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バグ (完全版)  作者: 祓川雄次


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2/10

 宝田百合が失踪した結婚式前日……。

 湯田は、自らの部屋の中で、パソコンと向き合っていた。

 元々コンピューターシステムを作る技術者であった湯田は、定年を迎えてから遊びでシステムを作ったりして楽しんでいた。

 けれどもシステムが出来るとそれを見せていた連れ合いも数年前に亡くなり、楽しみは半減し、今は暇を潰すための作業としてキーボードを叩く、少し寂しい日々が続いていた。

「先日作ったシステムのバグの修正がなかなか終わらないな」

 集中していたせいか、時間の感覚を忘れパソコンの前で数時間キーボードを叩いていた湯田は、肩に血液が溜まり、凝る感覚を覚えた。凝った筋肉を解していると、ふと部屋の中に飾られている亡き妻の写真が目に留まった。

【あまり根を詰めないほうがいいですよ】

 生前良く言われていた言葉が頭の中を過った。確かに妻をほったらかしにして、良く不機嫌な顔をされたものであった。だがそんな二人の生活の中には、お互いを思いやる優しさがあったはずだ。それは出来上がったシステムを見た時の妻の顔が物語っていた。

 ふと思い出すと、湯田は立ち上がり、部屋を出た。

 台所にある家電たちは、生前妻が選んだものだ。それは未だに現役で使えるし、その思い出に浸ることもできるため、買い替えるという選択はなかった。

 その中の一台であるコーヒーメーカーは、妻がコーヒー好きの湯田のために選んだものであったが、最近は面倒さが勝ってしまうために、インスタントのものばかりを作ってしまうのであるが……。

「画面ばかり見ていたからな、ゆっくりコーヒーでも入れるか」

 湯田は久しぶりにコーヒーメーカーに触れた。妻の温もりはもうないが、そこに存在しているかのような錯覚に陥ることも、たまにはあった。出てくるコーヒーを待ちながら、湯田は大きく背伸びをした。それによって固まった筋肉に血液が回り、弛緩していく感覚が心地よかった。

「さて、今日中にバグの修正ができるかな」

 遊びとはいえ、あまりにも行数を書いているためか、やっとバグを突き止め、修正作業をしている最中であった。それが修正できたとしても、更に先に何が起こっているかを調べて、完璧なシステムを作ろうとしている。仕事でもないし、金になる当てもないものであるが、余生の時間潰しという上で、湯田はその作業を続けてきていた。

 ブラックのコーヒーでお気に入りのカップを埋めると、湯田は一口だけそれを飲んだ。それによって、何となく頭が冴えるような錯覚を覚えた。これでもう少しパソコンに向き合えるかな……。そんな事を考えながら、湯田はコーヒーカップを持ち、部屋の中へと戻っていった。

 パソコンの画面には設定したスクリーンセイバーが作動し、幾何学模様がウネウネと画面の中を、ところ狭し、と動いていた。今のパソコンにそんな物が必要ないのは理解できてはいるが、湯田はこの画面がお気に入りであった。

「さて、続きをやるか」

 コーヒーを再び口にして、マウスを手にすると、画面を支配していたスクリーンセイバーは姿を消した。だがそこに存在するはずの、先ほどまでいじっていたシステムの画面が消えていることに湯田は驚いた。

 そして画面を支配していたのは、今までのソースと入れ替わるように、見た事のないソースが羅列されていたのであった。

「何だこれは」

 湯田はそのシステムを消し、以前のソースへと戻そうとするが、何をしても一行に消すことができなかった。

「これはどうなっているのだ」

 そのソースを読んでみるが、明らかに今までの湯田の経験上では、見た事のない言語がそこには存在していた。湯田は読んでいるうちに逆にそのソースへ興味を覚え、しばらくその先へと読み進むが、どうしても読み解くことができなかった。

「それにしてもどうしてこんな見た事のないページに……」

 ふとインターネットにつながっているのかと考えたが、ルーターのスイッチは切ったままになっていた。どこかのwi-Fiが入り込んでいるのかと確認をするが、インターネットに繋がっていることはなかった。

「インターネットでもなく、パソコンの中でもない……。

 一体このパソコンはどこに繋がっているんだ」

 湯田は色々とキーボードをいじってみるが、答えを見つけることはできなかった。

 とりあえず強制終了をして、再起動をしてみよう。

 湯田はコーヒーを飲みながら、再び起動するパソコンを待った。

 いつもよりも長く感じる時間の中、先ほど離れた時の行動を思い出おこした。

 部屋を出て、コーヒーを入れて戻る。それ以外には何もなかった。

 その間にパソコンに何かをしたわけではない。ルーターのスイッチを毎回切る癖は、外部から他者が入り込むことがないようにという、湯田の警戒心であった。けれどもそれ以前に、今回は回線には一切繋いでいない。だからパソコンの中へ、何者も侵入することができるはずはなかった。

 それでは自分で何かをしたのか……いや何もしてない。自分の行動をいくら振り返ってみても不穏な行動は一切ないのだ。

 ではどうしてこのような画面に切り替わってしまったのか……。

 パソコンの再起動が終わり、再び画面が表示された。しかしその画面は湯田が見たこともないソースが並べられている、先ほどの画面と変わることはなかった。

「どうしたらいいんだ」

 湯田は再びソースを解読しはじめるが、何の事だかさっぱり理解ができなかった。

 そんな中で、思わず目に留まった物があった。

「これをいじるとどうなる」

 思わず触りそうになる手を、湯田はキーボードから離した。他が解読できていない状態で問題だと思えている箇所をいじった場合、いったい何が起こるのかと、不安になったからだ。

 その不安に乗じるかのように、湯田の部屋の電気が落ちた。

「停電……」

 湯田は暗くなった部屋の中を、携帯電話のライトで照らした。

 これがデスクトップのパソコンでなく、ノートパソコンであったならば、充電で電源が保たれていたはずなのにと思いながら、部屋を出て分電盤のある物置へと入った。湯田が思った通り、ブレーカーが落ちていたのだ。しかしながらそれほどの電力を使っていたわけではないのに、なぜブレーカーが落ちたのか、湯田は不思議でならなかった。

 ブレーカーを上げ、部屋へと戻り、気持ちを落ち着かせるために、コーヒーを一口飲んだ。少し冷めかけたコーヒーが気持ちを落ち着かせてくれた。

 さて、パソコンがどのようになってしまっているのか……湯田はパソコンを立ち上げるために電源スイッチを押した。しかしパソコンは全く反応しなかった。

「どうしたんだ」

 数回電源スイッチを押すが、何の反応はなかった。不思議に首を傾げた。

「今まで作ったシステムがあるのに、どうするか」

 細かく保存作業をしているから、ある程度は大丈夫であろう。そんな事を思いながら、しばらくの時間を置いても、再び起動を試みるがパソコンが立ち上がることはなかった。

「嫌になっちゃうな。ハードディスクだけでも取り出しておくか」

 湯田は仕方なくドライバーセットを用意して、パソコンを分解しはじめた。今まで自作パソコンを数台作ったことがあるので、何をどのようにすればよいのかは理解していた。

 だがある程度分解をした時に、電気機器の中からあり得ない物が出てきた。それは手の平にスッポリと納まるほどの小さな石であった。

「何でこんな物が入っているのだ」

 湯田は不思議で仕方がなかった。このパソコン自体、自らが組んだものであった。作る時に自分が入れた記憶などない物がそこに存在しているのだ。誰かが部屋に侵入して、パソコンの中へと石を入れたのか……いや入れるのであれば石などではなく、情報を盗んだり、盗撮したり、盗聴できるような物を仕込むはずだ。盗撮、盗聴であるならば、わざわざパソコンの中へと入れるよりも、コンセントなどのタップの中に付けたほうが簡単であった。だがそれ以前に老人一人が住む家に、そのような物をつけたとしても何も面白味はないであろう。そう考えると、ますます不思議に思えてきた。

 先ほどの解読不能のソースといい、存在として理解ができない石……。

湯田はどのように結びつけようとしても、答えを導き出すことはできなかった。

 翌朝、起きていつもの通り、健康維持のために行っている朝の散歩へと出ようとした。

そのときであった。

 空を見上げて湯田は驚いた。大きな空が、スクリーンセイバーのように回ったり歪んだりしながら、うねりを上げていたのだ。思わず開いた口が塞がらなかった。

「一体……」

 これは自分にだけ起きていることなのか、それとも誰もが共有しているものなのか……湯田は驚きのあまり動くことができなかった。そんな中、昨日の解読不能のソースの中に、唯一理解ができたソースがあったことを思い出した。だがそれが空を歪めることなど、現実社会の中で何かを起こすなどという事は、あり得ない話であった。

 湯田は散歩を諦め、部屋の中へと籠った。予備として置きっぱなしにしているノートパソコンを立ち上げ、インターネットへと接続した。パソコンの中の石、空のうねり、解読不能なソース……そのような検索ワードを幾ら入れたところで、その存在がわかるものは当たり前のように出てくることはなかった。

「明日、祖恵村君のところにでも行って聞いてみるか」

 湯田は一日中パソコンをいじり、疲れ切ったのか、その日は早く休んでしまった。

 翌日、少し早く起きた湯田は、のんびりと朝食の準備をしていた。

亡くなる直前、病院のベッドにいた妻が、朝食くらいはちゃんと食べて、という言葉を忠実に守っているのだ。ご飯を炊き、みそ汁を作る。それに昨日の夕食の残りなどが、湯田のいつもの朝食であった。

 それを平らげ、祖恵村に会うには少し早い時間かもしれないと思いながらも、のんびりと歩いていけばよいと考え、湯田は家を出た。空は未だにうねっているが、なるべく上をみないように歩けばよいと、湯田は足元ばかりを気にするようにしていた。

 そして警察署の前で、なぜか胸騒ぎがする若い男たちと遭遇した。そして少しだけ話をする機会があった。

 湯田は、走り去っていく男たちの乗った車を、見えなくなるまで見送った。

 なぜ自分が彼ら、いやどちらかと言えばそのうちの一人なのだが、気になって仕方がなかった。だがただのすれ違いだろうと、気持ちを切り替えるために軽く考えた。そう思い、思わず空を見上げると、スクリーンセイバーのようにうごめく空は、更に複雑になっているように思えた。

 祖恵村が待合にいる湯田の元へと出てきたのは、湯田が面会を申し出てから三〇分近くしてからであった。

「湯田さん、すみません。ちょっと朝から用事があったもので」

 祖恵村はどんな作業をしていたのかわからないが、少しだけ疲れているようであった。定年間際で体力も落ちてきているから仕方がない。祖恵村はそんな風に考えていた。

「ああ、受付にもそう言われていたから大丈夫。

 老人には時間はたっぷりあるからな」

 湯田は皺の刻まれた顔を緩めた。祖惠村も同じように弛緩した笑顔を見せた。

「それにしても何年振りでしょうか」

「さあ下手したら妻の葬式の後、一回会ったくらいかな」

 湯田が思い出すように言った。

「そうでしたっけ……まあ立ち話何ですから、こちらへどうぞ」

 そう言うと祖恵村は応接室へと湯田を案内した。

「それで話とは」

 対面するように座ると祖江村は話を進めるために口を開いた。その言葉に湯田はポケットから、パソコンの中から出てきた石を取り出し、机へと置いた。

「何ですか、この石は」

 怪訝な表情を祖恵村は見せた。

「これがパソコンの中から出てきたのだ。そんな事例を見た事はあるかい」

 祖恵村は不思議そうに湯田が置いた石を、手に取って見た。なんの変哲もない石である。電気部品でもない物がパソコンの中に入っていることなどある訳がない。祖恵村はその意見をそのまま湯田へと伝えた。

「そうだよな、こんな物が入っているなんてこと、私も今まで見たことがないからな」

 湯田も祖恵村がそんな石の存在を知っているとは思っていなかった。ただ誰にも話せない事柄なので、軽い気持ちで聞きに来たのであった。そしてここからが本番であった。湯田は昨日パソコンの画面を占拠していた、覚えている限りのソースコードを羅列した紙を祖恵村に見せた。

「今はこのようなコードの配列など使っているのかな」

 祖恵村は差し出された紙を受け取り、まじまじと読んでいく。湯田は、もしかしたら自分が知らないようなコードが現在はできたのかもしれないと、そんな事も考えて祖恵村に相談しにきたのだ。しかし祖惠村は何度となく頭を悩ませるような表情を見せながら、コードを読み進んだ。そして解読に疲れたのか、大きくため息をついた。

「いや、こんなコードは見た事ないですね」

 祖恵村は難解に思えるコードを見て、頭を悩ませた。

「そうか、じゃあどうして私のパソコンにこんなソースが羅列されていたのだろう」

 湯田は知らないコードが画面を占拠した光景を思い出しながら言葉を吐いた。

「湯田さんが書いたりしたものじゃないのですね」

 祖惠村は、なぜこのようなコードがあるのか、もしかしたら湯田が何かをしようとして、自分を担ぎにきたのではないかと考えた。だが湯田はそれをきっぱり否定した。

「ああ、私のパソコンの画面がいきなりこのソースだけになり……」

 湯田は思い出しながら、一昨日に起きた不思議な現象を祖恵村に一から話した。それを聞いた祖恵村は、驚きの表情を見せた。

「そんな事が起こったのですね。しかし信じられませんね」

 首を捻る祖恵村に湯田は頷いた。

「こんな夢のような話をしにきて申し訳ない」

 湯田は自分のような老人とは異なり、仕事をしている祖惠村の時間を奪ってしまった事に対して頭を下げた。祖惠村は、ならうようにして頭を下げた。

「とんでもないです。こちらこそ力になれなくて」

「もしも何かわかるようであれば連絡をくれないか」

「わかりました」

 それだけを言うと湯田は警察署を後にした。

未だに不気味に見える空に、自分の身体が、脳がおかしくなってしまったのではないかと考えたが、それはもう少し様子を見て、どうしようもなく身体に変調が起きた時に病院に行けばよいと、軽く思っていた。


 とある別荘地の一番奥に、現在使われていない風化し、廃墟のようになっている別荘が一軒あった。その屋敷の駐車場に、一台の4WDのブレーキが踏まれた。

 その車が高速道路を降り、別荘地へとたどり着く一カ月前、椛島は会社を辞めた。正確には辞めることを迫られたという方が確かであろう。

まさか自分がリストラ候補となり、二〇年近く務めてきた会社を去ることになろうとは思いもよらなかった。

 リストラを受け入れるかどうするかの締め切り最終日に、早期退社に応えたという事もあり、それなりの退職金を手にしたが、今後の人生を考えると、このくらいの金額では到底足りるはずがなかった。それでもすぐに仕事を探すという気持ちにはならず、早い時間から立ち飲み屋などを回り、相当酔っ払って自宅へと帰った時であった。

 誰もいないワンルームの部屋が、いつもよりも寂しく思えるのは、椛島の気持ちがそうさせていたのであろう。

「俺の人生なんて、こんなものなのかなぁ」

 自分の能力の無さがいけなかったのか、それとも神頼みではないが、誰かが勝手に決めた運命というものなのか……。

 リストラだけではなく、自分の人生が好転しない事を誰かのせいにしたい気持ちもあるし、立ち回りなどが悪かった自分自身の能力の無さにも嘆いてしまう。

 そんな事を考えているうちに、酔いと共に思考がいつの間にか、椛島を眠りへと導いていた。

 そして白い、何もない空間へ、自らが存在している事を理解できたのは、それなりの時間が経過してからであった。

「ここは」

 酔っ払った頭のせいなのか、ただの夢の中なのか、それすら理解できないまま、椛島は仮想空間のような世界を見渡すことしかできなかった。

「ようこそ、同士よ」

 思わず後方から聞こえた声に、椛島は振り向いた。

 そこには椛島よりも明らかに若い、ヨーロッパ人と思える男が一人立っていた。

 やはり夢なのだろう。椛島はそう確信した。なぜならば日本語以外の言語を話すことのできない自分が、海外の言葉を理解できるはずがない。そこから割り出された答えであった。

「私の言葉が理解できることが信じられないのか」

 思いを当てられて、椛島は小さな恐怖を覚えた。夢の中だと思いながらも、自らの気持ちを制限できるものではなかった。

「怖がることはない」

 またしても心の中を読み取られた。椛島は辺りを見渡すが、何もない白い空間の中では隠れる場所さえも存在していなかった。

「お前は一体何者なんだ」

 恐怖から自然と言葉が口から飛び出した。男はゆっくりと椛島へ答えた。

「先ほども言ったでしょう、同士だと」

 身動き一つしない男に椛島は言葉を返した。

「同士って、俺はお前のことなんか知らないぞ」

 後ずさりをしようと思いながらも、身体が動くことはなかった。

「そうでしょう、神により使命を与えられし者たちが目覚めるのは、今なのですから」

 こいつは夢であり、妄想なのだ。椛島は先ほどの結論のように思ったが、自分が産み出した夢の中での出来事であるならば、どのような頭の構造に今の自分がなっているのか、と理解に苦しんだ。

「妄想でも何でもないですよ。

 あなたの夢の中に入り、直接私が話をさせてもらっているのですから」

「夢の中に入るって」

 夢なのだから気にすることはない。それでも椛島は早く覚めたかった。それによって恐れが解消されるのならば、睡眠など放棄したいものであった。

「ある意味、お告げだと思ってください」

「お告げ……誰からの」

「先ほども言ったように、神より与えられた、あなたの成すべき使命ですよ」

「それをお前が伝えに来たと」

「その通りです」

 椛島の頭の中は、夢とはいえ、いや夢であるからこそ混乱していたのかもしれない。

「もう訳がわからないな。もう俺自体がリストラやら何やらで、頭がおかしくなっているんだろうな」

 椛島は今の自分の状況を考えると笑う以外に方法がなかった。夢の中の出来事であるとしたら、笑うという事すら、自らの意思とは反するところで動いているのだ。自分を客観的に見ている姿に更に笑みが浮かんでしまった。

 もうどうでもいいか、椛島は吐き捨てるように、自らの意思を消し、流れに身を任せた。しょせん夢なのだからと……

「それで、神が俺に与える使命とは何なんだ」

 椛島は自らの前に現れた男に問いただした。

「あなたの使命とは……」

 

 椛島は一カ月前に、そんな不思議な夢を見た。

そしてしばらく前に、夢の中で告げられたターゲットを、偶然駅で見かけたのだった。

俺の頭はおかしくなっているのかもしれないな。夢の世界が現実になって時に、思わず笑みを浮かべてしまった。そして行動を起こした。

 別荘地の駐車場に止めた車のエンジンを止め、椛島は悠然と煙草へと火をつけた。

煙草を咥えたまま運転席から降り、煙を吐き出した。澄んだ空気の中で、その煙は行く先を探し、やがて大気になじむように消えていった。

 椛島は大きく身体を天に届くかのように伸ばした。

「まさか生贄が、駅で見かけたあの娘だったとはな」

 車のトランクへと視線を移してから、廃墟となっている建物へと近づいた。

「ちょうどよく廃墟になっている別荘が見つかるとはな」

 独り言を呟きながら、椛島は再び煙を吐き出した。

「前回下見した時、偶然見つけた隠し部屋、あそこが一番いいよな」

 蛇のような視線を怪しく光らせながら、椛島はいやらしい笑いを浮かべ、車へと戻った。そしてトランクへバンと手を突き、思い切り煙を、肺の奥底へと吸い込んだ。

 ニコチンが身体の隅々まで回り、自らを覚醒するようにも感じられた。

 再びニヤリと笑い、椛島は先ほどよりも多くの煙を、空へと吐き出した。


 翌日、椛島は地下の隠し部屋の中で、血まみれになった百合を目の前にして、薄ら笑いを浮かべていた。椅子に鎖で繋がれた百合の身体は血まみれであった。とは言っても、あちこちを軽くナイフで切られている程度で、見た目よりも軽い状態であった。それでも切り傷が痛まないことはなかった。

「助けて」

 身体中血だらけで、痺れと痛み、それと共に恐怖を感じながら、力の無い声を上げる百合を、椛島は正面の椅子に座りながら確認していた。そんな椛島自身、酸化した赤というよりも黒い血にまみれていた。だがそれは切り裂いた百合の柔い皮膚から流れ出る血を、自らの身体に塗ったものであり、自分の血液ではなかった。

「何で私がこんな目にあわなければならないの」

 百合の問いかける弱い声に、椛島は何も答えなかった。

 煙草を口に咥え、火をつけると、椛島は煙をうまそうに肺の奥底まで吸い込み、百合の元へと歩むために立ち上がった。その手には血まみれのナイフが握られていた。

 また切られる。近づいてくる恐怖に百合の顔が歪んだ。

「誰か、助けて」

 だが百合の声は部屋の中へと木霊するだけで、椛島以外の者の耳に届くことはなかった。


 薫はコンビニエンスストアのレジの前で弁当の温めを待っていた。

 家で食事を作る気力が起きなかったのだ。とりあえず何をするにしても体力だけはつけておかなければならない。村木に今朝言った言葉を自らに言い聞かせていた。

 疲れている身体を引きずるようにしてコンビニエンスストアを出た薫の前を、今日警察署の前ではじめて見た老人が歩いていた。

「また会ってしまったね」

 湯田は歩きはじめようとする薫に気づき、声をかけた。

 薫は警察署に知り合いがいると言っていた老人と再び顔を合わせるとは思っていなかった。しかも空がどうこうなどという、痴呆かもしれないと思われる人物に使っている時間などは無いと考えていた。

「偶然ですね。ちょっと先を急ぐので失礼します」

 早めにこの場を去ろうと薫が動こうとした瞬間に、湯田のポケットが光った。その光りの強さに思わず湯田も薫も一瞬目を閉じた。

「何ですか、その光りは」

 光りに慣れたのか、薫は思わず湯田に驚きの声をかけた。

「いや、私にもわからない」

 湯田はそう言うと、ポケットの中に手を突っ込み、光る物質を取り出した。

 手の平に収まるほどの石のような物は、先ほどよりも光りが弱くなった感じを受けるが、未だに発光したままであった。

「さっき言っていたパソコンの中から出てきた石ですか」

 薫が警察署前の会話を思い出して言った。

「そうだが、私もこんな風に光っているのははじめて見たのだが……」

 二人は不思議な光景に言葉を失った。その二人の沈黙に乗じるかのように、石が湯田の手の平から浮かび上がり、ゆっくりと浮遊し、薫の胸の前で浮遊したまま止まった。

「何ですか、これは」

「さあ、私にもその石の存在はわからないのだ」

 その瞬間、石がキーンという高い音を鳴らし始めた。モスキート音ではないかと思える高さの音に、二人は驚くことしかできなかった。

「君に共鳴しているのかもしれないな」

 高音に顔を歪ませながら湯田が言葉を出した。

「何で私に……」

「さあわからない、だがこの石は君を探していたのかもしれない。

 そう考えると、私は君と石を引き合わせるために存在したのかもしれない」

「……」

 薫はただの湯田の妄想と考えたいが、実際に目の前で起きていることを思うとそう単純に決めることはできなかった。特に浮遊する石の存在は、マジックという言葉以外に片付けることはできないようであった。

「石が君を求めている。それを手中に……」

 湯田が自分と石が共鳴しているというのであれば、この音は自分が手にすることによって納まるのか……薫はとりあえずふと思った事を実行に移した。

 手を差し伸べた薫の手の平に、石はゆっくりと着地した。そして先ほどまで響いていた音はいつの間にか消えてしまった。

「この石が何をするための物なのか、私も判断はつかない。

 ただ今は君が持っていることが賢明なようだ」

 そのような事を湯田に言われても薫は納得できなかった。しかしながらもしも手の中から石が離れた時に、再び先ほどのように光りを放ったり、高音を出されたりしては困ると思い、薫はそれを持ち帰ることしかできなかった。

 家に帰り、薫は恐る恐る石を机の上に置いた。けれども先ほどのように、光ったり高温を発したりという現象が起こることはなかった。

湯田が言うように、薫にとって必要な石なのかどうか、それは現段階でわかることはなかった。

 とりあえず落ち着こう。薫は冷めかけてしまっている弁当を食べ始めた。

その時、石が再び浮かび上がった。

 薫は呆然としてその石を見上げた。すると石は薫から離れ、居間に置かれているパソコンの前へと浮遊した。

「一体、今度は何が起こるっていうんだ」

 薫は湯田が、この石の存在がパソコンの中にあったという言葉を思い出した。だからと言って自分のパソコンの中に入る訳ではないだろう。そう思った時に、パソコンの電源がふいに入った。

 薫は立ち上がり、何が起きているのだろうとパソコンを確認した。

 遠隔操作で誰かが侵入してきたのであろうか……。

 そんな事を考えた瞬間、一瞬ではあるが画面が強い光りを発した。その眩しさに思わず薫は目を閉じた。

 しばらくして目を開けてもすぐに視界が落ち着くことはなかったが、ボーと見えるようになってきた視線の先には、先ほど光りを発した画面に映し出されている物があった。

「この地図は一体……」

 薫が驚愕しながら、画面を確認するためにマウスをいじるが、画面上ではその地図を拡大と縮小しかすることができなかった。

 何があるかはわからないが、今自分がいる位置と、地図の中で示されたポイントを確認していく。

「ここって、別荘地じゃないか」

 薫はなぜその画面が写し出されたのか訳もわからず、他の画面に切り替わることのできないパソコンをじっと見つめていた。このままこの画面を見ていても何もならない。思わず薫の脳裏に村木の顔が浮かんだ。


 家に帰ってきたのは良いが、この後どのような行動をしょうかと悩んでいる村木の携帯電話が不意に鳴った。ディスプレイを確認すると、薫からであり、村木は飛びつくようにして電話を手にした。

「お兄さん、何かありましたか」

 百合から何かの連絡があったのかもしれない。そう思った村木の思いは、薫によってすすぐに裏切られた。だが思ってもいない言葉が薫から発せられた。

「ちょっとうちまで来られないか」

「わかりました、すぐに向かいます」

 百合からの連絡がなかったとしても、自分を呼ぶという事は、何かしらの進展があったに違いない。そう考え村木はすぐに薫の待つ家に姿を現した。

「ちょっとパソコンを見てくれ」

 居間に迎え入れた村木に、間髪入れずに薫はパソコンを見せた。その画面は先ほどと変わることなく、別荘地を示していた。

「これは何を示した地図ですか」

 村木は意味が解らずに薫に尋ねた。薫は湯田から半分無理やり引き継いだ石の存在と、その石が浮遊し、パソコンの画面がこのようになったという説明を簡単にした。

「何だか訳が分からないですね。石が勝手に飛ぶなんて……。

 でもお兄さんの言ったことならば信じましょう」

 半信半疑なまま、村木はパソコンの横に置かれた石を見た。

 湯田という老人と一緒の時に光ったというが、それすらも信じることができない。あの老人の妄想に、薫まで取り疲れてしまったのであろうか…。村木はそう思わざるを得なかった。しかしその村木の考えを払拭するかのように、石は再びゆっくりと浮遊し、改めてパソコンの画面の前へと浮かびあがった。

村木は自らが信じえなかった想像が目の前で起きていることに、言葉を失った。自分もあの老人の妄想にとり憑かれてしまったのではないか……そう考えると、頭の中が混乱してしまった。

「さっきと同じ現象だ」

 薫の言葉に対して、未だに妄想としか思えない村木は、何も反応することができなかった。

 次の瞬間画面が光り、浮遊していた石は再びパソコンの横へと鎮座した。

「目の前で見ても信じられませんね。

 でもこの地図が何かの手がかりになっているのでしょうか」

 この際信じる、信じないはどうでも良かった。これを手掛かりとして百合の居場所が特定できるのであれば、今は行動に移すしかない。薫も村木も同じ考えであった。

「もしもこれが妄想などでないとしたら、百合はここにいるのかもしれない」

「とりあえず確かめてみる価値があるかもしれないですね」

 二人の気持ちは固まった。何もできない状態でヤキモキしているよりも、行動に移しているほうが気持ちは楽であったからだ。

「何かあった時に私たちだけだと危ないかもしれないな。峰さんに連絡をしてみよう」

 薫は自分抑制し、村木の気持ちも走らせないために、ある種ストパーとしての存在が欲しかった。峰ならば適任である。そう思い、電波を飛ばした。


 峰が携帯電話に出たのは、警察署の中であった。先ほどまで回れるだけ不審車両の存在を調べていたのだ。今泉はなぜ峰がこの問題にここまでのめり込むのかわからずに、とりあえず捜査に付き合っていた。

 署に返ってきたばかりの峰は、おかしな薫の言葉を耳にすることになった。

「峰さん、ちょっとパソコンがおかしなことになって、別荘地が映し出されたんです」

「はい……」

 唐突に言われた言葉に、峰は薫が何を言っているのか皆目見当がつかずに、聞き返すように気の抜けた言葉を発した。薫は峰のあっけにとられた返答に再度言葉を続けた。

「もしかしたらこの別荘地に百合がいるかもしれないんです」

 薫は気持ちを押さえようとしているが、峰には逸るような言葉としかとらえられなかった。それよりも現状が把握できずもう一度確認するように、峰は薫の言っている事を理解しようと試みた。

「よく言っている意味がわかりません。

 そんな不確定な事で私たちは動けないですよ」

「確かに信じられないことが起きています。

 けれどもうちに来てもらえればわかると思います」

 薫も峰がこんな事を信じて動くとは思っていない。だが一つの可能性を信じてみようとしか考えられなかった。そして今までに起きた現象を改めて、簡単に説明した。

 峰は納得したわけではないが、兎に角顔を出す以外ないと思った。これ以上自分たちが捜査をする以外に、薫たちに荒らされるわけにはいかない。そう思えたからであった。

「わかりました。そちらへ向かいます」

 峰は電波を遮断すると仕方がないというように頭を掻いた。

「何かあったのですか」

 今泉は調べていた書類から目を離して、一段落というように尋ねた。

「よくわからないが来てくれという事だ。彼らの身勝手で俺たちの動きが制限されるのも嫌なのだがな……。

 ただ気になることがある。ちょっと交通課に行って、百合さんが失踪した早朝の高速にあの車が映っているかどうか確認してくれ」

 荒らされたくないという気持ちがある反面、どうも峰には動かなければならないというような、勘のようなものが働いていた。

「高速って、じゃあ高速に乗るまでのシステムを確認するって事ですか」

 飛んでもない事を言う、と今泉は思った。どれだけ膨大なデータの中から調べなければならないのか……。思わず今泉は、口をあけ放ってしまった。その表情を見て、確かに何を言っているのか……と自らを疑ってしまうが、それでも調べなければならないと峰は、改めて今泉に頼んだ。

「できる限りでいい、宝田さんの家から一番近い入口、できればそこまでの間にあの車種の車が確認できるか」

「そんなすぐには無理でしょう」

 無理強いを強いられ、今泉はあきれ顔を見せた。

「早朝の限られた時間の確認だけでいいんだ。

 その間に俺は宝田さんの家に行ってくる」

 峰はそれだけを言うとすぐに警察署を飛び出すように出ていった。

 その後ろ姿を見送った今泉は、やはりこの件に対して峰がのめり込みすぎだろうと思いながらも、仕方なく交通課へと向かった。できるだけ峰の要求がすぐに見つかることだけを願って、思わずため息をついた。

 峰が宝田家に着くと、村木が来た時と同じような現象が起こった。

「こんな不思議な事がおこるなんて」

「私たちも信じられないのですが、何もしないよりも、と思いまして」

 二人に気おされるように、峰はパソコンの画面を見た。

「一度電源を落としてみようと試みたのですが、強制終了すらできないのですよ。

 しかも他の画面にいくこともできず、この画面も拡大と縮小しかできないのです」

 薫が今まで操作した状況を説明した。峰はそれを聞いて、本当に何もできないのかと、電源を落としたり、マウスをいじるが、何もできることはなかった。

 湯田という老人、不可解に浮遊する石、地図以外の事を語らないパソコン……。峰はなぜ自分がこんな不確定要素に気持ちが動いてしまうのか、刑事として今までなかった感情を自分自身、理解できなかった。ただ行動をしなくてはならないという、使命感とも思えない気持ちだけが、心の中に存在していた。

「ちょっと署まで来てください」

 峰は、薫が言うように動くとしても、今泉が調べている事を確認してから動きたかった。だから二人を警察署へと誘った。

 薫は村木の車に乗り込み、峰は来た車で警察署へと向かった。署に着くと峰はすぐに今泉の元へと向かい、声をかけた。

「今泉、どうだった」

 署で待ち構えていた今泉は、こんなに簡単に峰の思い通りに事が進むとは思っていなかったのか、真剣な表情で数枚の同車種が移された写真を提示した。

「時間がある程度特定できていたとは言え、すぐに見つかるとは思いませんでしたよ」

 峰はその写真を見ると、これからの行動が無駄足になるかもしれないが動かなければいけないと、再び使命感を胸に抱いた。

「峰さん、これはコンビニの防犯カメラに写っていた車種と同じという事ですか」

 薫は怪しい車があったという事だけしか知らされていなかったが、明らかにこの車が問題なのだろうと自分なりに理解し質問をした。

「やはりさっきの別荘地に百合が」

 続くように村木の憶測の言葉が漏れた。

「百合さんがいるかどうかはわかりませんが、あの時存在した車が高速を通ったのは間違いないようですね」

 峰は二人を落ち着かせるように、少しゆっくりとした口調で答えた。それで薫は確証を得た。百合は絶対に別荘地にいると……。

「峰さん、私たちはここに行ってみようと思います」

 薫の表情は真剣そのものであった。それにこたえるように峰は頷いた。

「では明日、私たちと一緒に行きますか」

 峰の言葉に薫は首を振った。

「いえ早い方がいいと思うので、これから出ようと思います」

「こんな時間から行っても夜です、危ないですよ」

 今泉が駄目だというように、言葉を吐いた。しかし薫の考えは変わることはなかった。

「兎に角、家でゆっくりしている気にはなれないんですよ。

 もしも峰さんたちに同行していただけないのであれば、私たちだけでも向かおうと思います」 

 薫も村木も、逸る気持ちを抑えられなかった。夜であろうと、自分たちの身に危険があろうと、百合を探しに行く。その決意は二人の眼を見れば判断できた。

「仕方がないですね」

 峰は諦めの表情を見せ、頭を掻いた。

 今泉はそんな峰の姿を見て、なんでそんなに簡単に答えが出せるのか、それ以前に何の確証も得ていない情報で動く気になるのか、全く理解できなかった。その気持ちが呆れるような言葉となって口を出た。

「峰さん、本当に行くのですか」

 峰は振り返ることなく答えた。

「ああ、お前は帰っていいぞ」

 冷たく突き放すような言い方に、言い出したら聞かない峰の性格を知っている今泉は、仕方ないと気持ちを切り替えた。相棒として、この状況で峰一人を行かせる訳にはいかない。

「ええ、わかりました。一緒に行きます。

 でもこれで何もないとしたら、この事件にばっかり掛かりっきりにはならないでくださいね。他にもやることはあるのですから」

 唯一、浮遊する石の存在を知らない今泉は、三人の話が妄想のようなにしか思えなかった。だから、峰をこの事件から引き離すためにも、この百合の失踪事件に自分なりのケリをつけたかった。

「宝田さん、村木さん、これでいいですか」

「はい、お願いします」

 薫も村木もまずはこの別荘地を調べなくてはならない。そんな気持ちでいっぱいであった。そして今泉が言うように問題がなければ警察が手を引く可能性があることも理解し、強く首を縦に振った。

 とりあえず署の車をこの段階で出すということはできないという判断で、村木が運転する車に四人は乗り込み、警察署を後にした。


 四人が向かっている別荘の中で、百合はあちこち切り刻まれた身体の痛みに、小さくうめくような声を上げていた。椛島はそんな百合の姿を見ながら、何か物思いに浸っているようであった。

「まだまだ、俺のセキリティを高めるために、生贄である君の血が必要なのだよ」

 百合には眼前に座ったままで語る、椛島の言葉の意味がわからなかった。目の前にいる男のセキュリティ……そんな事を言う椛島の頭は、百合に取って壊れているという認識しかできなかった。そして致命傷のような傷は無いが、いつ何をされるかわからないという恐怖が百合の頭の中を巡っていた。

「地球の創生から四六億年…」

 不意に椛島が自己陶酔のような顔で、淡々と語り始めた。それはゆっくりと百合の恐怖心が更に支配していくようであった。

「原始地球に天体が衝突して、月が分裂し、地殻形成がはじまったのが四四億年前。

 陸と海がうまれたのが四一億年前……。

 地球の創生から現在までの期間を一年として考えた時、それは二月に入ったばかりの話しだ」

 いやらしい笑いが、なおさら不気味に感じられた。やはりこの男の精神は壊れていると、百合は確証を得るような思いであった。

「化学反応によって、物質がうまれ、命の源となるタンパク質や核酸がうまれ、地球上の最初の生物がうまれたのが、三九億年前、二月末だ」

 この人は一体何を語っているのだろう。百合は痛みよりも淡々と言葉を繋ぐ椛島の頭の中に興味がわいた。しかしなぜこんな話をするのかが理解できなかった。そしてなぜ自分にこのようなことにした理由も……。

 相手はただの変質者ではない。それは理解できるが、どのような壊れ方をしているのか、理解できず不思議な感覚にしかならなかった。

 更に椛島の語りは続いていく。

「ここまで作られた地球のプログラム上で、バグは確認されていなかった」

 椛島の言葉で出てきたバグ、そしてセキュリティという言葉をコンピューター用語としてしか理解していない百合は、やはり頭の構造がおかしくなっているとしか思えず、恐怖でありながらも語り続ける椛島を呆然と見ることしかできなかった。

「光エネルギーからバクテリアが誕生したのが三五億年前。

 地球に強力な磁場が生まれ、宇宙から降り注ぐ有害な粒子を遮るように、光合成を行うシアノバクテリアが登場して、コロニーを作り出し、酸素の放出をはじめるのが二七億年前……」

 椛島は自己陶酔するように不意に立ち上がり、ウロウロと歩きながら、得意気に地球の創生の物語を語り続けた。

「火山活動が活発になり、大陸が成長しはじめたのが二六億年前。

 地球全体が氷に覆われて、凍結したのが二三億年前。

 この頃が7月くらいかな」

 椛島の視線が一瞬百合に注がれた。

【七月って、まだ生き物が生まれていないの】

 百合は自分の存在を無視して語られる創生の物語にいつしか惹かれていた。

 椛島は視線を再び泳がせて続けた。

「細胞に核を持つ真核生物の誕生が二二億年前。

 最初の超大陸ヌーナが誕生し、分裂を始めたのが一九億年前。

 八月に入った頃だ。

 多細胞生物の誕生は一二億年前、九月の末。

 そして一〇億年前に、超大陸ロディニアが形成される。

 それが一〇月半ばくらいの頃だ」

 椛島の語りは、どんどんと興に入っていった。

【この話と私の生贄という話は、どこかで繋がるの】

 百合はこの話のどこかで、自分がこのような状態になっている真意がわかるのではないかと思えたが、壊れると思っている椛島を見ていると、全てが虚言であり、妄想であるとしか思えなかった。その精神異常者に、ただたんに弄ばれているだけなのかとも思えてくる。

「この頃から、プログラム上に、バグが少しずつ見られるようになった」

 椛島は不意に歩みを止めて、百合に視線を刺すように移した。

 蛇に睨まれた蛙のごとく、百合は繋がれて動けぬまま、何が起こるのかという恐怖にかられた。

「これである程度の事がわかったかな」

 問いかけた言葉に反応しない百合に、再び同じ言葉を椛島は投げかけた。

 その答えがわからないまま、百合は口を開いた。

「地球の創生の語りと、私がこのような状態になっているという繋がりがわかるわけがないでしょう。

 一体あなたは何が言いたいの。私に何を理解しろと言うの」

 椛島は力なく言う百合を見て、楽しみと思えたのか、笑みを浮かべた。それは先ほどまでのいやらしい笑いとは異なり、百合を試すようなものであった。しかしその笑いを消すと、椛島は真顔になった。

 百合の背中に緊張が走った。

「昔、天に、今でいうプログラムをしようとしている者がいた」

 椛島は更に興奮し、言葉を出した。

「そんな神話みたいな話、やはりあなたが何を考えているか、まったく私には理解不能だわ」

 恐怖におののく表情で百合は小さく言った。

「ある意味、神話だよ」

 鋭い眼光で椛島は百合を射止めた。その眼光に百合は言葉を飲んだ。

「その者は、自分の能力を過信していたのだよ。

 先ほどの話しの通り、地球の創生を一月一日と考えた時から、一〇月の半ばまで、プログラムはその者の思い通りに進んでいた。

 その者は多いに満足していたのだろう。

 だが思いもよらずに、バグは発生した。

 能力がないその者は、あらゆる手段を使ってバグを修正しようとしたが、解決する術は見つからなかった。だから今の地球は、その者の思っていた地球ではないのだよ」

 椛島の表情が、狂気の笑みを浮かべた。

「そのプログラムを創った、その者って……」

 戯言に付き合うことはないと思いながらも、百合は思わず言葉を発してしまった。

 椛島は反応した百合に嬉しそうに答えた。

「まあ決まりきった者さ」

 得意気に答えると、再びウロウロと歩き回りながら、椛島は頬の筋肉を緩め、創生の歴史の続きを、淡々と、今度は抑揚なく語りはじめた。

「七憶年前、一一月に入ると、地球は凍結するほどの寒冷化と温暖化を繰り返していくことになる。

 六億年前、一一月の半ばには、オゾン層が形成され、有害な紫外線を遮るようになり、エディアカラ生物群と呼ばれる大型多細胞生物の出現、骨格を持つ動物が現れるようになる。

 このような生物が生まれることになろうとは、その者は想像していなかったのだろう。それが生まれなければ、自分の存在を脅かすようになる人間が産まれることもなかったろうに……」

「人間がその者の存在を脅かす……」

 その者とは一体何者なのか……。百合は少しずつ近づいてくる地球ではなく人間創生の歴史に、興味を持つ以外、何も考えることはできなかった。

 百合の質問に答えることなく、椛島の語りは続いた。

「分裂していた大陸が集まり、南半球にゴンドワナという超大陸が形成され、エディアカラ生物群が絶滅し、カンブリア紀動物群が出現する。そして多様化が始まり、魚類が出現するのが五億年前、一一月の末だ。

 その生物たちの大量絶滅が起き、浅い海や河口付近に藻類が出現し、湿地にはコケ植物が現れる。

 植物が陸へと上がり、節足動物が陸へと上がり、魚類が両生類と分かれ、超大陸ゴンドワナが分裂を始める。

 四億年前を過ぎる頃、一年としての歴史は一二月へと入る」

 地球創生の話しが終盤へと入ってきたからなのか、椛島の淡々と語っていた声の抑揚が強くなってきた。百合はなぜか痛みを忘れ、その話へと引き込まれていく。

「生物の大量絶滅が起こり、両生類から爬虫類が分化する。

 そして気温が低下して地球全体が氷河期へと入る。

 その中で爬虫類は多様化し、再び大陸が集まり、超大陸パンゲアが形成されるのが、三億年前を過ぎた一二月一一日頃……」

 歩き回る椛島の速度も、加速する話に比例して早くなっていく。

「海洋全体が酸欠となり、史上最大規模の生物の大量絶滅が起こり、恐竜時代へと突入する。

そこで哺乳類最古とされるネズミのような姿をしたアデロバシレウスが登場する。

 一二月一五日頃、パンゲアが分裂をはじめ、再び生物の大量絶滅が起こる。

 その後、鳥類が出現し、パンゲアが南北に分かれ、分裂して今の大陸の基礎が出来上がるのが一二月二一日」

 百合は今の大陸の基礎が、地球の創生から考えたら、こんなに遅いのかと、自分の知らない知識に驚きを隠せなかった。

「一二月二六日に巨大隕石が地球に激突し、恐竜が滅び、哺乳類の中からリスに似た原始霊長類が登場する。

 望まなかった動物たちを修正しようと創生者がプログラムに手を加えようとすればするほど、加速的に進んだバグは、もう見放す以外はなかった」

【だから創生者というのは……】

 百合は椛島からの返答を期待していないからか、疑問の言葉を頭の中で呟いた。

「一二月二九日、類人猿の祖先となる狭鼻猿が登場する。

 一二月三一日の午前一〇時四〇分頃、類人猿から分かれた最初の猿人であるトゥーマイ猿人が登場し、ホモサピエンスが午後一一時四〇分頃に誕生する」

 四十六億年前の地球創生期から、椛島の語りを聞いていた百合は、人間の存在が、地球にとっていかに小さいものだという実感を得た。一二月末と言えば、もう来年に向けて動き出す、師走と呼ばれる慌ただしい時なのである。聞いていてわかるのは、この語りに来年という物は存在しない。そう思うと、なおさら自分たち人間の存在が何であるのかと百合は考えてしまった。

「俺たち人間というのは、創生者のバグによって生まれた……いや動物の殆どがそうだ。

 産み出そうとして生まれたものではない。そして創生者は予期せぬ存在として生まれた人間を恐れ、今必死になっているという事だ」

 椛島は百合を正面から見据え再び背を向けて歩き始めた。

 ずっと聞いていた百合は疑問を投げかけた。答えが返ってこなくても、頭の中に浮かんだことを口にせずにはいられなかった。

「創生者が必死になっているのは何となく理解ができる。

 でもあなたが私を生贄にする理由はどうしてなの」

 百合の問いに対して答えるためか、椛島は歩を止め、再び百合に向き合った。

 ここから再び襲われるのか……恐怖が百合の身体と心を締め付けた。

「創生者はバグを直せない代わりに、修正者という存在をプログラムに書き加えた。

 その存在によって自らの思いと違い、歪んでしまった現在を直そうとしている。

 だが私たちはそんな修正を許したくない。いわばバグを肯定する人間たちだ。

 俺が聞いた話では、一二人の人間たちが、現在の地球をこのままの形で進めようとしているのだ。まあ人数から言っても、使徒という訳だな」

「創生者が望んだ世界を作らないようにするために……」

 この人の創作はもはや狂気だ。百合はそう思い、そこに自らが置かれている不幸と共に恐怖を感じていた。

「逆だ。結局バグも含め、今の地球自体を肯定するという事は、創生者を肯定することになり、尊重することになるのだ」

 椛島の言葉が、大きくなり、空気が振動した。

「でも創生者は修正することを望んでいるのよね」

 妄想に付き合おうとは思わないが、自分たちの意識が異なっていると理解すれば、自らに対する矛先は変わるのではないかと、百合は説得するように言った。だが強い呪縛のような椛島の考えは変わることはなかった。

「それは創生者の遊びみたいなものだよ。

 創生者がはじめに作った世界を尊重するためにも、私は使徒として、修正者に負けないセキュリティを得て、修正者を消さなければならないんだよ」

「だからって、私の血が必要な理由はなんなの」

 浅く切り刻み、百合の血を体中に塗りたくっている椛島が、なぜ血を求めるのか……その考えを知っても現状は何も変わることはない。それでも百合は知りたかった。

「いいか、使徒は修正者の血を浴びることによってセキュリティを上げることができるんだ」

「それは修正者という人の血でしょう。

 私の血が必要の意味はないでしょう」

 妄想に乗っかったとして、椛島が使徒という事は理解できた。しかし自分は当事者である修正者ではない。やはりただの頭のおかしい変な男に捕まったとしか、百合は考えることはできなかった。

 ナイフを手に、椛島は百合へと一歩、また一歩と近づいてきた。

 百合は今までにない恐怖と緊張感を覚えた。

「君はまだ目覚めていないんだよ、修正者としての能力に……」

「私が修正者……」

 百合は椛島が言う妄想の登場人物にされている自らを恨むことしかできなかった。

 椛島の蛇のような視線が、百合を捉えて離さなかった。

「そう、私が君の返り血を浴び、セキュリティを上げることによって、そして君の死によって、現在の世界を守ることになるのだよ。

 君には悪いが、修正者を犠牲にしなければ、現在の地球を守ることはできない」

「創生者は修正を望んでいるはずなのに……」

 百合は創生者が望んでいることを更に協調した。それは椛島が創生者を崇めていると信じたからであった。

「まだわからないのか……一度創った世界を守ることが、一番創生者の意図を尊重することになるのだと」

「そんな事、わからないわ」

 百合の強い意志のこもった眼を見て、椛島は意思を固くした。

「君が理解する必要はない。能力が目覚める前に、一思いに……」

 椛島が百合へと飛び掛かった。

百合は椅子に繋がれているせいで、振り下ろされるナイフを避けることはできなかった。

恐怖に歪んだ表情が、そのままで止まった。

 そして今までにないほどの鮮血が噴出し、椛島を包んでいった。



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