインザーは考えた。しかし親戚の家などを知るはずもない。どうすればよいか妙案が欲しい。そこで自分よりも浮遊石を知る、であろう男へ確認をするために浮遊石を出した。
「ロメロ、ウクライナの浮遊石は確認できますか」
ウインザーはロメロへと交信をした。すぐに出たロメロはウインザーの目の前にある家に浮遊石があると画面で確認をして回答した。
「浮遊石はその家の中にあるようです」
「もしかするとそこで修正者がやられたのか……。その方には子供がいるようなのですが、何とか浮遊石を次の所有者へと移行することはできないですか」
「浮遊石を、ですか……もしも薫と同じように能力が子供に移行されるのであれば、浮遊石が動く可能性はあるかもしれないですね。ちょっと刺激を与えてみます」
ロメロは手元のキーボードを叩き、修正者と使徒しか知りえないであろう回線から、浮遊石へと手を加えてみた。するとシンドレンコの近くに落ちていた浮遊石が浮かび上がった。家の中を調べていた警察が、浮かび上がる石を見てびっくりしている間に、浮遊石は家を飛び出していった。
「ウインザー、浮遊石が動き出しました」
「わかりました。位置を確認します」
ウインザーは交信を途絶えさせると、スマートフォンの地図で、浮遊石が動いていることが確認した。もしも修正者の能力が移行されたとしても、再び使徒に倒されてしまっては元も子もない。ウインザーは素早く浮遊石を追跡しはじめた。
浮遊石を追跡するウインザーがウクライナに入る数時間前、シンドレンコを殺し、パトカーを奪ったチャンは山の中に潜伏していた。その山の中で、捕まえた獲物を食べるために火をおこし、犬を焼いていたのだ。その犬が野犬なのか飼い犬なのかはわからないが、焼き終えた犬の肉に、チャンはむしゃぶりついていた。
「人を殺すのも、動物を殺すのも、飯を食べるのも、全ては自分のため……それをやるために使徒なんていう大義名分があるのはありがたいな」
チャンはしゃぶりつくした骨を、無造作に土の上へと放り投げた。その時、脳裏にアーナンダの声が聞こえてきた。
「何か」
アーナンダたちには崇高な使徒としての思いがあるのはわかっていた。だからこそ自らと相いれない感覚が、チャンにとっては鼻につくようであった。だからぶっきらぼうに答えたのだ。
「最近わかった事なのですが、修正者の能力が子供などに移行されることが判明しました。先ほどあなたが倒した修正者には子供が三人いるようです。その子供たちの誰かに能力が移行されている可能性があるので、突き止めて倒してもらえますか」
アーナンダからは能力が移行した人間だけを倒せと言われても、三人いると聞いたからには三人とも手をかけよう。チャンは心の中で人を殺す感触を思い出すように、ほくそ笑んだ。
「そうか、まだまだ殺してもいい人間がいるっていうのか」
「忘れないでください。私たちは現状の世界を維持するために戦っているという事を……ただの人殺しになることだけは避けてください」
アーナンダの冷静な声に苛立ちを覚えながらも、チャンは冷静に言葉を出した。
「ああ、忘れてはいないよ。だが殺せばいいという事には変わりないだろう」
うるさい奴だ。チャンはどうせ自分の思惑は他の使徒にはばれているとわかっていた。だが使徒として最低限の事をしておけば、こいつらに文句を言われる筋合いはないとも考えていた。
「それはそうですが、あまり自分の能力を一般人に向けないようにしてくださいね」
「なるべくそうするよ」
チャンは繰り返される注意による苛立ちを吹き飛ばすように立ち上がると、忌々しそうにアーナンダの言葉を脳裏から外した。
「見張られているようで嫌だな。
まあ我慢するか、まだまだ人を殺していいんだから」
それだけを言うとチャンは山を下りていった。
そしてシェフチェンコたちがいる親類の家へとチャンはたどり着いた。ここにまだ殺してもいい命がある。しかも三つも……。高鳴る思いで、インターホンを鳴らすこともせず、チャンは牛刀の柄を使い、窓を壊し、家の中へと入り込んだ。
「なんだあんたは」
シンドレンコの兄にあたる男が、チャンの姿を見て声をあげた。その異常さに気が付いた三人の子供たちは、居間の奥にある部屋へと逃げ込んだ。台所にいた妻も居間の異変に気が付き、夫であるシンドレンコの兄の元へと来た。
「何だってか、あんたたちを全て殺しに来た男だよ」
チャンは不意に飛び上がり、夫の腹を刺した。その光景を見て驚いた妻は逃げようとするが、チャンはその背中へと飛び掛かり牛刀を振り下ろした。二人は一瞬のうちに床の上へと倒れた。チャン高揚し、痛みに歪んでいる二人を見て不敵な笑みを見せた。
「さて、本命はどこにいるのかな」
チャンは続きの間になっている部屋の扉を開けた。そこにはシェフチェンコの他に、兄と妹の姿があった。
「当たり」
チャンはまだまだ人殺しができるという高揚感を引きずっていた。その好奇な表情を見た時、シェフチェンコは父を殺した男であると確信し、怒りが自らの身体を覆うような感覚を覚えた。
「こいつだ、父さんを殺したのは」
思わず言葉が出たが、三人も身体が動くことはなかった。特に妹は一番恐怖に怯えているのか、兄たちの後ろで腰を抜かしていた。
「そうか、俺があの男を殺したことを知っているのか。そしてお前たちが子供ということか」
恐怖で固まった表情を見せている獲物に、舐めまわすようにチャンは下品な笑みを見せた。
「まだ修正者としての能力は誰も目覚めていないようだな。だったらアーナンダの言っていたことなど気にせず、全員やればいいか。
セキュリティを上げることをする必要もないだろうから、とりあえず殺すだけでいいか」
飛び上がり牛刀を振るおうとしたチャンに、衝撃波が当たった。
チャンは驚いた。まだ誰も修正者としての能力に目覚めていないはずだと思っていたからだ。だとしたら他の修正者の出現なのか、チャンは衝撃波の来た方向を振り向いた。
そこにはウインザーが浮遊石から出したキーボードを手に、すぐに次のコードを完成させるべく指を動かしていた。
「新たな修正者か」
「もう好きにはさせないからな」
ウインザーは先ほど打ち込んでいたコードの衝撃波を出した。チャンの頭上にあるウインザーにしか見えないソースが書き換えられていく。だがシンドレンコの時と同じように、チャンのセキュリティコードは思いもよらずに増えていった。
「なんだ、今までの使徒にはこんなことはなかったぞ」
ウインザーは混乱した。セキュリティを超えようとしているのに、それを超えることによって、逆にセキュリティが増えていく。どのように対処すればよいのか、ウインザーの考えは及ばなかった。
チャンはその迷いを見逃さなかった。シェフチェンコ達よりも先にこの男を倒す方が先決だと考えたからだ。優先順位をつけると、すぐさま牛刀を持ってウインザーへと襲い掛かった。ウインザーはギリギリでその攻撃をかわすが、連続して襲ってくるチャンの攻撃は早かった。いつか捉えられてしまうかもしれない。ウインザーは腕に軽い痛みを感じた。
その時に、ウインザーがシンドレンコの元から追ってきた浮遊石が三人の兄弟の前に現れた。
「何だ、この石は」
思わずシェフチェンコが浮遊石を掴んだ。その瞬間に大きく光りが走り、居合わせた全ての者が、一瞬目をつむった。
ただ一人、シェフチェンコだけはその光りの中で違う光景を見ていた。目の前に父がチャンに殺される瞬間が浮かんだ。そしてそこから父の記憶を遡るかのように、不意に修正者という者がなぜ生まれたのかという事を理解した。だが頭の回路がその容量についていけず、ショートするようにシェフチェンコはその場に倒れた。兄はそんなシェフチェンコを心配するように抱き上げた。
ウインザーは光の影響から解き放たれ目を開けると、再びコードを完成させ、数回セキュリティを書き換えようとチャンに攻撃するが、先ほどと同じように、チャンのコードはより複雑に変わっていった。
「楽しいだろう。お前たちが考えるような修正など、俺には通用しないんだよ」
チャンは不敵な笑みを浮かべ、楽しむようにして、牛刀についているウインザーの血を自らの肌に当てた。
これ以上チャンのセキュリティが上がることは、自らに取って不利になることをウインザーは理解した。だが何もしないでいるという事は、自らがやられることを意味した。何か方法を見つけなければならないと、ウインザーは頭をフル回転させることしかできなかった。
シェフチェンコは理不尽にさらされていた。倒れている頭の中で、その理不尽に対して、自分たちが考える常識などは通用しなかった。やりたい放題する自分たちの思いのままに行動するチャンのような人間たちは、結局は誠意などを持って話し合おうとしても無理であった。そこには同じような理屈が存在しないからであった。そんな人間たちに対してできるとしたら武力というもの以外は存在しないと思った。武力は最大の攻撃でもあり、防御でもあるのだ。
そんなシェフチェンコの見ている光景が、なぜかウインザーの頭の中にも巡ってきた。
理不尽に対抗できるもの……それが何であるのか……。ウインザーはチャンの攻撃を避けながらそれを考えているが、それによって一瞬の動きが遅くなってしまった。そこを狙うかのようにチャンが襲ってきた。何とかギリギリで避けるのだが、致命傷にならないまでも、傷は無数に増えていった。
その時であった。ふと目を覚ましたシェフチェンコが暴走したように、チャンへと殴り掛かった。思わずその威力にチャンが吹っ飛んだ。
「なんだ、こいつは」
転がったチャンが言葉を吐いた時に、シェフチェンコは素早い動きでチャンへと襲い掛かった。チャンは何とか回転してそれを避けると、シェフチェンコを見た。
「こいつか、能力が移行したって奴は」
通常の人間であれば使徒の能力でも動きを遅くしたりできるのであろうが、修正者に対してチャンの能力は及ばなかった。そんなシェフチェンコの動きは、ある意味バグから成り立つ才能というものであったかもしれなかった。しかも修正者としての能力が加わったためか、通常の動きでは考えられない速さであった。
「俺たち使徒は、才能以外の能力が倍増していく奇跡的力があるが、こいつにもそんな能力があるのか」
再び襲いかかってくるシェフチェンコの拳がチャンをとらえようとしていた。しかしチャンはそれを何とか避け、怯えるように座り込んでいるシェフチェンコの妹を人質に取った。
「これでそう簡単には攻められないだろう」
卑怯なチャンを見て、思わずシェフチェンコは先ほどの暴走のような状態ではなく理性を得た。もしもこのまま攻めようとしても、チャンは妹を盾にするに違いない。だが何もしなければ妹を殺される可能性があった。
「お前たちが考える常識なんてどうでもいいんだ。使徒としての使命も、それなりに遂行すればいいんだ。だがな、ただ俺は自分の理不尽な欲望を通したいだけなんだよ」
妹を後ろから抑えたまま、チャンは牛刀を腹めがけて振り下ろした。だがそれに反応した長男は勇敢であった。思い切り体当たりをしてチャンを吹き飛ばした。地面に転がったチャンはすぐさま体制を整えた。
「そうか、じゃあ望みどおりに、お前から殺してやる」
長男にチャンが襲い掛かろうとした時であった。シェフチェンコが素早くチャンに殴りかかった。それにより再びチャンが吹っ飛んだ。
シェフチェンコは二人の兄弟を守るよう、身を盾のようにして立ちふさがった。
「そっちはそのまま動けないってか、じゃあ先にもう一人の修正者でもやっつけるか」
チャンがウインザーへと向き直った。そこにウインザーは衝撃波を加えた。
「莫迦な、お前の攻撃は俺のセキュリティを強くすることを忘れたのか」
高笑いをしながら言うチャンに対して、再びウインザーは衝撃波を与えた。
「いいのか、俺が強化されても」
「もうそんなことはない」
チャンは再び放たれた衝撃波をわざとくらうように、大きく両手を広げてそれを受け止めた。
「これでいいんだ」
四度放たれたウインザーの衝撃波が当たった時に、チャンは自らの動きがおかしくなるような感覚を覚えた。もしかして、そう思い自らの身体を見た時であった。ウインザーが勝ち誇った顔でチャンを見た。
「お前のセキュリティはもう崩壊しているよ」
「何だって、何で俺のセキュリティが……」
チャンが自らの身体に不具合を感じながら、大きな声を出した。
「お前が修正をかけてもセキュリティが増える理由、それはお前たち民族の理不尽さにあったのだろう。
倫理を得ていない者に、それを教え込もうとしても反発してしまう。それがお前のセキュリティが増える理由だ。
だから逆にお前を肯定するコードを打ち込んで、その上で人としての教育プログラムを打ち込んだんだ」
理不尽が通らない。というよりも自らの欲望を抑えようとする感情が心の中に芽生えている感覚を、違和感としてチャンは感じ取った。
「もしかして、それで俺のセキュリティを壊したっていうのか」
チャンは恐ろしくなった感情を表情へと出した。
「そうだ、まあ人格までは直らないだろうが、使徒としての能力を消すことはできそうだな」
話しながらキーボードを打ち続けたウインザーの衝撃波がチャンを襲った。それによってチャンが少しだけ小さくなったように見えた。
「これで俺は使徒ではなくなったってことか」
その言葉を吐くと同時に、シェフチェンコの拳がチャンの頬をとらえた。チャンはそのまま床へと転がり、気を失った。
「大丈夫ですか」
シェフチェンコは血まみれになっているウインザーへと近づいた。ウインザーはその存在を確認すると、小さく頷いて答えた。
「あなたは修正者なのですね」
今度はウインザーの質問にシェフチェンコが頷いて答えた。シンドレンコの能力が移行された時、自らの使命を理解したのだとウインザーは勝手に解釈した。あとはロメロにシンドレンコの能力を、薫と同じように書き換えてもらうだけだと考えていた。
「それにしても兄弟の方が守れて何よりです」
怯えている妹へとウインザーは笑顔を見せた。目を覚ましたチャンはその隙に外へと逃げだした。
そのまま誰もいない夜の闇の中へ入り、辺りに誰もいないことを確認するとチャンは一息ついた。
「ちくしょう能力が無くなっちまった」
悔しい表情を見せるが、チャンはすぐに冷静になった。使徒としての能力が無くなったとはいえ、自らの欲望を満たすことはまだまだできると考えていたからだ。そんな思いがチャンを微笑ませた。だがその時、チャンは腕が動かなくなっていることに気が付いた。
「なんだ、誰かが俺の能力を……」
辺りを見渡した時に、チャンの前に一人の老人が現れた。湯田であった。
「何だお前は」
チャンは虚勢を張るが、腕が動かない状態で何ができるのか、自問自答していた。ただ所詮相手は老人だ。足だけでも動けば何とかなると考えていた。
「君たち民族は原始のままで脳みそが止まっているようだな。
倫理や道徳といった成長の無い国で自己中心的な行動ばかりだ。
それがバグのせいなのかどうなのかはわからないが、最後には恐怖と武力で抑えられるしかない」
語られる言葉に嫌気をさしながらチャンは湯田を睨みつけた。
「なんだそれは」
「武力を失った時に、君は絶望を覚えるしかないだろう。
現代の衛生観念すら持ち合わせず、無造作に食い漁った結果、たまたま使徒となってしまったのだろう」
「だから何なんだよ」
チャンは苛立ちを覚え、湯田に蹴りを加えようとした。しかし湯田は身動きの遅くなっているチャンに手こずることはなかった。あっさりとそれを避け、衝撃波をチャンへと当てた。
「文明を持ったふりをしただけの悪烈な人間よ。私の前から消えるがいい」
湯田が言った時には、チャンは光りに包まれ、その場から消えた。
「さて、転送能力を使ったからしばらくは休まないとだめそうだな」
湯田は疲れた表情でため息をつき、ゆっくりと歩きはじめた。
とある山中に光りの環が現れた。それを近くにいる肉食動物たちは、怯えるように隠れて見ていた。しかしそこに獲物が現れたということを、しばらくしてから認識していた。
「ちくしょう、何で俺ばっかりこんな目に」
チャンは光の環が消えた真っ暗な闇の中で、立ち上がった。先ほどの戦いの中でウインザーの血が身体に塗りたくられていた。その匂いに引き寄せられてきた動物たちの足音に、チャンは恐怖を覚えた。
怯えの原因はわかっていた。先ほど飛ばされる前と同じように腕が未だに動かないからであった。この状態で獣たちに襲われたとしたらひとたまりもないのではないか……チャンは今までにないほどの恐怖に襲われた。
「武器があれば、俺の方が食物連鎖では上位にいるはずなのに、丸腰になった途端に下位になっちまうってことか」
チャンはどうにかしてこの場を走り去ろうとした。しかし動きの速さで肉食の動物たちに勝てるはずがなかった。
「うわ~、やめてくれ」
血の匂いを漂わせるチャンに肉食動物たちは、容赦なく襲い掛かった。
チャンがなくなった山中とは異なり、小さな集落の中に、一人の男が立っていた。
頭上に鎮座する太陽は、容赦なく男を照らしていた。しかしその光りを受けて男は、神々しくも見えるようなたくましい姿の影を、大地に映していた。
「あなた」
後方から声をかけてきたのはその男の妻であった。乳飲み子を抱えながら、立ちすくむ男の横へと歩み寄った。
「どうした」
肉体のたくましさとは異なり、男は優しい目を妻と子供へと向けた。その瞳には、何かが解明できたというような清々しささえも感じられた。
「この子のお迎えがもうすぐくるような気がします」
そう言うと女は愛おしい視線を息子へと向けた。それに釣られるように、男も息子を見つめた。
「お迎えか、それもまた一つの心理なのだろう」
「はい、この世に必要とされている人物になることでしょう」
「必要な……本当に必要な物とは何なのだろう。それは私たちにはわからないだろう。
けれども、それが創生者の与えた運命であるならば、私たちはそれを受け入れなければならない」
「はい」
妻は夫へと寄り添った。
そしてその手の中に抱かれた乳飲み子は、穏やかな表情を両親へと向けた。




